Rakuten infoseek

辞書

黒田清隆【くろだ きよたか】

美術人名辞典

黒田清隆
政治家・伯爵鹿児島県生。名は了介、号は羽皐。薩英戦争初陣し、薩長連合尽力戊辰戦争では参謀として従軍した。維新後は全権大使として日朝修好条規を締結、のち首相として憲法発布に携わる。のち枢密顧問官枢密院議長元老歴任。明治33年(1900)歿、61才。

出典:(株)思文閣

デジタル大辞泉

くろだ‐きよたか【黒田清隆】
[1840~1900]政治家。鹿児島の生まれ。戊辰(ぼしん)戦争で官軍参謀として五稜郭(ごりょうかく)を攻撃。明治維新後、北海道開拓長官。日朝修好条規を締結。明治21年(1888)首相に就任、大日本帝国憲法発布に当たったが、条約改正交渉失敗のため辞職

出典:小学館
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:田中牧郎、曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル版 日本人名大辞典+Plus

黒田清隆 くろだ-きよたか
1840-1900 明治時代の政治家。
天保(てんぽう)11年10月16日生まれ。坂本竜馬らと薩長同盟の成立につくす。明治7年参議兼開拓長官。9年特命全権弁理大臣として日朝修好条規を締結。14年開拓使官有物払い下げ問題で世論の攻撃をうけた。21年首相になったが条約改正に失敗,翌年辞任し,枢密顧問官となる。のち第2次伊藤内閣の逓信相,枢密院議長。伯爵。明治33年8月23日死去。61歳。薩摩(さつま)(鹿児島県)出身。通称は了介。

出典:講談社
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版

くろだきよたか【黒田清隆】
1840‐1900(天保11‐明治33)
明治期の軍人,政治家。薩摩国鹿児島城下に最下層の武士の子として生まれた。通称了介。早くから西郷隆盛大久保利通知遇を得て,1865年(慶応1)坂本竜馬らとともに薩長連合に尽力し世に知られる。68年(明治1)鳥羽・伏見の戦に参加し,次いで北越征討軍参謀として,長岡城の攻撃,庄内藩の処理にあたった。翌春箱館戦争にも参謀として活躍し,その際,敵将榎本武揚から《海律全書》を託された黒田は,榎本助命を主張し実現した。

出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.

大辞林 第三版

くろだきよたか【黒田清隆】
1840~1900) 政治家。初名、了介。薩摩藩出身。五稜郭ごりようかくの戦いで功をたてる。開拓長官となり北海道開拓に尽力。1888年首相、翌年条約改正交渉失敗で辞職。のち枢密院議長などを歴任。

出典:三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

黒田清隆
くろだきよたか
[生]天保11(1840).10.16. 薩摩,鹿児島
[没]1900.8.23. 東京
明治の政治家。薩摩藩士。薩英戦争戊辰戦争,および箱館征討参謀として五稜郭の戦いに参加。榎本武揚助命に働いたのは著名。明治2 (1869) 年,外務権大丞。同3年,北海道開拓使次官,1874~81年,参議兼北海道開拓使長官。 73年樺太放棄を寺島外務卿に上申。 75年,樺太=千島交換条約が締結された。同年特命全権弁理大臣として朝鮮で江華島事件の処理にあたり,76年,日朝修好条規 (江華島条約) を結んだ。 77年,西南戦争に征討参軍として参加。 81年開拓使官有物払下げ問題を大隈重信により非難され,辞任。 87年,第1次伊藤博文内閣の農商務相。 88年内閣を組織,89年2月首相として大日本帝国憲法の発布にあたった。 92~96年,第2次伊藤内閣の逓信相。 95年,枢密院議長。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)

黒田清隆
くろだきよたか
(1840―1900)
明治時代の政治家。天保(てんぽう)11年10月16日、薩摩(さつま)藩士清行の長男に生まれる。1863年(文久3)薩英戦争に参加。同年藩命により江戸の江川塾に入り砲術を学ぶ。1866年薩長連合の成立に尽力し、戊辰戦争(ぼしんせんそう)には参謀として従軍。箱館(はこだて)五稜郭(ごりょうかく)の攻撃を指揮した。1869年(明治2)外務権大丞(がいむごんのだいじょう)、ついで兵部大丞(ひょうぶだいじょう)となり、翌1870年樺太(からふと)(サハリン)専任の開拓次官に就任。樺太を放棄して北海道開拓に専念すべきを建議し、これは1875年樺太・千島交換条約として実現した。1871年開拓長官欠員につき長官代理となり、1874年陸軍中将兼参議、開拓長官に就任、アメリカ人ケプロンらを招いて、洋式農法の導入、官営工場の設置、炭鉱の開発、鉄道・道路の建設などを進めた。1874年には屯田兵(とんでんへい)を創設。1875年特命全権弁理大臣として江華島事件(こうかとうじけん)の処理にあたり、翌1876年日朝修好条規を締結。1877年西南戦争の際には征討参軍として、西郷隆盛(さいごうたかもり)軍と戦った。開拓使十年計画の満了を翌年に控えた1881年7月、その官有物を極端に有利な条件で同郷の五代友厚(ごだいともあつ)らに払い下げようとして激しい世論の批判を受け(開拓使官有物払下げ事件)、10月の「明治十四年の政変」によって払下げは中止、翌1882年開拓使は廃止されて、内閣顧問の閑職にかわった。1884年伯爵。1885年右大臣に登用の動きがおこったが、酒癖の悪さを問題とする天皇らの反対により実現しなかった。1887年第一次伊藤博文(いとうひろぶみ)内閣の農商務大臣に就任、ついで1888年内閣を組織した。同内閣のもとで大日本帝国憲法発布の式典を遂行。政党の動きに制約されず政策を推し進めるとの超然主義の立場を表明した。しかし、1889年条約改正交渉への反対運動が高まり、大隈重信(おおくましげのぶ)外相が襲撃されるに及んで辞職し、枢密顧問官となった。元老待遇を受け、1892年第二次伊藤内閣の逓信(ていしん)大臣、1895年枢密院議長に就任。明治33年8月23日脳出血のため死去した。大久保利通(おおくぼとしみち)没後の薩摩閥の中心人物であったが、長州閥に対しつねに劣勢であった。1878年には酒乱のため病妻を殺害したとの風評がたった。[大日方純夫]
『井黒弥太郎著『黒田清隆』新装版(1987・吉川弘文館) ▽御厨貴監修『歴代総理大臣伝記叢書2 黒田清隆』(2005・ゆまに書房) ▽奥田静夫著『青雲の果て――武人黒田清隆の戦い』(2007・北海道出版企画センター)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

精選版 日本国語大辞典

くろだ‐きよたか【黒田清隆】
政治家。伯爵。初名は了介。薩摩藩出身。幕末、官軍参謀として五稜郭(ごりょうかく)を攻撃。維新後、北海道開拓長官となる。西南戦争では征討参軍として活躍。明治一四年(一八八一)、開拓使官有物払い下げ事件で世論の非難を浴びた。のち、農商務相、首相、逓信相、枢密院議長を歴任。天保一一~明治三三年(一八四〇‐一九〇〇

出典:精選版 日本国語大辞典
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

黒田清隆」の用語解説はコトバンクが提供しています。

黒田清隆の関連情報

他サービスで検索

(C)The Asahi Shimbun Company /VOYAGE MARKETING, Inc. All rights reserved.
No reproduction or republication without written permission.