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長宗我部氏【ちょうそかべうじ】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

長宗我部氏
ちょうそかべうじ
土佐の豪族戦国大名 (はた) 河勝の後胤といい,一説では蘇我の部民 (べみん) の子孫ともいう。能俊をとする。源平の内乱の際,長岡郡宗部 (そかべ) 郷に勢力を張り,このを称した。南北朝時代,能俊 11代の孫信能が守護細川氏に属し,応仁の乱で守護が上洛して不在中,土佐7守護の一人となった。文明 10 (1478) 年文兼が一条房家を土佐国司に奏請し,これを背景にを張ったが,その孫兼序が永正年間 (1504~21) に殺され一時断絶した。元親は国内の諸豪族を滅ぼし,国司一条氏を追い,天正年間 (73~92) 四国全域を征服した。しかし天正 13 (85) 年豊臣秀吉に敗れ土佐一国を安堵 (あんど) されて臣従した。その子盛親は関ヶ原の戦いに豊臣方に属したため所領を没収され,大坂夏の陣 (1615) で斬首されて滅亡した。

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世界大百科事典 第2版

ちょうそがべうじ【長宗我部氏】
中世土佐国の豪族。《和名抄》の長岡郡〈宗部〉郷(は〈曾我倍〉)の地名を氏としたものであろう(香美郡に住んだ宗我氏を香宗我部氏という)。家譜,軍記物始祖秦河勝とするがもとより不明。ただ1554年(天文23)の棟札に〈秦国親〉とあり,戦国期には秦氏を自称している。家紋は鳩酢草。 土佐長宗我部氏の初代は能俊で,延久(1069‐74)あるいは承久(1219‐22)ころに信濃より入国したとされるが不明。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

長宗我部氏
ちょうそがべうじ
「ちょうそかべ」ともよみ、「長曽我部」とも書くが、「長宗我部」が有力。土佐(高知県)の豪族で戦国大名。祖先は伝承に覆われており、秦(はた)氏とか蘇我(そが)氏の部民とか伝えるが、秦氏説が定着。平安後期~鎌倉前期ごろ秦能俊(よしとし)が信濃(しなの)より土佐国長岡郡宗部郷(そがべごう)(高知県南国(なんこく)市)に移り、子孫は地名をとって長宗我部氏を名のり岡豊城(おこうじょう)を本拠とした。
 7代兼光(かねみつ)のころ広井(ひろい)、中島(なかじま)、野田(のだ)、大黒(おおぐろ)らの庶流を派生し、11代信能(のぶよし)は足利尊氏(あしかがたかうじ)に属して活躍。1345年(興国6・貞和1)ごろ子兼能(かねよし)は吸江庵(ぎゅうこうあん)(高知市五台山)の寺奉行(てらぶぎょう)となり、代々この任を受け継いだ。守護代細川氏の入国後はその下で北朝方として行動した。17代元門(もとかど)は父文兼(ふみかね)の命に背いて内訌(ないこう)が起こり、弟の雄親(かつちか)が18代の家督を継いだ。1508年(永正5)ごろ19代兼序(かねつぐ)は本山(もとやま)、山田、吉良(きら)、大平(おおひら)ら周辺の豪族に攻められて敗死し、子国親(くにちか)は幡多庄(はたのしょう)中村で一条房家(いちじょうふさいえ)に養育された。1518年岡豊城に帰り家を再興したが、1560年(永禄3)宿敵の本山氏と対戦中に死んだ。その子元親(もとちか)は土佐を統一し、四国を平定したが、1585年(天正13)夏豊臣秀吉(とよとみひでよし)に降伏し、土佐一国を安堵(あんど)された。その子盛親(もりちか)は関ヶ原の敗戦で国を追われ、大坂の陣で豊臣方に属して戦ったが捕らわれて斬(き)られた。[山本 大]
『山本大著『土佐長宗我部氏』(1974・新人物往来社)』

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