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釈迦【しゃか】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

釈迦
しゃか
Śākya
[生]前463頃.カピラバストゥ,ルンビニ
[没]前383頃.クシナガラ
仏教開祖釈迦牟尼 (むに) ともいう。釈迦は種族名 Śākyaの,牟尼聖者を意味する muniの音写。釈尊は釈迦牟尼世尊の略称と考えられる。シャカ族の国王浄飯王を父とし,摩耶夫人を母とし,をゴータマ Gotama (瞿曇〈くどん〉) ,名をシッダールタ Siddhārtha (悉達,悉陀) という。生後まもなく母を失い,叔母の手で養育された。 16歳で結婚,息子ラーフラをもうけたが,29歳のとき意を決して出家。修行の末,35歳頃ブッダガヤー菩提樹の下で悟りを開き,ブッダ buddha (仏陀 ) ,すなわち覚者となった。ワーラーナシの郊外サールナートの鹿野苑で最初の説法を行い,以後 80歳で没するまで,ガンジス川流域の中インド各地を周遊して人々を教化した。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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デジタル大辞泉

さか【釈迦】
しゃか」の直音表記
「―の御足跡(みあと)石(いは)に写しおき敬ひて」〈仏足石歌

出典:小学館
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:田中牧郎、曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
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しゃか【釈迦】
《〈〉Śākyaの音写》
釈迦牟尼(むに)のこと。

古代インド、現在のネパール地方に住んでいた種族。釈迦の出た種族。シャーキャ族。釈迦族。
能面の一。仏を表す金泥塗りの大きな面。喜多流の「大会(だいえ)」で、大癋見(おおべしみ)の上に重ねて用いる。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

釈迦 しゃか
?-? 織豊時代の蒔絵(まきえ)師。
京都朱雀(すざく)あたりにすみ,提婆(だいば)とならぶ名工といわれた。

出典:講談社
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

とっさの日本語便利帳

釈迦
過去を追うな。未来を願うな。過去はすでに捨てられた。そして未来はまだやって来ない。だから現在のことがらを、それがあるところにおいて観察し、揺るぐことなく動ずることなく、よく見きわめて実践せよ。ただ今日なすべきことを熱心になせ。\『中部経典』
釈迦(前四六三頃~三八三)のことば。

出典:(株)朝日新聞出版発行「とっさの日本語便利帳」

防府市歴史用語集

釈迦
 仏教を開いた人です。インドの小国に生まれ、29歳で出家した後に、35歳で悟りを開き、80歳で亡くなるまで人々に教えを説いてまわったと言われています。

出典:ほうふWeb歴史館
Copyright 2002,Hofu Virtual Site Museum,Japan
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デジタル大辞泉プラス

釈迦
1961年公開の日本映画。監督:三隅研次脚本:八尋不二、撮影:今井ひろし、美術:内藤昭、照明:岡本健一、録音:大角正夫。出演:本郷功次郎、チエリト・ソリス、勝新太郎川崎敬三、川口浩、小林勝彦、市川雷蔵ほか。第16回毎日映画コンクール録音賞受賞。

出典:小学館
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世界大百科事典 第2版

しゃか【釈迦】
仏教の開祖。釈迦はサンスクリット語のシャーキャムニŚākyamuniの音訳,釈迦牟尼(むに)(〈釈迦族の聖者〉)の略。釈尊(しやくそん)は釈迦牟尼世尊(せそん)(尊称)の略。釈迦は歴史的実在の人物であり,その人種的帰属(モンゴル系かアーリヤ系か)や死没年(前483年,前383年など,南方仏教圏では前543年)は学問上の問題として論じられている(釈迦が80歳で死去したことは定説とされる)。 インド・ネパール国境沿いの小国カピラバストゥKapilavastuを支配していた釈迦(シャーキャ)族の王シュッドーダナŚuddhodana(浄飯(じようぼん)王)とその妃マーヤーMāyā(麻耶)の子としてルンビニー園で生まれた。

出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.

