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重源【ちょうげん】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

重源
ちょうげん
[生]保安2(1121)
[没]建永1(1206).6.4.
鎌倉時代初期の浄土宗の僧。字は俊乗坊。号は南無阿弥陀仏。紀季重の子で,俗名は刑部左衛門尉重定。出家し醍醐寺密教を学んだが,のち源空 (法然) から浄土宗を学んで念仏の弘通に畿内を遊行仁安2 (1167) ~安元2 (76) 年に3回宋に留学した。入宋中,浄土教の知識を得るほか,阿育王山舎利殿を建てた建築法を体得したといわれる。近来,重源の入宋を疑う説もある。治承4 (80) 年東大寺兵火に焼かれると,東大寺再建のため造東大寺大勧進職となり,諸国を回って勧進に努めた。周防国が東大寺造営料国になると,同国司となった。慈善救済にも事績が多く,魚住の泊 (とまり) の改修,清水寺橋,勢多橋,渡辺橋などの架橋がある。著書に『南無阿弥陀仏作善集』がある。

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デジタル大辞泉

ちょうげん【重源】
[1121~1206]鎌倉初期の浄土宗の僧。号、俊乗房醍醐寺密教を修め、のち、法然に師事して念仏門に入った。再三にわたり入宋したといわれる。東大寺大仏殿再建の勧進職となり、天竺様大仏様)を取り入れて完成。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

重源 ちょうげん
1121-1206 平安後期-鎌倉時代の僧。
保安(ほうあん)2年生まれ。仁安(にんあん)2年宋(中国)にわたり,明庵栄西(みょうあん-えいさい)とともに帰国。焼失した東大寺再興の大勧進職を命じられる。文治(ぶんじ)元年大仏開眼会(かいげんえ)を,建久6年大仏殿落慶法要をおこなった。建永元年6月5日死去。86歳。京都出身。俗名は紀(きの)重定。字(あざな)は俊乗坊。号は南無阿弥陀仏。法名は「じゅうげん」ともよむ。

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重源 じゅうげん

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防府市歴史用語集

重源
 真言宗[しんごんしゅう]の僧で、61歳の時に焼け落ちた東大寺を再建する責任者になります。宋[そう]の国の技術者・陳和卿[ちんなけい]に協力してもらい、大仏や大仏殿などを再建しました。そののちの1206年、86歳で息をひきとります。

出典:ほうふWeb歴史館
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世界大百科事典 第2版

ちょうげん【重源】
1121‐1206(保安2‐建永1)
平安時代後期の僧。紀季重(一説には季良)の子。刑部左衛門尉重定と称し,13歳で醍醐寺に入り,真言宗修験道開祖の聖宝(しようぼう)の流れをくむ。上醍醐の円明房に止住,俊乗房重源と称した。青年期は大峰,熊野などの霊山を巡り,喜捨を進めて如法経書写や不断念仏を行った。1176年(安元2)までに3度宋に渡航したと伝えるが,その事跡は定かでない。80年(治承4)平重衡の兵火により東大寺が炎上したが,翌81年(養和1)8月造東大寺大勧進の宣旨を受けると直ちに勧進を開始,宋の鋳物師陳和卿らの協力で84年(寿永3)6月には大仏の鋳造をほぼ終わり,85年(文治1)8月大仏開眼会を行った。

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大辞林 第三版

ちょうげん【重源】
1121~1206) 鎌倉初期の浄土宗の僧。俊乗房しゆんじようぼう・南無阿弥陀仏と号す。密教を学んだのち、法然から浄土教を学び諸国を遊行。三度入宋したといわれる。東大寺再建のための大勧進職に任じられ、天竺様式をとり入れた大仏殿を完成。民衆の教化・救済、また架橋・築池などの土木事業にも尽くした。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

重源
ちょうげん
(1121―1206)
鎌倉初期の浄土宗の僧。俊乗房(しゅんじょうぼう)と号する。紀季重(きのすえしげ)の子で、重定(しげさだ)と称した。1133年(長承2)醍醐寺(だいごじ)で出家し、密教を学ぶ。また高野山(こうやさん)に登り、法然(ほうねん)(源空)に就いて浄土教を研究するとともに、大峯(おおみね)、熊野、御嶽(おんたけ)、葛城(かつらぎ)など深山幽谷を跋渉(ばっしょう)して修行した。1167年(仁安2)入宋(にっそう)、栄西(えいさい)とともに天台山に登り、浄土五祖像を請来(しょうらい)する。1181年(養和1)造東大寺大勧進(ぞうとうだいじだいかんじん)職となり、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と号し、広く諸国を勧化(かんげ)して、建永(けんえい)元年6月5日に86歳で没するまで、平氏焼討ち後の東大寺復興の造営にあたった。その間、再三にわたり入宋するとともに、1191年(建久2)には法然を東大寺に招き、南都諸宗の学匠に浄土三部経の講義を開いたという。また周防(すおう)(山口県)阿弥陀寺、播磨(はりま)(兵庫県)浄土寺、伊賀(三重県)新大仏寺をはじめ、各地に堂宇を建立するとともに、備前(びぜん)(岡山県)の船坂山を開き、播磨の魚住泊(うおずみのとまり)の修築、摂津(大阪府)渡辺橋・長柄(ながら)橋などの架橋、河内(かわち)(大阪府)狭山(さやま)池の改修、湯屋(ゆや)の勧進を行うなど、西大寺(さいだいじ)の叡尊(えいぞん)、極楽寺(ごくらくじ)の忍性(にんしょう)に劣らず社会救済事業に尽くした。[納冨常天]
『小林剛編『俊乗房重源史料集成』(1965/復刊・2015・奈良国立文化財研究所) ▽南都仏教研究会編・刊『重源上人の研究』(1955) ▽小林剛著『俊乗房重源の研究』(1971/改版・1980・有隣堂) ▽中尾堯・今井雅晴編『重源 叡尊 忍性』(『日本名僧論集 第5巻』1983・吉川弘文館)』

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精選版 日本国語大辞典

ちょうげん【重源】
平安末期から鎌倉初期の浄土宗の僧。号は俊乗房。紀季重の子。はじめ醍醐寺で密教を学んだが、法然の門に入り、念仏の人となった。仁安二年(一一六七)入宋し、翌年帰国。治承四年(一一八〇)兵火にかかった東大寺の再建に際して勧進職に任ぜられ、一〇余年をかけてこれを完成させた。保安二~建永元年(一一二一‐一二〇六

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