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長州藩【ちょうしゅうはん】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

長州藩
ちょうしゅうはん
山口藩毛利藩ともいう。江戸時代周防国長門国 (ともに山口県) の2国を領有した大藩。通常,長府徳山,清末,岩国の4支藩を含めて長州藩と呼ぶ。藩主は代々毛利氏で,元就 (もとなり) を藩祖とする。毛利氏はもと安芸 (広島県) 吉田荘の地頭職で,元就は最初は尼子氏,のちに大内氏に属していたが,大内義隆が家臣の (すえ) 晴賢に滅ぼされると,弘治1 (1555) 年に陶氏を倒し,以後中国 10ヵ国を領有する戦国大名に成長した。孫輝元の代に織田信長の備中経略で備中,因幡の2ヵ国を失うが,本能寺の変後は豊臣秀吉と和してその政権下に五大老の一人として安芸広島を居城に 120万余石を領有した。しかし,関ヶ原の戦いで豊臣方の主将となったので,戦後は周防長門の2ヵ国 36万 9000石に減封された。居城は萩においたが,明治2 (1869) 年敬親 (たかちか) のとき大内氏の故地山口に藩庁を移した。以後廃藩置県にいたった。外様,江戸城大広間詰。

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防府市歴史用語集

長州藩
 江戸時代の萩藩のことを言います。支藩[しはん]は含みません。しかし、江戸時代終わりから明治の初めにかけて、長州藩という場合は、支藩を含めた周防[すおう]・長門[ながと]両国を指します。

出典:ほうふWeb歴史館
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デジタル大辞泉プラス

長州藩
長門、周防の2ヶ国(現在の山口県)を領有した外様藩。もとは中国筋8ヶ国を有した120万石の戦国大名・毛利氏が、関ヶ原の戦いで西軍に加わり敗北。2ヶ国36万余石に減封されて成立した。輝元は萩に城を置き、領地の一部を一門の者に分与して、東部を岩国藩(岩国領)、西部を長府(ちょうふ)藩、南部を徳山藩とする。幕末には尊王攘夷運動の拠点。第2次長州征伐に勝利し、薩摩藩とともに倒幕運動を進めた。明治政府で活躍した木戸孝允(たかよし)(桂小五郎)、伊藤博文といった政治家は同藩の出身。

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藩名・旧国名がわかる事典

ちょうしゅうはん【長州藩】
江戸時代長門(ながと)国阿武(あぶ)郡萩(はぎ)(現、山口県萩市)と周防(すおう)国吉敷(よしき)郡山口(現、山口市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩校は明倫館(めいりんかん)。戦国大名毛利(もうり)氏は中国地方10ヵ国112万石を領有していたが、1600年(慶長(けいちょう)5)、毛利輝元(てるもと)毛利元就(もとなり)の孫)が関ヶ原の戦いで西軍に加わって敗北、周防・長門の2国36万石余に減封(げんぽう)された。形式的に隠居した輝元に代わって、長男の秀就(ひでなり)が初代藩主となった。輝元は吉川広家(きっかわひろいえ)に岩国領(岩国藩)を、養子の毛利秀元(ひでもと)長府(ちょうふ)藩(豊浦(とよら)藩)を、次男の就隆(なりたか)に徳山藩をそれぞれ分与。大減封されたことから藩財政は当初から苦しく、そのため1762年(宝暦12)の検地による増加分を財源として翌年に撫育方(ぶいくかた)を設置、これを特別会計として新田開発や紙・蝋(ろう)などの専売制を推し進めたが農民の反発を招き、1831年(天保(てんぽう)2)には大規模な一揆(長州藩天保一揆)が起きた。63年(文久(ぶんきゅう)3)藩庁を萩から山口に移し、山口藩が成立。幕末には尊王攘夷運動の拠点となり、64年(元治(げんじ)1)の四国連合艦隊下関砲撃事件、禁門の変をきっかけに倒幕派が実権を握り、第2次長州征伐では幕府軍に勝利、薩摩藩とともに明治維新を主導した。明治新政府に、木戸孝允(きどたかよし)伊藤博文(いとうひろぶみ)井上馨(いのうえかおる)山県有朋(やまがたありとも)大村益次郎(おおむらますじろう)らの人材を輩出。71年(明治4)支藩の徳山藩と合併、廃藩置県により山口県となった。◇萩藩、山口藩、毛利藩ともいう。

