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鹿ヶ谷事件【ししがたにじけん】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

鹿ヶ谷事件
ししがたにじけん
安元3 (1177) 年5月,藤原成親,師光 (西光) ,成経,僧俊寛ら後白河院の近臣が,京都東山鹿ヶ谷の俊寛の山荘で行なった平氏討滅の密議発覚した事件。平清盛を中心とする平氏政権の強勢に対して,これを倒そうと志した後白河院のを受けて,上記4人のほか,近江中将成正,山城守基兼,式部大輔雅綱,平康頼,平資行らが参加し,摂津源氏多田行綱や北面の武士武力に頼って清盛討滅を企てた。しかし行綱の密告により,清盛は福原から上洛して一味を捕え,師光を死罪にし,成親を備前に,成経,俊寛,康頼を鬼界ヶ島に配流した。

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世界大百科事典 第2版

ししがたにじけん【鹿ヶ谷事件】
1177年(治承1)後白河法皇の近臣が平氏打倒を企てた陰謀事件。権大納言藤原成親,僧西光(藤原師光)が中心となり,平康頼,僧俊寛,藤原成経(成親の子)らが加わった。俊寛の京都東山鹿ヶ谷の山荘で謀議をこらしたので,こう呼ばれる。平氏一門の急速な台頭は貴族層との対立を激化していたが,藤原成親は左近衛大将地位をのぞんでいれられず,しかも平重盛宗盛が左右大将に任命されたので平氏を憎み,上記の西光らの院近臣や北面武士の多田蔵人行綱らと結んで平氏討滅の密議を重ねるにいたった。

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大辞林 第三版

ししがたにじけん【鹿ヶ谷事件】
1177年、俊寛・藤原成親なりちか・藤原師光もろみつ(西光)ら後白河法皇の近臣が、鹿ヶ谷の俊寛の山荘で平家討伐を謀議した事件。多田行綱の密告によって発覚、師光は死罪、成親・俊寛らは流罪。

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(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)

鹿ヶ谷事件
ししがたにじけん
1177年(治承1)5月、後白河院(ごしらかわいん)の近臣藤原成親(なりちか)・成経(なりつね)父子、藤原師光(もろみつ)(西光(さいこう))、法勝寺執行(ほっしょうじしぎょう)の俊寛(しゅんかん)、摂津(せっつ)源氏多田行綱(ゆきつな)らが、俊寛の京都・東山鹿ヶ谷山荘において平氏追討の謀議をした事件。その内容は、近づく祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)に乗じて六波羅(ろくはら)屋敷を攻撃し、一挙に平氏滅亡を図ろうとするものであった。しかし、事は多田行綱の密告によって事前に平清盛(きよもり)に発覚し、西光の白状により関係者は次々に捕らえられ処罰された。西光は死罪、成親は備中(びっちゅう)国(岡山県)に、俊寛・成経らは九州の南の果ての孤島鬼界ヶ島(きかいがしま)に配流された。この事件の主謀者がとくに一家の縁者(成親は平重盛(しげもり)の婿、成経は教盛(のりもり)の婿)であったことは、平氏にとってきわめて衝撃であった。以後、院と清盛との関係はますます悪化していった。[山口隼正]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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