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近衛文麿【このえ ふみまろ】

美術人名辞典

近衛文麿
政治家・公爵。東京生。近衛篤麿の長男、秀麿の兄。森恪貴族院改革を唱えて憲法研究会を組織、のち火曜会を創る。貴族院議長。内閣総理大臣・枢密院議長等を歴任する。昭和20年(1945)歿、56才。

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デジタル大辞泉

このえ‐ふみまろ〔コノヱ‐〕【近衛文麿】
[1891~1945]政治家。東京の生まれ。篤麿(あつまろ)の長男。昭和12年(1937)内閣を組織し日中戦争に突入。第三次内閣では東条英機陸相の対米主戦論を抑えきれず総辞職。戦後、戦犯に指名され、服毒自殺。
杉森久英による評伝。昭和61年(1986)刊行。翌年、第41回毎日出版文化賞受賞。

出典:小学館
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

近衛文麿 このえ-ふみまろ
1891-1945 大正-昭和時代前期の政治家。
明治24年10月12日生まれ。近衛篤麿(あつまろ)の長男。近衛秀麿の兄。貴族院議長などをへて昭和12年第1次近衛内閣を組織。日中戦争に不拡大方針でのぞむが,戦局の拡大を容認。15年新体制運動を組織し,第2次内閣を組閣。日独伊三国同盟を締結,大政翼賛会を結成。16年日米交渉打開にむけて第3次内閣を組閣したが失敗し,総辞職。戦後,戦犯容疑で指名され昭和20年12月16日自殺。55歳。東京出身。京都帝大卒。
【格言など】所謂(いわゆる)戦争犯罪人として米国の法廷に於いて裁判を受ける事は堪え難い事である(辞世の言葉)

出典:講談社
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江戸・東京人物辞典

近衛文麿
1891〜1945(明治24年〜昭和20年)【政治家】日中戦争期の首相。 日米交渉に尽力するも、大政翼賛会成立など迷走を続けた。昭和前期の政治家。東京都出身。公爵近衛篤麿の長男。京大卒。1916年(大正5)から貴族院議員。1919年のパリ講和会議に随行する直前に書いた「英米本位の平和主義を排す」では英米を批判。1937年に46歳で第一次近衛内閣を組織。翌月盧溝橋事件により始まった日中戦争の和平交渉に失敗。1940年に第二次近衛内閣では、展開した新体制運動が陸軍に利用され、大政翼賛会が成立。また日独伊三国同盟を締結、「南進」政策をとった。1941年7月、対米調整するため総辞職して第三次近衛内閣を組閣したが、東条陸相の対米主戦論に破れて総辞職。敗戦後、戦犯指定を受け、自決。

出典:財団法人まちみらい千代田
監修:江戸東京博物館 都市歴史研究室長 北原 進
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世界大百科事典 第2版

このえふみまろ【近衛文麿】
1891‐1945(明治24‐昭和20)
軍部を中心とする勢力にかつがれて三たび首相となった貴族政治家。五摂家の筆頭の家柄で,貴族院議長,公爵近衛篤麿の長男であるが,出生直後に母を,少時に父を失う経験をもった。アジア主義者の父の因縁で頭山満ら右翼との関係も深いが,一高を経て東京帝国大学哲学科に入り,京都帝国大学法科に転じて河上肇らの指導もうけた。1919年のパリ講和会議には西園寺公望らの全権随員として参加したが,その直前に発表した〈英米本位の平和主義を排す〉には,西園寺の国際協調主義とちがってアジア主義と〈持たざる国〉の理論が現れており,それが彼の生涯を通ずる指導理念となった。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

このえふみまろ【近衛文麿】
1891~1945) 政治家。篤麿の長男。公爵。東京生まれ。京大卒。貴族院議長。1937年(昭和12)以後三度組閣。この間、大政翼賛会を創立した。第二次大戦後、戦犯出頭命令を受けて服毒自殺。

出典:三省堂
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

近衛文麿
このえふみまろ
[生]1891.10.12. 東京
[没]1945.12.16. 東京
政治家。公爵。 1919年パリ講和会議西園寺公望の随員として参加。 31年貴族院副議長,33年同議長となる。 37年第1次内閣を組閣。内閣成立1ヵ月後に盧溝橋事件が勃発,不拡大方針の声明を出したが,杉山元陸相を抑えることができず,戦火が上海に広がり,日中戦争に拡大した。南京占領後,和平交渉を行うが失敗,38年「国民政府を相手にせず」の近衛声明を発表し和平の道を閉ざした。議会で国家総動員法案,電力国家管理法案が成立,内閣改造を行なって宇垣一成,池田成彬を入閣させ内閣の強化をはかるが,38年 11月東亜新秩序声明,12月日華国交調整大綱を発表,汪兆銘が重慶を脱出したのを機に総辞職した。新体制運動,新党づくりを目指すが,40年第2次内閣を組織,武力南進方針の採用,日独伊三国同盟の締結,大政翼賛会の創立などファシズム体制の樹立をはかった。 41年日米交渉の開始後,松岡外相が対ソ宣戦,対米譲歩反対を唱えたため総辞職。同年7月第3次内閣を組織。南部仏印進駐で交渉が行きづまり,中国からの撤兵問題で東条英機陸相と対立して,10月に総辞職した。 45年東条内閣の打倒と戦争の早期終結をはかるため上奏文を提出,敗戦直後の東久邇内閣に国務相として入閣,ついで内大臣府御用係となり,憲法改正案の起草にあたった。しかし戦犯容疑者として GHQから出頭命令を受け,服毒自殺。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