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世界大百科事典 第2版

ちょうしゅうはん【長州藩】
江戸時代,周防国,長門国(ともに山口県)を藩領とした外様藩。萩藩,毛利藩,山口藩などともいう。表高は36万9411石余だが,明治初年の実高は98万8000石余とされる。戦国大名として安芸国を中心に,中国地方8ヵ国120万石を領有した毛利氏は,1600年(慶長5)の関ヶ原の戦で毛利輝元(元就の孫)が豊臣方に加わり,ために敗戦後,徳川氏によって削封され,周防,長門の2ヵ国に封じられた。以後この2ヵ国を長州藩の領域として明治維新にいたる。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

長州藩
ちょうしゅうはん
江戸時代、周防(すおう)、長門(ながと)の両国を領有した藩。外様(とざま)。萩(はぎ)藩、山口藩、毛利(もうり)藩ともいう。藩主毛利氏はもともと安芸(あき)国吉田(のち広島)を本拠とする戦国大名であり、中国地方8か国を領有する120万石の大名であった。しかし1600年(慶長5)毛利輝元(てるもと)は関ヶ原の戦いに敗れて防長2国に減封された。城を萩に築いて入部した輝元は、領内東部3万7000石を吉川広家(きっかわひろいえ)に分与して岩国領、西部4万7000石を毛利秀元に与えて長府(ちょうふ)藩(豊浦(とよら)藩)、南部2万石を毛利就隆(なりたか)に与えて徳山藩をつくらせた。長府藩はそのうち1万石を割いて清末(きよすえ)藩をつくった。こうして領内に3藩と1領ができるが、これら支藩に対して親である長州藩のことを本藩・宗藩という。1610年、輝元は両国内の総検地を実施し53万石を検出するが、幕府はこれを36万余石と認定し、これが朱印高として藩の公式石高(こくだか)となった。輝元は防長入部時には隠居していたので、初代藩主には秀就(ひでなり)が就任し、こののち綱広(つなひろ)、吉就(よしなり)、吉広(よしひろ)、吉元(よしもと)、宗広(むねひろ)、重就(しげなり)、治親(はるちか)、斉房(なりふさ)、斉煕(なりひろ)、斉元(なりもと)、斉広(なりとう)、敬親(たかちか)と続く。1659年(万治2)、藩府はこれまで公布した法令を取りまとめ、新しく「万治(まんじ)制法」を実施するが、この法令は長州藩の憲法であり、藩制上の基本法となった。また家臣団を再編成し、大組(おおぐみ)6組と船手組(ふなてぐみ)2組を定めた。この組は軍事組織であるとともに、平時は行政組織でもあって、諸般の行政を担当した。この組織の編成に伴い、各組を統括する階級を定めた。すなわち、藩主を補佐する一門両家、各組の長となる寄組(よりぐみ)、各組を構成する大組、大組の下に無給通(むきゅうどおり)、さらにその下に足軽(あしがる)、中間(ちゅうげん)層を置いた。1625年(寛永2)第2回目の検地を実施して本支藩あわせ約66万石、86年(貞享3)本藩領だけの検地で63万石、1761年(宝暦11)本藩領検地で約71万石を検出した。この後の検地は実施されないが、幕末期の内検高は100万石以上と推定される。最後の検地となった宝暦(ほうれき)検地では、小村帳(土地台帳)と小村絵図(地籍図)を作成し、実態の把握に努めた。またこの検地による増徴分を別途会計とし、撫育方(ぶいくかた)という役所を置いて干拓事業や藩専売事業の強化を図った。またこのころから特産品の奨励を行い、紙、塩、蝋(ろう)、木綿などの生産を高める措置をとった。しかし、藩専売制の強化は農民の反対を招き、1831年(天保2)の大一揆(いっき)となった。このため藩政改革を行い、明治維新遂行の道を歩むことになった。
 幕末維新期には、尊王攘夷(じょうい)運動の拠点となり、下関(しものせき)戦争、蛤御門(はまぐりごもん)の変、第一次長州征伐を経て、第二次長州征伐(四境(しきょう)戦争)に勝利、薩摩(さつま)藩と連合して討幕運動を進めた。明治新政府には、木戸孝允(たかよし)(桂(かつら)小五郎)、伊藤博文(ひろぶみ)(俊輔(しゅんすけ))、井上薫(かおる)(聞多(もんた))ら多くの人材を送った。なお、1863年(文久3)藩庁を萩から山口に移した。71年(明治4)4月、徳山藩を併合、7月廃藩置県で4県が生まれ、同年11月4県を統合して山口県となる。[広田暢久]

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