Rakuten infoseek

辞書

鄭成功【ていせいこう】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

鄭成功
ていせいこう
Zheng Cheng-gong
[生]寛永1(1624).7.14. 肥前,平戸
[没]明,永暦16(1662).5.8. 台湾
中国,明末~清初の人。明朝復興運動の中心人物。父は鄭芝龍,母は平戸の田川七左衛門の娘。幼名,福松。7歳のとき父に招かれて明に渡り,南安県学の員生となり南京の大学に学んだ。父とともに福州で明朝復興運動に参加,大将軍となり,隆武帝 (→唐王朱聿鍵 ) から朱姓を賜わり,国姓爺 (こくせんや) と呼ばれた。隆武2 (1646) 年父が清朝にくだったのちもこれに従わず,父の握っていた海上権を受継ぎ,金門,アモイ両島を根拠地に広東の明政府と連絡し,連年大陸沿岸を攻略した。永暦 15 (61) 年台湾を占領,引続き清朝に抵抗し,清朝の中国統一を悩ませ,明朝復興と大陸反攻の強化をはかったが,翌年急死した。日本では,日中の混血児であることと,明室への忠節のゆえに「和唐内」と愛称された。近松門左衛門の浄瑠璃『国性爺合戦』はこれを素材としたもの。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

朝日新聞掲載「キーワード」

鄭成功
平戸島生まれの母・田川まつと、中国人の父・芝龍(しりゅう)の間に生まれた。清に倒された明朝に最後まで忠誠を尽くし、オランダが支配していた台湾を解放した。中国でも台湾でも英雄とされている。「国姓爺」とも呼ばれ、2002年には日中国交正常化30周年を記念して日中合作の映画「国姓爺合戦」ができた。撮影の一部は平戸市内でも行われた。
(2012-02-28 朝日新聞 朝刊 長崎 1地方)

出典:朝日新聞掲載「キーワード」

デジタル大辞泉

てい‐せいこう【鄭成功】
[1624~1662]中国、末・初の武将。鄭芝竜(しりゅう)の長男で、母は日本人。長崎の生まれ。本名、森(しん)。字(あざな)は大木。日本名、田川福松。南明の隆武帝(唐王)より朱姓を賜り、「国姓爺(こくせんや)」と号した。広東(カントン)を中心に抗清活動に従事。台湾に進攻して、オランダ総督をくだし、地方政権を樹立。近松門左衛門の「国性爺合戦」のモデル。

出典:小学館
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:田中牧郎、曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル版 日本人名大辞典+Plus

鄭成功 てい-せいこう
1624-1662 明(みん)(中国)の武将。
寛永元年7月14日肥前平戸(長崎県)生まれ。鄭芝竜(しりゅう)の長男。母は田川七左衛門の娘。父が清(しん)に降伏したのちも明復興運動をして明王室から皇帝の姓である朱をあたえられ国姓爺(こくせんや)とよばれる。厦門(アモイ),台湾を拠点に抗清運動をつづけるが康煕元年5月8日病死。39歳。近松門左衛門の「国性爺合戦」で知られる。幼名は福松。中国名ははじめ森。字(あざな)は明儼(みんがん)。号は大木。日本名は和唐内。

出典:講談社
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版

ていせいこう【鄭成功 Zhèng Chéng gōng】
1624‐62
中国,明の遺臣。字は明儼。忠節と諡(おくりな)される。父は鄭芝竜,母は日本人田川氏の娘で,日本の平戸で生まれた。幼名は福松。7歳のとき,中国福建省の父の許におもむいて名を森(しん)と改め,南京の太学で学んだ。1645年(順治2),福建に帰り,明の遺臣に擁立された唐王に従い,明皇帝の姓〈朱〉を称することを許され,成功と改名し,忠孝伯に封ぜられた。鄭成功が〈国姓爺(こくせんや)〉とよばれたのは朱姓を与えられたからである。

出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.