大辞林 第三版

しゃか【釈迦】
紀元前七~六世紀頃、ヒマラヤ山麓ネパールに居住していた部族。釈迦も釈迦族の出身。
○仏教の開祖。世界四聖の一人。姓はゴータマ、名はシッタルタ。中部ネパールの釈迦族の中心地迦毘羅かびら城に浄飯王じようぼんのうの子として生まれる。母は摩耶夫人まやぶにん。二九歳で出家、三五歳で悟りを得た。のち鹿野園ろくやおんで五人の修行者を教化し(仏教教団の成立)、以後八〇歳で入滅にゆうめつするまで教化の旅を続けた。教説は四諦したい・八正道はつしようどう・十二縁起などでまとめられる。生没年は紀元前463~383年、同560~480年など諸説ある。釈迦牟尼しやかむに。釈尊。釈迦如来。
[句項目] 釈迦に説法

出典:三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)

釈迦
しゃか
生没年不詳。紀元前463―前383年説と、前565―前485年説がある(後述参照)。仏教の創始者。[三枝充悳]

出身

ネパール南部がインド大平原に連なるあたりに位置したカピラ城を中心に、サーキヤSkiya, kya人の小国があり、その国王の浄飯王(じょうばんのう)uddhodanaの長子として、生まれた。釈迦の呼称はこの種族名に由来し、尊称して釈迦牟尼(むに)(ムニmuniは聖者)とよばれ、釈尊と漢訳する。姓はゴータマGotama, Gautama(瞿曇(くどん)と音写)、名はシッダッタSiddhattha、シッダールタSiddhrtha(悉達多(しっだるた)と音写)という。多くは、覚者(悟った人)を表す普通名詞を固有名詞化して、仏陀(ブッダBuddha)または仏とよばれ、これが転訛(てんか)して日本では「ほとけ」となる。さらに如来(にょらい)(タターガタTathgata、真理の完成者)や勝者(しょうじゃ)(ジナGina)その他、多数の名でよばれ、これを名号(みょうごう)と称する。
 80年の生涯は確実とされる一方、没年に関しては仏滅年代論が現在も盛んであり、次の3種がある。南方には11世紀ごろからの伝説により前654年仏滅説が普及しているが、学問的には、前485年ごろと前383年ごろの2説が有力である。ともに学者により数年の差はある。前485年説はスリランカの史書によるものと、後490年に中国に伝来した年代記によるものとあり、前383年説はより古く中国で訳された二つの論書などに基づいている。おおむね欧米を含む外国の学者は前者を、日本の学者の大半は後者をとる。なお釈迦の生存年によって、同時代の思想家およびそれ以前の諸文献の年代がほぼ決定される。
 サーキヤ人は、あるいはネパール系、したがってモンゴル系人種かとの推測もあるが、当時すでに圧倒的なインド・アーリア文化の領域内にあったことは、疑う余地がない。
 19世紀には啓蒙(けいもう)思想などの影響から釈迦の実在が疑われ、天文学の諸説や太陽神話から、釈迦の伝記を説明する学者もいた。そのさなかの1898年に、ネパールの南境で一つの蝋石壺(ろうせきつぼ)が発掘され、その表面に刻まれた前3世紀以前の文は、「これは釈迦族の仏、世尊の遺骨の器で、名誉ある兄弟姉妹妻子たちの(奉納)」と解読された。これは原始経典の記載と一致し、古い伝承がここに確証された。そのほか、1896年に発見されたアショカ王碑文は釈迦の誕生地ルンビニーを裏づけ、のちにほかの骨壺の発掘もあり、釈迦の実在は不動となった。
 今日の文献学を総合すると、最古の経典の骨格は、釈迦の孫弟子のころの成立とされる。すなわち釈迦入滅の直後に仏弟子が集まり、釈迦の言行を編集(これを第一結集(けつじゅう)という)して、それが口誦(くじゅ)により伝承され、また拡大する。時代の経過と諸地方への伝播(でんぱ)の間に、誤りや粉飾が混入し、また増広や変更などが加わる。とくに釈迦への思慕・尊崇・信仰が強まって、釈迦を神秘化しさらに空想化し、ときに雑多な要素が付加され、また教説も後の発展成果と入り交じる。現在伝わる初期経典はすべて、釈迦没後100年ないし200年ごろに教団が保守派の上座(じょうざ)部と進歩派の大衆(だいしゅ)部とに分裂し、さらにその後の細分裂の末に成立した20余の部派のうち、いくつかの部派において確定したものであり、釈迦の直接の教え(金口(こんく)の説法)を取り出すことは至難とされる。釈迦はマガダ語で語ったと推定され、それがマガダ語に近いパーリ語と、標準語のサンスクリット語とに置き換えられ、後者から他の俗語(たとえばガンダーラ語など)に、また多くが漢訳され、一部はチベット語訳されたほか、少数ながら古語の写本の断片が諸地域で発見されている。マガダ語はパーリ語文献に少数その語形を残すのみで、マガダ語のまとまったテクストは現存しない。この初期経典群はアーガマgama(伝来)とよばれ、漢訳は「阿含(あごん)」と音写する。それには四つの阿含経があり、また一部のみの単訳も多い。パーリ語資料はニカーヤNikya(部)と名づけ、四つのニカーヤが四阿含経とほぼ対応するが、第五のニカーヤ(小部と称する)に含まれる韻文経典こそ最古の資料とみなす傾向が、今日の学界では定説化している。[三枝充悳]

