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足利義政【あしかが よしまさ】

美術人名辞典

足利義政
室町幕府八代将軍。六代義教の子。幼名は三寅・三春。初名は義成。初めは実子がなく弟義視を後嗣としたが、翌年妻日野富子が義尚を生み、応仁の乱が起こる。のち義尚に将軍職を譲り、銀閣をつくって隠棲し、東山殿と呼ばれた。芸能風流を好み、文化人を庇護するなど、東山文化の興隆を支えた。延徳2年(1490)歿、55才。

出典:(株)思文閣

デジタル大辞泉

あしかが‐よしまさ【足利義政】
[1436~1490]室町幕府第8代将軍。在職1449~1473。義教(よしのり)の子。初め弟義視(よしみ)を養子としたが、実子の義尚(よしひさ)が生まれるとこれを将軍にしようとして応仁の乱の一因となった。芸術の愛好保護、銀閣の建立などにみられるこの時代の文化を東山文化とよぶ。東山殿。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

足利義政 あしかが-よしまさ
1435-1490 室町幕府8代将軍。在職1449-74*。
永享7年1月2日生まれ。足利義教(よしのり)の子。母は日野重子(しげこ)。文安6年将軍職につくが,畠山(はたけやま)持国,細川勝元ら宿老中心の政治をきらい遊興にふける。寛正(かんしよう)5年弟義視(よしみ)を後嗣にさだめたが,妻日野富子が義尚(よしひさ)を生んだため,後継者争いがおこり,応仁(おうにん)の乱に発展。乱中の文明5年義尚に将軍職をゆずり,のち京都東山にうつって東山殿とよばれる。銀閣寺,水墨画,能楽,生け花などに代表される東山文化をうみだした。延徳2年1月7日死去。56歳。幼名は三春。初名は義成。法号は慈照院。
【格言など】咲き満ちて花より外に色もなし(寛正6年の連歌会)

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世界大百科事典 第2版

あしかがよしまさ【足利義政】
1436‐90(永享8‐延徳2)
室町幕府8代将軍。1449‐73年(宝徳1‐文明5)在職。6代将軍義教の子,7代将軍義勝の同母弟。母は日野重光の女重子。1441年(嘉吉1)いわゆる嘉吉の乱で義教が横死し,ついで43年義勝も夭死したため家督を継ぐ。46年(文安3)後花園天皇から義成(よししげ)と命名される。49年15歳で元服,征夷大将軍となる。53年(享徳2)義政と改名。60年(寛正1)左大臣,64年准三宮となる。征夷大将軍就任のとき判始の儀式を行ったが,実際に御判御教書を発給するのは1455年ころからである。

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大辞林 第三版

あしかがよしまさ【足利義政】
1435~1490) 室町幕府八代将軍(在職1449~1473)。義教よしのりの子。弟義視よしみを養子としたが翌年実子義尚よしひさが生まれ、将軍継嗣争いは応仁の乱の一因となった。73年将軍職を義尚に譲り、のち東山に銀閣を建立。宗教・芸術を愛好し、東山文化が栄える因をなした。東山殿。 → 東山文化

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

足利義政
あしかがよしまさ
[生]永享8(1436).1.2. 京都
[没]延徳2(1490).1.7. 京都
室町幕府8代将軍 (在職 1449~73) 。義教の次男。母は日野重子。初名は義成。嘉吉3 (1443) 年兄の将軍義勝病死ののち,管領畠山持国その他の大名らの決により将軍継嗣と定められた。宝徳1 (49) 年元服し,征夷大将軍となる。享徳2 (53) 年義政と改名。寛正5 (64) 年弟の僧義尋を還俗させて義視と改名させ,継嗣と定めたが翌年,妻日野富子が男子 (義尚) を出産し,富子が義尚の将軍襲職を望んだことから応仁の乱の一因となった。文明5 (73) 年将軍職を義尚に譲り,のち京都東山に山荘を造って隠居したので,世人は東山殿と呼んだ。延徳1 (89) 年将軍義尚病死ののち再び政務をとったが,翌年病死した。 (→東山文化 )  

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日本大百科全書(ニッポニカ)

足利義政
あしかがよしまさ
(1436―1490)
室町幕府第8代将軍。義教(よしのり)の子。永享(えいきょう)8年正月2日生まれ。1443年(嘉吉3)7月21日兄の義勝(よしかつ)が死去したことにより後嗣(こうし)となる。最初義成(よししげ)と称して1449年(宝徳1)4月元服、4月29日征夷(せいい)大将軍を宣下(せんげ)される。1453年(享徳2)6月13日義政と改名。極官は従(じゅ)一位、左大臣、准三宮(じゅさんぐう)。贈太政大臣(だいじょうだいじん)。1473年(文明5)12月将軍職を子義尚(よしひさ)に譲り隠居。義政は8歳で家督を継いだが、幕府の主導権は畠山持国(はたけやまもちくに)、細川勝元(かつもと)、山名持豊(やまなもちとよ)らの宿老が握り、嘉吉(かきつ)の乱(1441)以来の危機的な状況を乗り切ろうとする宿老中心の政治体制であった。義政時代の初期には奉公衆の充実を図るため将軍直轄軍を整備するなど、将軍権力の強化に意を注いだ。しかし、この期における政治的、社会的矛盾の激化は幕府支配体制の根本を揺さぶり始めていた。中央政界では幕府権力を支える守護家内部に内紛が噴出し、家督をめぐる抗争が続発し始める。この内紛は管領(かんれい)家である畠山、斯波(しば)の両家にも及び、重大な情勢となっていく。そもそもこのような争いは領国内の国人(こくじん)が領国内における自己の主導権を確立しようとして起こすことが多く、地方においても国人相互の対立があらわになり、自立的動きをみせ始めてきていることを示している。また各地に民衆が徳政を求めて蜂起(ほうき)し、徳政一揆(いっき)が頻発していた。さらに1459年(長禄3)以後、寛正(かんしょう)の大飢饉(ききん)とよばれる飢饉が起こり、疫病と飢餓が蔓延(まんえん)していた。中央、地方の区別なく政治的社会的混乱が深まりつつあるとき、義政はこのような状況をも顧みず、猿楽(さるがく)、遊山、酒宴などの遊興に身をゆだね、そのためにあらゆる機会をつかんで収奪を強行した。このような情勢のなかで分裂は将軍家にも現れた。義政は1464年(寛正5)弟の浄土寺門跡義尋(ぎじん)を義視(よしみ)と名のらせ後嗣としたのであるが、翌1465年夫人の日野富子が義尚(よしひさ)を産んだため、富子と義視との間に争いが起こり、細川勝元と山名宗全(そうぜん)の幕府内部における勢力争いと結び付き、さらに斯波、畠山の内紛も加わって、幕府を二分する応仁(おうにん)の乱が勃発(ぼっぱつ)したのである。乱の最中、義政は将軍職を義尚に譲り逃避の風流生活に入った。京都の東山(ひがしやま)に山荘を造営し、義満の金閣に擬した銀閣を建て、1483年(文明15)ここに移り住んだ。この時期、禅宗の影響を強く受けた水墨画、茶、連歌、能、いけ花など、高い価値をもった文化が開花した。この文化を一般に東山文化とよんでいる。延徳(えんとく)2年正月7日没。法号は慈照院道慶喜山(じしょういんどうけいきざん)[伊藤喜良]
『鈴木良一著『応仁の乱』(岩波新書)』

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