Rakuten infoseek

辞書

郡県制【ぐんけんせい】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

郡県制
ぐんけんせい
Jun-xian-zhi; Chün-hsien-chih
中国の地方統治制度。始皇帝 26 (前 221) 年に全国を統一すると,これを 36に分け,郡をいくつかのに分けて,郡には (民事) , (軍事) ,監 (監察) ,県には (民事) ,尉 (軍事) ,丞 (監察) をそれぞれ中央から派遣して統治させた。この中央集権的な行政制度を郡県制と呼ぶ。漢では西部には郡県制をしき,東部には一族や功臣を封じて諸侯王国としたが,前漢の武帝の時代に王国の領土を削減し,権限を奪い,禁令を設けて郡県と変らなくした。始皇帝の意図が武帝によって完成されたといってよい。以後郡の長官太守 (民政) ,都尉 (軍事) ,県の長官に県令 (民政) ,県尉 (警察) をおいて統治させた。また全国を 13州に分け,郡県の行政を査察する刺史 (しし) をおいた。後漢になると刺史は郡の太守の上級行政官となり,州郡県の3級制になった。のちの隋の時代には郡を省いて州,県の2級制としたが,その後州に代るものとして唐では道が,宋では路が,元以後は省がおかれた。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉

ぐんけん‐せい【郡県制】
中国で、戦国時代から代に施行された、中央集権的な地方行政制度。全国を皇帝の直轄地として郡・県に分け、皇帝の任命する地方官を派遣して統治させたもの。→封建制

出典:小学館
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:田中牧郎、曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版

ぐんけんせい【郡県制 Jùn xiàn zhì】
中国の地方行政区画制度。厳密には秦から唐初まで郡県制が実施され,それ以後は州県制に代わるが,ここでは一つに取り扱う。郡県は周代の封建に対する語。周では王族,功臣らに土地が分封,世襲されたが,前221年,秦の始皇帝は国土をすべて皇帝直轄地とし,中央から官員を任命して統治する郡県制に改めた。起源的には県は秦の武公の10年(前688)に,〈冀の(じゆう)を伐(う)って初めてこれを県にする〉と《史記》に見えるのが最も古い。

出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.

日本大百科全書(ニッポニカ)

郡県制
ぐんけんせい
中国、周の封建制が崩壊するなかで、春秋期以降に現れ、秦(しん)朝に確立した行政制度。『史記』秦本紀にみえる武公10年(前688)の記録が初見であるが、その後は『春秋左氏伝』などにも頻出する。最初は辺境地方に郡や県が顕著に現れるが、しだいに中原(ちゅうげん)諸国にも県設置がなされる。春秋の県は後の郡県制のそれとは違って、周代封建制の封邑(ほうゆう)と本質的には変わらない。郡県制の県は、秦の孝公が商鞅(しょうおう)を登用して、41県を咸陽(かんよう)を中心とする地方に配置したのが始まりと考えてよい。郡については、秦国では他国を併合したときその領域を郡と称している場合が多く、そののちに県を置くようになる。したがって最初から郡県が上下の統属関係として設けられたわけではない。整備されたのは秦の始皇帝の時代である。
 商鞅の県制の内容をみると、彼は、君主が直接人民を支配できる場として県を想定していたことがわかる。「小都、郷邑、聚(しゅう)を集めて」県とした(『史記』「商君列伝」)というように大族を分解し、おもに開拓地を中心に成立した小邑群を集めて、中央政府直轄の県を設けたのである。郷とか聚の基本単元は『管子』では軌であり、商鞅では伍(ご)であり、睡虎地(すいこち)秦墓竹簡の示すところでは隣であり、いずれも小宗族(そうぞく)であると考えられる。伍は5戸によって構成されるが、商鞅によって戸別直接支配を意図したものの、そこまで支配できず、伍制という宗族の小単位把握にとどまったものである。その意味では商鞅の意図にもかかわらず「変法」による県制の成立は封建制の改編という結果に終わったといえよう。
 秦の始皇帝の天下統一によって郡県制は全国に及ぼされた。紀元前221年には東方6国を滅ぼし、36郡を設けて行政を統括した。郡には郡守、郡尉、郡監を置き、県には県令、県尉、県丞(けんじょう)を置いて、行政、軍事、監察の分野をそれぞれ担当した。彼らは中央派遣で地位を世襲することなく、随時転任させられた。したがって原則的には、周代にみる職官、土地を基本とする封建制は消滅したのである。しかし、県の下部単位の郷には父老、里には里典、伍には伍老などの宗族の代表者があって、官吏と共同して統治しているという実状にあった。秦朝の中央集権体制もこのような意味では小宗族の群に支えられているのであって、封建制の再編という結果は先の「変法」の場合と同様である。
 漢の高祖は官制など多くの面で秦制を踏襲しながらも、権力奪取の必要から異姓、同姓の諸侯を封国せざるをえなかった。これが郡国制である。異姓諸侯は高祖死去までにほとんど排除したが、同姓諸侯は文帝、景帝を経てようやくこの分権勢力を弱化することができた。郡県制が前漢中期に完成したといえよう。後漢(ごかん)を通じて郡県制は宗族を核とする豪族層によって支えられた。王朝はこれによって文治政治を達成することができた。魏晋(ぎしん)南北朝に入ると郡県の名はあるが、実体はなくなった。漢族が南渡すると本籍地の郡県を寄留地に設けたため混乱を起こすに至った。隋(ずい)の文帝はこのため郡を廃して州の下に県を直属させることにしたので郡県制は終わった。[好並隆司]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

郡県制」の用語解説はコトバンクが提供しています。

郡県制の関連情報

他サービスで検索

(C)The Asahi Shimbun Company /VOYAGE MARKETING, Inc. All rights reserved.
No reproduction or republication without written permission.