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道元【どうげん】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

道元
どうげん
[生]正治2(1200).1.2. 京都
[没]建長5(1253).8.28. 京都
鎌倉時代の禅僧。日本曹洞宗開祖。字は希玄。久我通親の子。 13歳のとき比叡山横川の僧坊にとどまり,翌年出家。建保2 (1214) 年建仁寺栄西 (えいさい) に入門,高弟明全について修学し,ついに臨済印可を受けた。貞応2 (23) 年明全とともに入宋。天童山,天台山など諸山を歴訪し,曹洞禅を体得して嘉禄3 (27) 年帰国。建仁寺などに仮寓したのち寛元2 (44) 年越前に吉祥山永平寺を建立し,曹洞宗を開いた。のちに京都,鎌倉などを往還し,禅の普及に努めた。『正法眼蔵 (しょうぼうげんぞう) 』『永平清規』などの著書があり,また永平寺蔵『明全戒牒識語』は彼の真跡として著名。

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デジタル大辞泉

どうげん〔ダウゲン〕【道元】
[1200~1253]鎌倉前期の禅僧。京都の人。日本曹洞宗の開祖。内大臣久我通親の子。諱(いみな)は希玄。比叡山で修学し、のち入宋して天童如浄の法を嗣(つ)いだ。帰国後、建仁寺に住し、京都に興聖寺を、さらに波多野義重の請により越前永平寺を開いた。勅諡号(ちょくしごう)、仏性伝東国師・承陽大師。著「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」「普勧坐禅儀」「学道用心集」など。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

道元 どうげん
1200-1253 鎌倉時代の僧。
正治(しょうじ)2年1月2日生まれ。源通親(みちちか)(一説に源通具(みちとも))と藤原基房(もとふさ)の娘の子。日本曹洞(そうとう)宗の開祖。13歳のとき比叡(ひえい)山で出家,ついで明全(みょうぜん)に師事。貞応(じょうおう)2年師とともに宋(そう)(中国)にわたり,如浄に曹洞禅をまなぶ。嘉禄(かろく)3年帰国。のち京都から越前(えちぜん)(福井県)にうつり,寛元2年大仏寺(のち永平寺)を創建。只管打坐(しかんたざ)を説き,「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」などを執筆した。建長5年8月28日死去。54歳。号は希玄(きげん)。字(あざな)は仏法房。諡号(しごう)は仏性伝東国師。

出典:講談社
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世界大百科事典 第2版

どうげん【道元】
1200‐53(正治2‐建長5)
鎌倉中期の禅僧で,日本曹洞宗の開祖。内大臣源通親を父,摂政太政大臣松殿藤原基房の娘を母として,宇治木幡(京都)の松殿山荘で生まれたが,はやく両親に死別した。1212年(建暦2)春,養父で伯父の藤原師家が制止するのを振り切って,外叔父の良顕を比叡山麓に訪ね,その手引きで横川(よかわ)の首楞厳(しゆりようごん)院に赴き,般若谷の千光房に入った。翌13年(建保1)天台座主公円について剃髪し,戒壇院菩薩戒を受けて,仏法房道元と名のり,天台宗の教学を修めたが,いっさいの衆生はもともと仏であると天台宗では教えるのに,すでに仏である人がなぜ修行しなければならないか,という疑問が解けず,比叡山での修行に見切りをつけて,三井寺の公胤(こういん)を訪ねた。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

どうげん【道元】
1200~1253) 鎌倉初期の禅僧。日本曹洞宗の開祖。京都の人。号は希玄きげん。諡号しごう承陽大師。久我通親の子。比叡山で天台宗を、建仁寺で禅を学んだ。1223年入宋。帰国後、京都深草に興聖寺を開く。44年越前に移り、大仏寺(のちの永平寺)を開創。修証一如・只管打坐しかんたざの純一の禅風で知られる。著「正法眼蔵」「永平清規」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

道元
どうげん
(1200―1253)
鎌倉時代、曹洞(そうとう)宗の僧。別名を道玄、希玄(きげん)とも称する。俗姓は源氏。[鏡島元隆]