出家と成道

アーガマには釈迦の伝記(仏伝)への関心はきわめて薄く、やがて、そのなかの断片的な釈迦の回想などを資料としつつ、インド人独自の優れた想像性のもとで仏伝が創作され、その種類も増える。今日伝わる仏伝はすべてそれらに基づく。
 釈迦は生後7日に母のマーヤーMy(摩耶夫人(まやぶにん))に死に別れ、以後は亡母の妹すなわち叔母に育てられた。王子としての教養を積み生活は恵まれていたものの内向しがちであった。当時の風習により16歳で結婚し、のち男子(ラーフラRhul、羅(らごら))をもうける。しかし富裕と安逸な日常のうちに、青年期を過ぎた釈迦は、人生の根源に潜む苦の問題に思いを深め、それに沈潜するなかで、苦の本質の追究とその解放である解脱(げだつ)を目ざすようになる。
 29歳に達し、その徹底的な解決を求め、ついにいっさいを放棄して、城を脱出し、遠くに南下して出家する。ガンジス川辺に当時の有名な仙人二人(アーラーラ・カーラーマlra Klmaとウッダカ・ラーマプッタUddaka Rmaputta)を相次いで訪ねて、その禅定(ぜんじょう)を学ぶ。しかしなお意を満たしえず、やがてガヤーの地に赴き、付近の山林にこもって出家者にふさわしい苦行に専念する。その苦行は激烈を極め、極度の断食のために身体は骸骨(がいこつ)に似ても、なおそれを休まなかった。苦行は6年(別説7年)間続くが、かえって精神はもうろうとなり、初志から遠ざかってしまうことを自覚して、それを放棄する。山林を出て川で身を浄(きよ)め、村の少女から乳粥(ちちがゆ)を受けて体力の回復を待ち、ブッダガヤの菩提樹(ぼだいじゅ)の下に座って、ひたすら思索にふけった。
 途中に悪魔の誘惑などもあったが、釈迦はただいちずに冥想(めいそう)に集注し、ついに大いなる悟りが開けて、ここに成道(じょうどう)は完成し、ブッダすなわち「悟った人(覚者)」となった。その後しばらく悟りの醍醐味(だいごみ)に浸り、長いためらいののちに、説法を決意する。その内心の動きは、悪魔や魔女の誘惑や梵天(ぼんてん)の切なる説法要請(勧請(かんじょう))という戯曲的表現で示されている。[三枝充悳]