近衛文麿
このえふみまろ
(1891―1945)
大正・昭和時代の政治家。「このえあやまろ」とも読む。1891年(明治24)10月12日、明治の国権主義者で、貴族院議長・枢密顧問官などを歴任した篤麿(あつまろ)の長男として東京市に生まれる。母衍子(さわこ)は文麿の生後8日目に死去し、衍子の実妹前田貞子(ともこ)が篤麿の後妻となる。指揮者秀麿(ひでまろ)は異母弟。1904年(明治37)父が死去し、不幸な少年時代を過ごした。学習院初等科・中等科から第一高等学校、京都帝国大学法科大学に学んだ。京都帝大在学中の1913年(大正2)毛利千代子と結婚。河上肇(かわかみはじめ)の教えを受け、イギリスの作家オスカー・ワイルドの『社会主義下の人間の魂』を翻訳して『新思潮』1914年5月号と6月号に発表し、発売禁止処分を受けたこともある。卒業後内務省に入り、1919年西園寺公望(さいおんじきんもち)全権の随員としてベルサイユ講和会議に出席した。五摂家(ごせっけ)の筆頭、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)から数えて46代目という名門の出身であるところから、若くして華族界のホープと目された。1916年10月満25歳になると同時に貴族院議員となり、1922年9月研究会入会を経て1927年(昭和2)11月火曜会を結成、1931年1月貴族院副議長、1933年6月同議長に就任した。若くして論文「英米本位の平和主義を排す」(『日本及日本人』1918年12月号)を発表し、「正義人道に本(もとづ)く世界各国民平等生存権の確立の為(ため)」、「英米本位の平和主義」と「経済的帝国主義を排して各国をして其(その)植民地を開放せしめ」、日本の進路を確保すべきであると論じていた。こうした現状打破的な考えから、満州事変や国際連盟脱退などの日本の政策を高く評価したことが、当時のファッショ化しつつあった時流に投じ、首相候補の一人に数えられるに至った。陸軍の皇道派に親近感をもち、1936年の二・二六事件直後には組閣の大命を受けたが、健康を理由に拝辞した。
 翌1937年6月与望を担って第一次内閣を組織したが、7月7日に日中戦争が勃発(ぼっぱつ)した。政府は初め不拡大方針をとったが、軍部に押し切られて全面戦争に突入した。1938年1月16日「国民政府ヲ対手(あいて)トセズ」と声明して平和への道を自ら閉ざし、11月3日「東亜新秩序建設」が日本の戦争目的であり、国民政府が「更生ノ実ヲ挙ゲ」てこれに参加するなら歓迎すると声明、さらに12月22日近衛三原則(善隣友好、共同防共、経済提携)を発表して汪兆銘(おうちょうめい)政権擁立工作を進め、中国侵略継続の意図を明らかにした。1939年1月総辞職して枢密院議長に就任、同時に平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)内閣の無任所大臣を務めた。1940年7月第二次内閣を組織し、新体制運動を展開して、10月大政翼賛会を結成、日本ファシズムの中心組織をつくりあげた。
 また日独伊三国同盟締結後、日米交渉を進め、これに反対する松岡洋右(まつおかようすけ)外相を排除するためいったん総辞職、1941年7月第三次内閣を組織したが、東条英機(とうじょうひでき)陸相の反対にあって日米交渉は行き詰まり、10月総辞職した。
 1944年東条内閣打倒を図り、1945年2月近衛上奏文を天皇に奉呈し、敗戦必至との認識のもとに、恐ろしいのは敗戦よりもそれに伴う共産革命であり、政府は国体護持(天皇制擁護)を絶対の課題とすべきであると主張した。敗戦後、東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)内閣に副首相格の国務相として入閣、憲法改正などにあたったが、戦犯に指名され、12月16日服毒自殺した。長身端麗にして聡明(そうめい)、「聞き上手」は有名で多くの支持者を得た反面、気力と決断力に欠け、彼自身は内心日中戦争の拡大に賛成ではなかったが、断固たる処置をとらず、戦争拡大を許した政治責任は重大であった。[木坂順一郎]
『矢部貞治著『近衛文麿』上下(1951~1952・近衛文麿伝記編纂刊行会) ▽矢部貞治著『近衛文麿』(1958・時事通信社) ▽共同通信社『近衛日記』編集委員会編『近衛日記』(1968・共同通信社開発局) ▽筒井清忠著『近衛文麿――教養主義的ポピュリストの悲劇』(岩波現代文庫)』

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精選版 日本国語大辞典

このえ‐ふみまろ【近衛文麿】
政治家。公爵。篤麿の長男。名は「あやまろ」とも。東京出身。京都帝大法科卒。昭和八年(一九三三)貴族院議長。同一二年組閣。同一五年第二次内閣を組閣。大政翼賛会を設立し、日独伊三国同盟を締結。他方、日米衝突回避に努力したが失敗。第三次内閣総辞職後、日米開戦に至る。戦後、内大臣府御用掛として憲法改正調査に着手したが、戦犯指定を受けて服毒自殺。明治二四~昭和二〇年(一八九一‐一九四五

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