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足利直義【あしかが ただよし】

美術人名辞典

足利直義
南北朝時代の武将尊氏の弟。初名は高国。元弘の乱において尊氏と行動をともにし、建武の新政で左馬頭・相模守となる。北条時行の乱に際して鎌倉に幽閉していた護良親王を殺害。室町幕府成立に伴い尊氏を補佐して政務を担当、守護級の足利一門や寺社本所勢力の支持を得たが、急進派の高師直と対立、尊氏とも袂を別ち、鎌倉で尊氏に討たれた。正平7年(1352)歿、47才。

出典:(株)思文閣

デジタル大辞泉

あしかが‐ただよし【足利直義】
[1306~1352]南北朝時代の武将。尊氏の弟。尊氏とともに建武の中興に参加したが、のちに不和となり、毒殺された。錦小路殿

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

足利直義 あしかが-ただよし
1306-1352 鎌倉-南北朝時代の武将。
徳治(とくじ)元年生まれ。足利貞氏の子。兄尊氏とともに建武(けんむ)政権樹立に貢献。建武2年中先代(なかせんだい)の乱に際し護良(もりよし)親王を殺害し,建武政権と決別する。室町幕府創設後は尊氏を補佐。のち執事高師直(こうの-もろなお)と対立し,尊氏とも不和となる(観応(かんのう)の擾乱(じょうらん))。一時和睦(わぼく)したが,尊氏とたたかって降伏,観応3=正平(しょうへい)7年2月26日鎌倉で死去。47歳。毒殺といわれる。初名は忠義,のち高国。通称は三条殿,錦小路殿。法名は恵源。

出典:講談社
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世界大百科事典 第2版

あしかがただよし【足利直義】
1306‐52(徳治1‐正平7∥文和1)
初期室町幕府の執政者,武将。足利尊氏の弟。父貞氏,母は尊氏と同じ上杉頼重の女清子。兵部大輔,左馬頭を経て相模守,左兵衛督となり,住宅のあった京都の地名から三条殿,錦小路禅門などと呼ばれた。元弘の乱当時にはすでに壮年に達していたが,鎌倉幕府の中枢に登用された形跡はない。1333年(元弘3)尊氏とともに北条氏反旗を掲げ六波羅を攻撃した。建武政府成立後まもない同年12月,成良親王を奉じて鎌倉に入り関東10ヵ国を管領したが,これは新政府内で冷遇されていた足利氏にとって有力な地域的拠点となった。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

あしかがただよし【足利直義】
1306~1352) 南北朝時代の武将。尊氏たかうじの弟。尊氏の幕府創設に協力し、実権を握ったが、尊氏の執事高師直こうのもろなおと対立、尊氏とも不和になり毒殺された。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

足利直義
あしかがただよし
[生]徳治1(1306)
[没]正平7=観応3(1352).2.26. 鎌倉
南北朝時代初期の武将。足利貞氏の子で足利尊氏の弟。母は上杉清子。南北朝時代には,錦小路殿,高倉殿などと呼ばれた。嘉暦1 (1326) 年兵部大輔となる。元弘の乱には,いったん鎌倉幕府の命令に従って西上したが,元弘3=正慶2 (1333) 年兄尊氏とともに後醍醐天皇に帰順して六波羅探題を滅ぼし,建武政府の成立に貢献した。元弘3=正慶2 (1333) 年左馬頭,次いで相模守を兼任,その年の暮れ,成良親王を奉じて鎌倉に下った。建武2 (1335) 年,北条時行の反乱軍に鎌倉を攻められた直義は,監禁中の護良親王を殺して西走したが,京都から救援に東下した尊氏の軍と三河で合流し,鎌倉で時行を破った。こののち,朝廷の帰京命令に対し,直義は尊氏を説いてついに建武政府にそむかせた。兄弟は延元1=建武3 (1336) 年,兵を率いて入京したが,まもなく政府軍に敗れて九州へ逃れた。5月,摂津湊川の戦いに楠木正成を破って再度入京,光明天皇を擁立し,室町幕府を創設した。後醍醐天皇は吉野に逃れ,南北朝の動乱が始まった。直義は延元3=暦応1 (1338) 年左兵衛督,興国5=康永3 (1344) 年従三位となる。室町幕府は当初尊氏と直義との二元政治が行なわれていたが,尊氏の執事高師直が直義と対立したのを発端に,尊氏と直義との争いとなり,正平4=貞和5 (1349) 年,直義はその地位を追われて出家し,恵源と称した。しかし正平6=観応2 (1351) 年には,尊氏,師直軍を破り,尊氏と和した。この講和は長く続かず,直義はまもなく京都を脱出し,北陸路を経て鎌倉に入った。正平7=観応3 (1552) 年追討のため東下してきた尊氏と再び和睦したが,ついに鎌倉大休寺で毒殺された。法号は大休寺古山恵源。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

足利直義
あしかがただよし
(1306―1352)
南北朝時代の武将。尊氏(たかうじ)の同母弟。三条殿、錦(にしき)小路殿と称せられた。元弘(げんこう)の変には尊氏とともに活動し、建武政府成立後左馬頭(さまのかみ)、相模守(さがみのかみ)に任じられ、1333年(元弘3・正慶2)成良親王の執事として関東10か国を管轄(かんかつ)した。1335年(建武2)の中先代(なかせんだい)の乱では護良親王を殺害し三河まで逃れたが、東下してきた尊氏と合流し北条時行(ときゆき)軍を破り鎌倉を回復、ついで西上入京したが敗退し九州に逃れた。1336年(延元1・建武3)東上し、尊氏とともに幕府を開いた。幕府創立当時尊氏は軍事面、直義は統治面を担当する二頭政治であったが、まもなく尊氏の権限は直義に委譲され、以後直義が表面にたち政治を行った。
 直義は執権政治を理想として文治政治をとり、幕府機構の整備、法秩序の確立、仏教の興隆など、保守的な旧勢力保護の政策をとった。そのため、畿内(きない)近国の旧非御家人(ごけにん)や庄官(しょうかん)などの新興勢力の反発を買い、その代表ともいえる執事高師直(こうのもろなお)と対立した。以後直義派と師直派とは、政策の決定、中央官職や各国守護職などの任免をめぐって争い、1349年(正平4・貞和5)直義による実力行使となり、ついには観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)とよばれる室町幕府初期最大の内乱にまで発展した。師直を摂津武庫川(むこがわ)で殺した直義は尊氏と和解するが、1351年(正平6・観応2)7月直義は出京し北陸を経て鎌倉に入り、勢力の回復を目ざした。しかし東下してきた尊氏のため相模早河尻(はやかわじり)で敗れ、尊氏に降伏した。翌1352年2月26日鎌倉で没した。尊氏による毒殺といわれている。[小要 博]
『佐藤進一著『日本の歴史 9』(1965・中央公論社) ▽高柳光寿著『改稿 足利尊氏』(1966・春秋社)』

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367日誕生日大事典

足利直義 (あしかがただよし)
生年月日:1306年2月26日
鎌倉時代後期;南北朝時代の武将;副将軍
1352年没

出典:日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」
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精選版 日本国語大辞典

あしかが‐ただよし【足利直義】
南北朝時代の武将。尊氏の弟。居から三条殿、錦小路殿などと称された。室町幕府を開いた尊氏を補佐した。のち、高師直(こうのもろなお)と争い、次いで尊氏ともしばしば戦ったが敗れ、鎌倉で没する。尊氏に毒殺されたともいわれている。徳治元~観応三=正平七年(一三〇六‐五二

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