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鳥羽天皇【とばてんのう】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

鳥羽天皇
とばてんのう
[生]康和5(1103).1.16. 京都
[没]保元1(1156).7.2. 京都
第 74代の天皇 (在位 1107~23) 。名,宗仁。法諱,空覚。堀河天皇の第1皇子,母は贈皇太后藤原苡子 (いし) 。誕生の年に皇太子となり,嘉承2 (07) 年即位,保安4 (23) 年崇徳天皇に譲位,大治4 (29) 年白河法皇の没後,崇徳,近衛,後白河の3天皇 28年間院政を行なった。永治1 (41) 年落髪,法皇となり,のち崇徳天皇に迫って,寵姫美福門院所生の皇太弟体仁親王 (近衛天皇) に譲位させた。この近衛天皇が早世すると,崇徳上皇の意を押え,美福門院や藤原忠通らとはかって後白河天皇を立てた。これは,のち保元の乱の大きな原因となった。天皇は催馬楽音律典故に長じ,また深く仏教を信じ,最勝寺,六勝寺など諸寺を創建,熊野にもしばしば詣でた。陵墓は京都市伏見区竹田内畑町の安楽寿院陵。

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デジタル大辞泉

とば‐てんのう〔‐テンワウ〕【鳥羽天皇】
[1103~1156]第74代天皇。在位1107~1123。堀河天皇の第1皇子。名は宗仁。白河法皇院政下に即位。法皇の死により院政を行い、崇徳近衛後白河天皇の3代28年に及んだ。後白河天皇擁立から保元の乱が起こる。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

鳥羽天皇 とばてんのう
1103-1156 平安時代後期,第74代天皇。在位1107-23。
康和5年1月16日生まれ。堀河天皇の第1皇子。母は藤原苡子(いし)。嘉承(かじょう)2年父の死により5歳で即位。祖父白河法皇の院政下にあり,譲位後もつづいた。大治(だいじ)4年白河法皇の没後院政をとり,崇徳(すとく)・近衛・後白河の3天皇28年におよんだ。保元(ほうげん)元年7月2日死去。54歳。墓所は安楽寿院陵(あんらくじゅいんのみささぎ)(京都市伏見区)。諱(いみな)は宗仁(むねひと)。法名は空覚。
【格言など】尋ねつるわれをや花もまちつらむけふぞ盛りに匂ひましける(「金葉和歌集」)

出典:講談社
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世界大百科事典 第2版

とばてんのう【鳥羽天皇】
1103‐56(康和5‐保元1)
第74代に数えられる天皇。在位1107‐23年。父は堀河天皇,母は女御(贈皇太后)苡子(藤原実季女)。諱(いみな)は宗仁。誕生の年に立太子,1107年(嘉承2)堀河天皇が没し即位。藤原忠実が摂政となる。13年(永久1)元服。23年(保安4)祖父白河法皇の意志で第1皇子顕仁親王(崇徳天皇)に譲位。崇徳は鳥羽の中宮璋子所生であるが,実は白河の子といわれる。29年(大治4)白河法皇が没して以後は崇徳,近衛,後白河の3代にかけて院政を行う。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

とばてんのう【鳥羽天皇】
1103~1156) 平安末期の第七四代天皇(在位1107~1123)。名は宗仁むねひと。堀河天皇第一皇子。崇徳・近衛・後白河の三代にわたって1129年から27年間、院政を行う。崇徳上皇と対立して後白河天皇を擁立、保元の乱の因となった。

出典:三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)

鳥羽天皇
とばてんのう
(1103―1156)
平安後期の天皇(在位1107~23)。名は宗仁(むねひと)。康和(こうわ)5年1月16日生まれ。堀河(ほりかわ)天皇の第一皇子。母は藤原実季(さねすえ)の娘苡子(いし)。生後7か月で立太子。父堀河天皇の病死の後を受けて1107年(嘉承2)5歳で即位したが、専制的な院政を行っていた祖父白河(しらかわ)上皇により23年(保安4)皇太子顕仁(あきひと)親王に譲位させられた(崇徳(すとく)天皇)。29年(大治4)白河の死後、崇徳、近衛(このえ)、後白河(ごしらかわ)三天皇28年間にわたって院政を行った。皇后待賢門院(たいけんもんいん)との仲が不和であり、藤原忠実(ただざね)の娘勲子(くんし)(のち泰子(たいし)と改める)を、上皇としては異例の皇后とした(高陽院(かやのいん))が、男子が生まれなかったので、藤原長実(ながざね)の娘得子(とくし)を入内(じゅだい)させ(美福門院(びふくもんいん))、皇子体仁(なりひと)親王が生まれた。生後3か月で皇太子とし、41年(永治1)崇徳天皇を譲位させ3歳で皇位につけ(近衛天皇)、同年自分は出家して法皇となった。55年(久寿2)近衛天皇が17歳で後嗣(こうし)もないまま早世すると、雅仁(まさひと)親王を皇位につけた(後白河天皇)。荘園(しょうえん)整理を強行した白河院政を転換し、寄進地系荘園を大量に認め、自らも安楽寿院(あんらくじゅいん)、八条女院(はちじょうにょいん)、歓喜光院(かんぎこういん)領荘園などを膨大に集積し、20回を超える熊野詣(くまのもう)でを行うなど白河と同様専制君主としての道を歩んだ。「わたしの出生は人力によるものではなく、神のしわざである」と自賛し、「天下を政(まつりごと)するは、上皇御一人なり」とも評された。また、「わたしが世を去ったならば、天下はたちまち乱れるであろう」(台記(たいき))と予言したといわれている。死の直後、予言どおりに保元(ほうげん)の乱が勃発(ぼっぱつ)した。保元元年7月2日死去。墓は京都市伏見(ふしみ)区竹田内畑(たけだうちはた)町の安楽寿院陵。[川島茂裕]
『安田元久著『日本の歴史7 院政と平氏』(1974・小学館)』

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367日誕生日大事典

鳥羽天皇 (とばてんのう)
生年月日:1103年1月16日
平安時代後期の第74代の天皇
1156年没

出典:日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」
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精選版 日本国語大辞典

とば‐てんのう ‥テンワウ【鳥羽天皇】
第七四代天皇(在位一一〇三‐二三)。堀河天皇の第一皇子。名は宗仁(むねひと)。母は藤原苡子。譲位後、崇徳・近衛・後白河三代二八年間院政を行なった。皇子崇徳上皇と不和となり、後白河天皇をたてたことから保元の乱が起こる。あつく仏教を信仰し、古書を好み、故事、音楽に通じ、笛に堪能であったという。康和五~保元元年(一一〇三‐五六

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