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野村吉三郎【のむら きちさぶろう】

美術人名辞典

野村吉三郎
海軍軍人外交官実業家和歌山県生。明治29年海兵卒。昭和28年日本ビクター取締役社長となる。昭和39年(1964)歿、86才。

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デジタル大辞泉

のむら‐きちさぶろう〔‐キチサブラウ〕【野村吉三郎】
[1877~1964]海軍軍人・外交官。和歌山の生まれ。軍令部次長・鎮守府司令長官・外相などを経て駐米大使。太平洋戦争開戦まで日米交渉にあたった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

野村吉三郎 のむら-きちさぶろう
1877-1964 明治-昭和時代の軍人,外交官。
明治10年12月16日生まれ。アメリカ大使館付武官,パリ講和会議ワシントン会議の全権随員,横須賀鎮守府司令長官などを歴任。昭和8年海軍大将。14年阿部内閣の外相。15年駐米大使となり,太平洋戦争開戦まで日米交渉にあたった。29年参議院議員(当選2回,自民党)。昭和39年5月8日死去。86歳。和歌山県出身。海軍兵学校卒。

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世界大百科事典 第2版

のむらきちさぶろう【野村吉三郎】
1877‐1964(明治10‐昭和39)
明治・大正・昭和期の軍人,外交官,政治家。和歌山県出身。1898年海軍兵学校第26期卒業。第1次世界大戦中アメリカ大使館付武官としてフランクリン・ローズベルトらと親交を結ぶ。海軍軍令部次長,,横須賀両鎮守府司令長官などを歴任する。1932年第3艦隊司令長官として上海事変にあたり,爆弾片目を失う。33年大将に昇進し,軍事参議官となったが,37年予備役に編入され学習院院長となる。39年阿部信行内閣の外相をへて40年駐米大使となり,日米交渉に尽力したが,太平洋戦争開戦に至った。

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大辞林 第三版

のむらきちさぶろう【野村吉三郎】
1877~1964 海軍軍人・外交官。和歌山県生まれ。大将。軍令部次長・鎮守府司令長官・軍事参議官などを歴任。1939年(昭和14)阿部内閣外相。40年駐米特命全権大使となり、開戦前夜の日米間の交渉に当たった。第二次大戦後、参議院議員。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

野村吉三郎
のむらきちさぶろう
[生]1877.12.16. 和歌山
[没]1964.5.8. 東京
海軍大将,外交官。 1898年に海軍兵学校を卒業。 1908年オーストリア,ドイツ駐在武官。 14~18年駐米大使館付武官となった。パリ講和会議ワシントン会議に随員として出席。 26~28年に軍令部次長,練習艦隊司令官,呉および横須賀鎮守府長官を経て,32年2月第3艦隊司令長官となったが,同年4月 29日,上海の天長節祝賀会場で朝鮮人尹奉吉の投げた爆弾で負傷,隻眼となった。 33年大将に昇進。 36年予備役に編入され,学習院院長。 39~40年外相をつとめた。 40年 11月に戦前最後の駐米大使となり,太平洋戦争開始後に帰国した。 44~46年枢密顧問官。戦後,参議院議員。著書に『米国に使して-日米交渉の回顧』 (1946) ,『華府回想』 (49) ,伝記に木場浩介編『野村吉三郎』 (49) がある。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)

野村吉三郎
のむらきちさぶろう
(1877―1964)
海軍軍人、外交官。和歌山県に生まれる。海軍兵学校26期。海兵教官、「千歳(ちとせ)」航海長などを歴任。オーストリア、ドイツ駐在後、1915年(大正4)から4年間在米日本大使館付武官となる。パリ講和会議、ワシントン海軍軍縮会議に全権随員として出席。その後、軍令部次長、呉(くれ)・横須賀鎮守府司令官などを経て、1932年(昭和7)上海(シャンハイ)爆弾事件で片眼を失う。1933年大将。1937年予備役となり学習院長に任命される。1939年阿部信行(あべのぶゆき)内閣外相。1940年駐米大使となり、太平洋戦争開戦まで日米交渉にあたる。このときの交渉の経過はのちに『米国に使して――日米交渉の回顧』にまとめられた。講和後、1953年(昭和28)日本ビクター社長。1954年参議院議員となり、自民党外交調査会会長などを務める。[小田部雄次]
『尾塩尚著『駐米大使野村吉三郎の無念――日米開戦を回避できなかった男たち』(1994・日本経済新聞社) ▽豊田穣著『悲運の大使 野村吉三郎』(講談社文庫)』

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精選版 日本国語大辞典

のむら‐きちさぶろう【野村吉三郎】
軍人、外交官。海軍大将。和歌山県出身。在外武官・鎮守府司令長官などを歴任して退役。学習院長・外相を経て昭和一五年(一九四〇)駐米大使となり、第二次世界大戦開戦まで日米交渉にあたった。戦後は参議院議員・日本ビクター社長など。明治一〇~昭和三九年(一八七七‐一九六四

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旺文社日本史事典 三訂版

野村吉三郎
のむらきちさぶろう
1877〜1964
昭和期の軍人・外交官
海軍大将。和歌山県の生まれ。第一次世界大戦中,駐在武官としてアメリカで勤務。1939年阿部信行内閣の外相として中国問題でアメリカの駐日大使グルーと会談。'40年駐米特命全権大使として日米交渉にあたったが,決裂し太平洋戦争に突入した。第二次世界大戦後,参議院議員などを歴任した。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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