大辞林 第三版

ていせいこう【鄭成功】
1624~1662 中国、明朝復興運動の中心人物。鄭芝竜と日本人田川氏の娘の間に、平戸に生まれる。明の滅亡後も清に降伏せず、台湾を根拠地として清軍に反抗した。南明の唐王から明室の姓である朱姓をあたえられたので国姓爺こくせんやと称する。近松門左衛門の「国性爺合戦」の和藤内のモデル。

出典:三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)

鄭成功
ていせいこう
(1624―1662)
中国、明(みん)の遺臣。父は鄭芝龍(ていしりょう)、母は日本人田川氏の娘で、日本の平戸(長崎県)で生まれた。幼名は福松。7歳のとき、中国福建省泉州安平鎮にいた父のところに単身で赴き、名を森(しん)と改め、ついで南京(ナンキン)の大学で学んだ。1645年に福建に帰り、父芝龍ら明の遺臣に擁立された唐王隆武帝から、明の皇帝の姓である「朱」を称することを許されて成功と改名し、忠孝伯に封ぜられた。成功が「国姓爺(こくせんや)」とよばれるのは、明の国姓である朱姓を与えられたからであるが、彼は自ら朱成功と称することはなかった。46年に父芝龍は清(しん)に降伏し、母は安平城で自殺した。成功は抗清復明の理想を捨てず、福州が父たちに落とされて隆武帝が捕らえられると海上に逃れた。48年には日本に援兵を請う使者を送ったが、江戸幕府はこれを黙殺した。
 成功は1649年に桂(けい)王永暦帝(えいりゃくてい)から威遠侯、ついで(しょう)国公に封ぜられ、50年には厦門(アモイ)、金門の両島に根拠を置いた。こののち10年間にわたり、福建、広東(カントン)、浙江(せっこう)の沿海を経略し、さらに日本、ルソン、交趾(こうち)(ベトナム北部)、シャム(タイ)や南洋方面と貿易して勢力を蓄えた。日本の長崎には毎年のように、いわゆる国姓爺船が入港した。53年には福建省海澄で清軍を破って延平郡王に封ぜられた。58年10万5000の兵をもって北伐の軍をおこしたが、暴風雨に妨げられて挫折(ざせつ)した。翌59年に再度北伐軍を編成して瓜(か)州、鎮江を攻略し、南京城を包囲した。しかし、内応と奇襲にあって、一時崇明(すうめい)島(揚子江(ようすこう)河口の島)に拠(よ)ったが、まもなく厦門に退いた。61年、清は福建、広東など沿海の五省に遷界令(せんかいれい)を実施し、沿海の人民を内陸へ移して鄭氏と接触することができないようにした。このころ大陸の敗兵で台湾に渡った者は2万人を超え、成功は台湾を攻略して基地にすることを決意した。同年2万5000の兵で台湾に行き、オランダ人が拠っていたゼーランディア城を落とし、台湾を占領してその経営にあたった。成功はさらにルソン島招諭の計画をたてたが果たすことなく、62年5月8日(陽暦6月23日)台湾で病死した。近松門左衛門の『国性爺(こくせんや)合戦』は、成功の事績を題材にした浄瑠璃(じょうるり)である。[田中健夫]
『石原道博著『国姓爺』(1959・吉川弘文館)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

367日誕生日大事典

鄭成功 (ていせいこう)
生年月日:1624年7月14日
江戸時代前期の明の遺臣
1662年没

出典:日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」
(C) Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
それぞれの項目は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

精選版 日本国語大辞典

てい‐せいこう【鄭成功】
中国、明末の遺臣。国姓爺(こくせんや)の名で知られる。日本の平戸で鄭芝龍と田川七左衛門の娘との間に生まれた。七歳で渡明。明滅亡後、抗清・明室復興のため大陸反攻を繰り返した。また、南海貿易にも従事した。近松門左衛門の「国性爺合戦」などで知られる。(一六二四‐六二

出典:精選版 日本国語大辞典
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

鄭成功」の用語解説はコトバンクが提供しています。

鄭成功の関連情報

関連キーワード

コックス寛永検地アンヘレスコックスソテロ福島正則オスロ歌舞伎年代記佐渡金山

他サービスで検索

(C)The Asahi Shimbun Company /VOYAGE MARKETING, Inc. All rights reserved.
No reproduction or republication without written permission.