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足利義氏【あしかが よしうじ】

美術人名辞典

足利義氏
戦国時代の武将。古河公方。父晴氏が北条氏康に幽閉されたあと、弘治元年(1555)氏康に擁立されて家督を継いだが、嗣子なく、天正11年(1583)古河公方は断絶。なお義兼の子左馬頭義氏は別人。

出典:(株)思文閣

世界大百科事典 第2版

あしかがよしうじ【足利義氏】
1189‐1254(文治5‐建長6)
鎌倉前期の武将。義兼の三男で正嫡。母は北条時政女。室は北条泰時女。1213年(建保1)和田氏の乱で武名をあげ,承久の乱では東海道軍の将として活躍。三河の守護となり,おそらく上総の守護も兼ね,所領を拡大,官位も正四位下,左馬頭に昇進した。短期間だが将軍家政所別当を務め,1241年(仁治2)出家した。法名正義。《続拾遺集》に歌が載っている。【青山 幹哉】

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あしかがよしうじ【足利義氏】
1541‐82(天文10‐天正10)
戦国後期の武将。足利晴氏の子。母は北条氏綱女。最後の古河公方(こがくぼう)となる。幼名梅千代王丸。1552年(天文21)晴氏から家督を譲り受けた。55年(弘治1)元服して将軍義輝の偏諱(へんき)を得て義氏と称す。従四位,右兵衛佐に叙せられる。元服後,後北条氏の援助を得て鎌倉や古河に御所を構えたが,69年(永禄12)の越後上杉氏と北条氏との和睦以後,本拠地古河に定住する。北条氏と密接な関係を持ったが,古河公方家としてその間特有な役割を果たし,とくに北関東の諸将に大きな影響を与えた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

足利義氏
あしかがよしうじ
[生]文治5(1189)
[没]建長6(1254).11.21.
鎌倉時代前期の武士。義兼の子。北条泰時の女婿。和田義盛の乱 (→和田合戦 ) ,承久の乱宝治合戦に参加,鎌倉幕府に貢献。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

足利義氏
あしかがよしうじ
(1189―1254)
鎌倉中期の武将。義兼の子で母は北条時政(ときまさ)の娘。武蔵守(むさしのかみ)、陸奥(むつ)守、左馬頭(さまのかみ)などを歴任し正四位下に至る。1213年(建保1)和田義盛(よしもり)の乱で、豪傑をもって知られる朝比奈(あさひな)三郎義秀との一騎打ちで五分に渡り合った話は有名。1221年(承久3)の承久(じょうきゅう)の乱や1247年(宝治1)の三浦氏の乱では北条氏のもとで戦功をあげた。1241年(仁治2)出家して正義と称した。高野山(こうやさん)の金剛三昧(こんごうさんまい)院に大仏殿を造立し伯母北条政子(まさこ)の菩提(ぼだい)を弔った。なお、最後の古河公方(こがくぼう)となった足利義氏(1541―1582)は別人。[朧谷 寿]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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