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足利義稙【あしかが よしたね】

美術人名辞典

足利義稙
室町幕府第十代将軍。義政の弟義視の嫡男。初名は義材、のち義尹。日野富子の推挙で将軍に任官されるが、幕政の専制化を志す細川政元が富子と結び義稙廃立を企て(明応の政変)、義稙は逃亡した。大内義興に擁され再び将軍となるが、細川高国と対立し京を出奔、「島の公方」「流れ公方」と呼ばれた。大永3年(1523)歿、58才。

出典:(株)思文閣

デジタル大辞泉

あしかが‐よしたね【足利義稙】
[1466~1523]室町幕府第10代将軍。義視(よしみ)の子。延徳2年(1490)将軍となり、明応2年(1493)細川政元に追われたが、永正5年(1508)再び将軍となった。大永元年(1521)管領細川高国の乱により淡路に逃れた。島公方(しまくぼう)。流れ公方。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

足利義稙 あしかが-よしたね
1466-1523 室町幕府10代将軍。在職1490-93,1508-22*。
文正(ぶんしょう)元年7月30日生まれ。足利義視(よしみ)の子。9代将軍足利義尚(よしひさ)の死後,伯母日野富子らに擁立されて将軍職をつぐ。明応2年細川政元の反乱で将軍を廃されたが,大内義興(よしおき),細川高国の支援で復した。のち高国と対立し,京都をのがれて淡路(あわじ)(兵庫県),阿波(あわ)(徳島県)とうつり,島公方(しまくぼう)とよばれた。大永(たいえい)3年4月9日死去。58歳。美濃(みの)(岐阜県)出身。初名は義材,のち義尹。法号は恵林院。

出典:講談社
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防府市歴史用語集

足利義稙
 室町幕府の10代目将軍で、将軍の職をおわれて、山口の大内義興[おおうちよしおき]のところへ身を寄せます。後に大内義興によって再び将軍に返り咲きますが、再び将軍職をおわれます。

出典:ほうふWeb歴史館
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世界大百科事典 第2版

あしかがよしたね【足利義稙】
1466‐1523(文正1‐大永3)
室町幕府10代将軍。院号恵林院。初め義材(よしき),のち義尹(よしただ)。義視の子。9代将軍義尚が1489年(延徳1)近江で陣没したとき,義尚の母日野富子らの推挙で次期将軍に嗣立され,美濃より上洛した。90年大御所義政が没してのち幕府の実権を握り,義尚の遺志を継ぎ第2次六角征伐,河内出陣の軍を起こしたが,これが因で細川政元と対立,93年(明応2)4月政元のクーデタにより逮捕,将軍を廃立された。しかし同年越中に逃亡,99年京都奪回を企図したが果たさず周防の大内義興を頼り,1508年(永正5)義興の援助で上洛に成功し,将軍に還任した。

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大辞林 第三版

あしかがよしたね【足利義稙】
1466~1523) 室町幕府一〇代将軍(在職(1490~1493)・1508~1521)。義視よしみの子。島公方・流れ公方とよばれる。1490年将軍となり、93年出陣中細川政元にそむかれ将軍職を追われた。1508年大内義興よしおきの支援で復職したが、細川高国と対立して、21年淡路に出奔、阿波で没した。

出典:三省堂
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

足利義稙
あしかがよしたね
[生]文正1(1466).7.30. 京都
[没]大永3(1523).4.7. 阿波,撫養
室町幕府 10代将軍 (在職 1490~1521) 。初名は義材,のち義尹,義稙と改名。父は義視,母は日野重政の娘 (富子の妹) 。将軍義政の継嗣となる。長享1 (1487) 年従五位下,左馬頭,延徳2 (90) 年従四位下,参議,右近衛中将征夷大将軍

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)

足利義稙
あしかがよしたね
(1466―1523)
室町幕府第10代将軍。文正(ぶんしょう)元年7月30日(一説に29日)生まれ。准三宮(じゅさんぐう)足利義視(よしみ)の子。初名義材(よしき)、ついで義尹(よしただ)、1513年(永正10)より義稙と改名。前将軍義尚(よしひさ)が近江(おうみ)(滋賀県)出征中に陣没したため、日野富子らの推挙で擁立された。義尚の遺志を継いで第二次六角(ろっかく)征伐や河内(かわち)(大阪府)出陣を強行したが、将軍親裁権を強化する結果となり管領(かんれい)細川政元(まさもと)と対立、1493年(明応2)河内出征中に政元のクーデターで将軍位を剥奪(はくだつ)され幽閉されたが、越中(えっちゅう)(富山県)に脱出、のち周防(すおう)(山口県)に逃れ再起を図る。1508年細川高国(たかくに)や大内義興(よしおき)の援助で将軍に復職、細川・大内両氏均衡のうえに幕政を主導したが、義興帰国後は高国と対立、1521年(大永1)京都を出奔し、大永(たいえい)3年4月9日阿波(あわ)(徳島県)で客死した。「流れ公方(くぼう)」「嶋(しま)の公方」と称された。[今谷 明]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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