説法

釈迦は、ベナレス(ワーラーナシ)北方のサールナートにあるミガダーヤ(鹿野苑(ろくやおん))に、かつて苦行をともにした五人の出家者を訪ねて、最初にその教えを説いた。そして彼らは教化されて仏弟子となる(初転法輪(しょてんぼうりん)という)。サンガ(僧伽(そうぎゃ))とよばれる教団はここに始まる。これを契機に、釈迦は請われるままに一般の人々にも広く呼びかけ、彼らのさまざまな問いに懇切に答えて、説法教化の旅が続けられた。その範囲は、東の王舎(おうしゃ)城と西の舎衛(しゃえ)城あたりを軸とする300キロメートル以上のほぼ楕円(だえん)形の中インド一帯に及ぶ。前者の竹林精舎(ちくりんしょうじゃ)と後者の祇園(ぎおん)精舎とに、夏のモンスーン期を過ごすほかは、生涯はほぼ遊行(ゆぎょう)の旅にあった。その間に仏弟子も信者もしだいに増加し、経典では仏弟子1250人とするものの、実数はそれを超えたらしい。ただし釈迦自身にとくに自説の伝道や教団設立の意図があったとは認めがたく、むしろ民衆の苦の解決にただ歩き回り、新宗教を喧伝(けんでん)するのではなく、巡歴の間に人々の求めに応じたさまが、諸経典の記述から明らかに知られうる。[三枝充悳]

入滅

釈迦は酷熱のインド各地に成道以後の45年間も教えを説いて回った。その後半の25年間はいとこにあたるアーナンダnanda(阿難(あなん))が随伴したが、ついにクシナガラの郊外の2本のサーラ樹(沙羅双樹(さらそうじゅ))の下で入滅する。ときに80歳。その最後の旅における情況は一つの経にまとめられ、そのなかに数々の遺言が残されている。そのおもなものを記す。「わたしには握りこぶしはない、すべてをことごとく説き示した」「法を見るものはわたしを見る。わたしを見るものは法を見る」「わたしの死後は、わたしの説いた法と戒とが汝(なんじ)たちの師となる」「自己を灯明(または島)とし自己をよりどころとして、他人をよりどころとせず、法を灯明とし法をよりどころとして、他のものをよりどころとするなかれ」「法と戒とに精励するものは、生の流転(るてん)を捨てて苦の終滅をもたらすであろう」といい、そして「諸現象(諸行(しょぎょう))は滅び行くものである。怠ることなく精進せよ」が最後のことばとなった。まことに静かな入滅であり、その一生には、他の諸宗教の創始者や聖者などにみられるような迫害や弾圧はまったくない。入滅後、釈迦は付近の民衆により火葬され、その遺骨(仏舎利(ぶっしゃり)という)は諸王たちに分配され、8か所に祀(まつ)られ、ストゥーパ(塔)が建てられた。[三枝充悳]

教え

前述のとおり、釈迦の直接の説は確定しがたい。以下(1)~(11)に記す原始仏教の教説の諸項目の原型ないし核を、釈迦に求めるのがふさわしいであろう。同時にまた釈迦は卑近なたとえなどで、そのつど臨機応変のもっとも適した教えを説いた(対機(たいき)説法という)とされている。
(1)現実の直視、それによる多様性の承認、それは寛容につながる。
(2)心を平静にし、主体的な自己の確立を求める。しかし我執(がしゅう)と自己中心とはすべて捨てる。
(3)いっさいの平等。当時すでに有力なカースト制度を否認し、生まれではなくて、個人の実践のみを尊ぶ。
(4)ひたすら実践を目ざし、議論の優劣を争わず、とくに形而上(けいじじょう)学的な問いに答えず加わらない(無記とよぶ)。
(5)可能な限り普遍的な法を中心とする。
(6)三法印(さんぼういん)(一切皆苦(いっさいかいく)、諸行無常(しょぎょうむじょう)、諸法無我(しょほうむが)。のち涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)を加え、やがて一切皆苦を除く)。
(7)苦集(くじゅう)滅道の四諦(したい)と八正道(はっしょうどう)(正見・正思・正語・正業・正命(しょうみょう)・正精進・正念・正定(じょう))。
(8)五蘊(ごうん)(法の分類で、色(しき)・受・想・行(ぎょう)・識の五つの集まり)。
(9)六入(法の分類で、眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)の六つの器官、それに対応して色(しき)・声(しょう)・香(こう)・味(み)・触(そく)・法の六つの対象)。
(10)縁起(えんぎ)(すべては他との関係においてあり成立し生じ滅する。そのもっとも整備された語が十二因縁(いんねん))。
(11)ニルバーナnirva(涅槃、限りない安らぎ)こそが解脱・悟りの境地であり、釈迦はそれに到達し、その生き方は仏教徒の理想のあり方、目ざす彼岸(ひがん)とされる。
 なお釈迦の生きた時代は、インドで自由思想家が輩出し、またそれを支える社会的地盤のあったことを銘記する要があろう。[三枝充悳]
『渡辺照宏著『新釈尊伝』(1966・大法輪閣/ちくま学芸文庫) ▽『ゴータマ・ブッダ』(『中村元選集11』1969・春秋社) ▽三枝充悳著『初期仏教の思想』(1978・東洋哲学研究所/上中下・第三文明社・レグルス文庫) ▽原田三夫著『釈迦回帰の仏教物語――やさしい仏教小事典』(1991・東明社) ▽菅沼晃著『釈迦のことば』新装版(1994・雄山閣出版) ▽松原哲明著『よくわかるブッダ――釈迦80年の生涯』(2001・チクマ秀版社) ▽中村晋也著『釈迦と十人の弟子たち』(2003・河出書房新社) ▽西村公朝著『釈迦と十大弟子』(2004・新潮社) ▽宮元啓一著『ブッダ――伝統的釈迦像の虚構と真実』(光文社文庫) ▽Hermann Oldenberg Buddha, sein Leben, seine Lehre, seine Gemeinde (1961, Mnchen)』