生涯

内大臣久我通親(こがみちちか)(1149―1202)の子。一説に通親の子通具(みちとも)(1171―1227)の子ともいう。母は藤原基房(ふじわらのもとふさ)の女(むすめ)(三女の伊子(いし)(?―1207)と推定される)。正治(しょうじ)2年京都に生まれ、3歳にして父を、8歳にして母を失う。13歳の年、比叡山(ひえいざん)横川(よかわ)の首楞厳院(しゅりょうごんいん)の般若谷(はんにゃだに)千光房(せんこうぼう)に投じ、1213年、戒壇院(かいだんいん)において座主(ざす)公円(1168―1235)に就いて受戒する。比叡山に修学中、人は本来仏性(ぶっしょう)を具(そな)えているのに、なにゆえに三世の諸仏は発心(ほっしん)して悟りを求めたのかという疑問をおこし、これを山内外の学匠に尋ねたが、いずれにも満足な解答を得ず、ついに18歳の年、栄西(えいさい)の開いた建仁寺に投じた。道元が栄西に相見したかどうかには賛否両説があるが、否定説が有力である。建仁寺において、栄西の高弟明全(みょうぜん)(1184―1225)に師事し、のち1223年(貞応2)24歳の年、明全とともに入宋(にっそう)した。入宋の動機は、比叡山でおこした宗教的疑問の解決にあるが、入宋を促した背景には、1221年(承久3)勃発(ぼっぱつ)した承久(じょうきゅう)の乱の事後処理が、道元の宗教心を駆り立てたことによるといわれ、また1219年鎌倉八幡(はちまん)宮で横死した将軍源実朝(みなもとのさねとも)の遺志を実現するために、その妻室や家臣が入宋を支援したことによるともいう。入宋した道元は、いったん天童山景徳(けいとく)寺に滞在したが、1224年ひとり諸山遍歴の旅にのぼり、育王山広利寺、径山(きんざん)万寿寺、天台山万年寺などを歴訪し、ふたたび天童山に帰り、1225年(嘉禄1)5月1日、初めて住持の天童如浄(てんどうにょじょう)に面謁(めんえつ)し、一見して弟子入りがかなう。これより先、明全は病を得て、同年4月27日天童山了然(りょうねん)寮で示寂している。道元は如浄のもとで厳しい教導を受けること前後3年に及んだが、身心脱落し、如浄の印証を得て、1227年(安貞1)28歳のとき、同行した明全の遺骨を抱いて帰朝した。
 帰朝後、しばらく建仁寺にとどまったが、1230年(寛喜2)山城(やましろ)(京都府)深草の安養院(あんよういん)に閑居し、1233年(天福1)藤原教家(のりいえ)(1194―1255)や正覚尼(しょうがくに)(生没年不詳)らの請(しょう)によって山城に観音(かんのん)導利院興聖(こうしょう)宝林寺(興聖寺)を開いた。ここに住すること10年余ののち、1243年(寛元1)檀越(だんおつ)波多野義重(はたのよししげ)(生没年不詳)の領地である越前(えちぜん)(福井県)志比荘(しびのしょう)に向かった。道元の北越入山の理由については、比叡山の圧迫によるとか、東福寺を中心とする円爾(えんに)の禅の進出によるなどと種々説かれるが、内面の理由は師の『如浄語録』の到来を期として、「真実の仏法を挙揚するために深山幽谷(ゆうこく)に居せよ」という如浄の遺誡(いかい)が道元の心に強くよみがえり、義重の勧誘を受け入れたものと思われる。入越後しばらく吉峰寺(よしみねでら)、禅師峰(やましぶ)の古寺に仮寓(かぐう)し、1244年大仏寺をおこして開堂し、2年後に大仏寺を永平寺と改めた。10年間を永平寺に住し、そこで畢生(ひっせい)の著述『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の撰述(せんじゅつ)と弟子の養成に全力を尽くした。その間、1247年(宝治1)北条時頼(ほうじょうときより)の請に応じて鎌倉に下向したが、翌1248年永平寺に帰る。1252年(建長4)夏病気となり、翌1253年7月には後事を第一の弟子孤雲懐奘(こうんえじょう)に譲り、8月、波多野義重の勧めにより療養のため上洛(じょうらく)したが、同月28日に高辻(たかのつじ)西洞院(にしのとういん)の俗弟子覚念の邸において54歳で示寂した。遺偈(ゆいげ)に「五四年第一天を照らす。箇の(ぼっちょう)を打(た)して大千を触破(しょくは)す。渾身(こんしん)(もと)むるなく、活(い)きながら黄泉(こうせん)に落つ」がある。滅後601年の1854年(安政1)孝明(こうめい)天皇より「仏性伝東国師」の諡号(しごう)を賜り、また1879年(明治12)明治天皇より「承陽(じょうよう)大師」の諡号を加賜された。
 道元の門弟には、懐奘、詮慧(せんね)(生没年不詳)、僧海(そうかい)(生没年不詳)、義介(ぎかい)、義演(ぎえん)(?―1314)、義尹(ぎいん)、寂円(じゃくえん)(1207―1299)、義準(ぎじゅん)(生没年不詳)らがある。このうち、道元の法を嗣(つ)いだ弟子は懐奘ひとりとも、また詮慧、僧海を含む3人ともいう。懐奘は永平寺第2代であり、道元を助けて永平寺僧団を守り、『正法眼蔵』の大著を完成させた陰の功労者である。詮慧は京都永興寺(ようこうじ)の開山であり、その弟子経豪(きょうごう)とともに『正法眼蔵』の最古の注釈である『御聞書抄』を著した。僧海は早逝してその伝をとどめない。[鏡島元隆]