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精選版 日本国語大辞典

さか【釈迦】
※仏足石歌(753頃)「舎加(サカ)の御足跡石に写し置き敬ひて後の仏に譲りまつらむ捧げまうさむ」
[補注]「仏足石歌」の例は「しゃか」と読むべきものか。

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しゃか【釈迦】
[1] (Śākya の音訳)
[一] アーリア族の刹帝利(クシャトリヤ)、すなわち王族に属する古種族。釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)はこの族の出身である。シャーキヤ族。
[二] 釈迦牟尼仏のこと。仏教の開祖。世界四聖人の一人。生誕年代には異説があって定説を見ないが、一説には紀元前四六三年、北方仏教の史料では、四月八日、いまのネパール地方の迦毗羅(かびら)城城主浄飯王の子として生誕。姓はゴータマ、名はシッタルタ。二九歳で生死解脱の法を求めて出家し、三五歳で悟りを得、仏となった。以来、四五年にわたりインド各地を布教。八〇歳のとき、二月一五日入滅した。その像は諸仏(如来)の形の基本となったほか、仏伝に基づいた誕生像、降魔像、涅槃像などに作られ信仰された。釈迦牟尼。釈迦牟尼如来。釈迦仏。釈迦文仏。悉達多(しったるた)。悉達太子。
[2] 〘名〙
① 能面の一つ。金泥を塗った仏像そのままの大きな面。喜多流で用いることがある。仏面。
② めくりカルタの札の名。→釈迦十(しゃかじゅう)
※雑俳・西国船(1702)「たりませぬ・坊(ぼん)がねぶって釈迦の十」
③ 物がこわれて使いものにならなくなること。→おしゃか(御釈迦)
④ 男の陰部をいう俗語。
⑤ 娼婦をいう。衆生を済度する意にかけていったもの。

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旺文社世界史事典 三訂版

釈迦
しゃか
前563ごろ〜前483ごろ,または前463ごろ〜前383ごろ
仏教の開祖。悟りを開いてからは釈迦牟尼 (しやかむに) または仏陀 (ぶつだ) とも尊称される
姓はガウタマ,名はシッダールタ。現在のネパールに位置するカビラ城の城主を父として生まれた。人生の無常を感じて29歳で出家し,山林にこもって6年間苦行につとめた。しかし苦行の無意味なことを知り,ブッダガヤの菩提樹の下で瞑想生活にふけり,35歳で悟りを開いて覚者となった。その後,クシナガラで80歳で入滅するまで北インド諸地方を歴遊して教化を行った。彼の教えは四諦 (したい) と八正道 (はつしようどう) に要約され,バラモン教ヴァルナに反対し,クシャトリア階級やバイシャ階級に信仰された。在世年代については諸説がある。

出典:旺文社世界史事典 三訂版
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