著述・思想

道元の著述には、『正法眼蔵』95巻、『永平広録』10巻、『永平清規(しんぎ)』2巻、『学道用心集』1巻、『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』1巻、『宝慶記(ほうきょうき)』1巻、『傘松道詠(さんしょうどうえい)』1巻などがある。このうち、『永平清規』は、「典座(てんざ)教訓」「弁道法(べんどうほう)」「赴粥飯法(ふしゅくはんぼう)」「衆寮箴規(しゅりょうしんぎ)」「対大己法(たいたいこほう)」「知事(ちじ)清規」の6編からなる。各編はそれぞれ単独に著された叢林(そうりん)の規矩(きく)に関する著述であって、のちに『永平清規』としてまとめられたのである。『正法眼蔵』は、道元の代表的著述として著名である。道元の『正法眼蔵』には仮名の『正法眼蔵』と漢文の『正法眼蔵』があって、漢文の『正法眼蔵』は、中国臨済宗の大慧宗杲(だいえそうこう)の同名の著述『正法眼蔵』3巻と深いかかわりがある。仮名『正法眼蔵』は道元自らの手により執筆され編集されたものであるが、これが『正法眼蔵』として成立したのは、弟子懐奘の献身的協力によるものであり、一説には『正法眼蔵』の編集は懐奘の手に成るともいわれる。『正法眼蔵』の思想の特質は、75巻本『正法眼蔵』の第一が「現成公案(げんじょうこうあん)」巻から始まるように、現成公案の思想を示すことにある。現成公案とは「現に成立しているものは絶対の真理である」ということである。道元によれば、あらゆるものは現に成立しているものであり、絶対の真理であって、人間もあらゆるものの一つとして絶対の真理に生かされているのである。これを示すものが『正法眼蔵』である。道元はこの現成公案の真理は、代々の仏祖によって正しく伝えられ、この現成公案の世界は只管打坐(しかんたざ)(ただひたすら坐禅すること)によって開かれるとする。したがって、『正法眼蔵』は正伝(しょうでん)の仏法と只管打坐を中心として説かれる。
 道元の説く正伝の仏法とは、禅を禅宗としてとらえないで全仏法としてとらえることである。道元が入宋した当時の中国の宋朝禅は、臨済宗、曹洞宗、法眼(ほうげん)宗、(いぎょう)宗、雲門(うんもん)宗の五家(ごけ)に分かれ、さらに臨済宗は黄竜(おうりゅう)派と楊岐(ようぎ)派に分派していた。これら五家七宗(ごけしちしゅう)の禅は、外に対しては禅宗として教外別伝(きょうげべつでん)(教義を心から心へ直接伝えること)を唱え、内に対してはそれぞれの家風にたって自派の優勢を誇ったのであるが、道元は、禅の本旨は五家分派以前の全仏法にあるとし、禅宗の宗名を排し、正伝の仏法を強調したのである。
 道元の示す只管打坐は、宋朝に成立した看話禅(かんなぜん)が公案の工夫を中心とする坐禅であるのに対し、ただ坐禅することを強調するものである。只管打坐は「証上の修」または「本証妙修」といわれる。それは看話禅が凡夫(ぼんぷ)より仏に向かう修行であるのに対し、仏になるための修行でなく、それ自体が仏行であるとする。道元はこのように現成公案の真理は、正伝の仏法によって伝えられ、只管打坐によって開かれるとするもので、この思想は道元の全著作の基調となっている。[鏡島元隆]
『玉城康四郎編『日本の思想 2 道元集』(1969・筑摩書房) ▽大久保道舟著『道元禅師伝の研究』修訂増補版(1966・筑摩書房/複製・1988・名著普及会) ▽竹内道雄著『道元』(1962/新稿新装版・1992・吉川弘文館) ▽鏡島元隆・玉城康四郎編『講座 道元』全7巻(1979~1981・春秋社)』

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367日誕生日大事典

道元 (どうげん)
生年月日:1200年1月2日
鎌倉時代前期の僧
1253年没

出典:日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」
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精選版 日本国語大辞典

どうげん ダウゲン【道元】
鎌倉初期の僧。日本曹洞宗の開祖。諱(いみな)は希玄。号は仏法房。勅諡は仏性伝東国師・承陽大師。内大臣久我通親の子。比叡山および三井寺で学び、のち建仁寺で栄西の高弟明全に師事して禅を修める。貞応二年(一二二三)明全とともに入宋、天童寺の長翁如浄の法を嗣(つ)いで安貞元年(一二二七)に帰国。その後しばらく建仁寺に寓居したが、のち深草に移り、天福元年(一二三三)興聖寺を開創、さらに寛元二年(一二四四)には波多野義重の招きに応じて越前(福井県)の大仏寺(のちの永平寺)の開山となる。宝治元年(一二四七)北条時頼の要請によって鎌倉に下ったが、半年ほどで永平寺に帰った。また後嵯峨天皇から紫衣を賜わったが、一生身につけなかった。建長五年(一二五三)病気療養のため京都に赴き、ほどなく没した。著に「正法眼蔵」九五巻、「普勧坐禅儀」「学道用心集」「永平清規」など。正治二~建長五年(一二〇〇‐五三

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