Rakuten infoseek

辞書

足利尊氏【あしかが たかうじ】

美術人名辞典

足利尊氏
室町幕府初代将軍。貞氏の子。初名高氏。鎌倉幕府より後醍醐天皇討伐の命を受けるが、反旗を掲げ六波羅探題を滅ぼす。のち天皇と対立を深め、建武式目を制定して幕府を開き征夷大将軍となった。以後、吉野の南朝、弟直義と抗争を続けた。夢窓疎石に帰依し、後醍醐天皇の冥福を祈るため元に天龍寺船を派遣し、その利益で天龍寺を建立した。延文3年(1358)歿、54才。

出典:(株)思文閣

デジタル大辞泉

あしかが‐たかうじ〔‐たかうぢ〕【足利尊氏】
[1305~1358]室町幕府初代将軍。在職1338~1358。初め高氏と称し、後醍醐天皇諱(いみな)尊治の一字を賜って改名。元弘の変六波羅(ろくはら)を攻め落としたが、のち天皇に背き、持明院統(じみょういんとう)光明天皇を立てて北朝を興した。延元3=暦応元年(1338)に征夷大将軍となり、室町幕府を創始
山路愛山による歴史評論。明治42年(1909)刊行。

出典:小学館
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:田中牧郎、曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル版 日本人名大辞典+Plus

足利尊氏 あしかが-たかうじ
1305-1358 室町幕府初代将軍。在職1338-58。
嘉元(かげん)3年生まれ。足利貞氏の子。母は上杉清子。後醍醐(ごだいご)天皇による鎌倉幕府打倒の元弘(げんこう)の乱で,はじめ幕府軍につくが倒幕に転じ,建武(けんむ)新政第一の功臣となる。のち建武政権にそむき,天皇方に敗れて一時九州にのがれるが,建武3=延元元年楠木正成(まさしげ)をやぶって京にはいり,光明天皇(北朝)を擁立。建武式目を制定,室町幕府をひらいた。2年後征夷大将軍。観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)で弟の足利直義(ただよし)を討つ。夢窓疎石(むそう-そせき)に帰依し,天竜寺などを建立した。延文3=正平(しょうへい)13年4月30日死去。54歳。初名は高氏。法号は等持院。
【格言など】文武両道は,車輪の如し

出典:講談社
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

防府市歴史用語集

足利尊氏
 室町幕府の最初の将軍です。鎌倉幕府をほろぼした後、後醍醐[ごだいご]天皇と対立して兵を挙げます。一度は負けますが、後醍醐[ごだいご]天皇を吉野[よしの]へ追いやり、南北朝[なんぼくちょう]時代になります。

出典:ほうふWeb歴史館
Copyright 2002,Hofu Virtual Site Museum,Japan
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版

あしかがたかうじ【足利尊氏】
1305‐58(嘉元3‐正平13∥延文3)
室町幕府の初代将軍。在職1338(延元3∥暦応1)‐58年。足利貞氏の次子,母は上杉頼重の女上杉清子。初名高氏,妻は鎌倉幕府執権北条(赤橋)守時の妹登子。足利氏源氏将軍断絶後は清和源氏の嫡流として御家人の間で重んじられ,北条氏と肩を並べる存在であった。北条氏とは代々婚姻を重ね,その関係もはじめは良好であった。ところが,鎌倉後期になって,幕府政治が北条氏専制の傾向を強めていくと,しだいに圧迫を受けるようになり,高氏の祖父家時のころから源氏再興の志を抱くようになっていた。

出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.

大辞林 第三版

あしかがたかうじ【足利尊氏】
1305~1358) 室町幕府の初代将軍(在職1338~1358)。初名は高氏。元弘の乱で建武の中興のきっかけをつくる働きをし、後醍醐天皇の諱いみな尊治の一字を賜り改名。のち天皇にそむき、1336年光明天皇を擁立し、室町幕府を開いて南朝と対立した。夢窓疎石に帰依し、天竜寺などを建立。

出典:三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

足利尊氏
あしかがたかうじ
[生]嘉元3(1305)
[没]正平13=延文3(1358).4.30. 京都
室町幕府初代将軍 (在職 1338~58) 。貞氏の子。母は上杉清子。初名は高氏。元弘の乱に際し,元弘3=正慶2 (1333) 年5月六波羅探題を攻め滅ぼし,建武政府が成立すると,高氏は従三位,武蔵守に叙任され,天皇の諱の1字を賜って尊氏と改名した。しかし建武2 (1335) 年,建武政府にそむき,建武3 (1336) 年光明天皇を擁立して幕府を創設。後醍醐天皇は吉野に逃れ,南北朝の動乱が始まった。延元3=暦応1 (1338) 年征夷大将軍,以後累進して正二位権大納言にいたる。当初は弟直義と二元政治をとったが,正平7=観応3 (1352) 年直義を殺し,将軍への権力集中に成功した。法号は等持院仁山妙義。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)

足利尊氏
あしかがたかうじ
(1305―1358)
南北朝時代の武将。室町幕府の初代将軍。足利貞氏(さだうじ)の二男。母は上杉頼重(よりしげ)の女(むすめ)清子(きよこ)。初名又太郎高氏。1319年(元応1)従(じゅ)五位下治部大輔(じぶのだいぶ)。北条久時の女登子と結婚。[佐藤和彦]

尊氏の政権構想

1331年(元弘1)8月、後醍醐(ごだいご)天皇が笠置(かさぎ)で挙兵したとき、大仏貞直(おさらぎさだなお)とともに幕府軍を率いて上洛(じょうらく)。元弘(げんこう)の変を平定後、鎌倉に帰った。1333年2月、天皇が隠岐(おき)を脱出して、名和長年(なわながとし)と船上山(せんじょうさん)にこもるや、幕府軍を率いて再度西上したが、三河(愛知県)で一門の長老吉良(きら)貞義に北条氏討伐の決意を打ち明け、船上山への征途を偽装しつつ丹波(たんば)に至り、4月、篠村八幡(しのむらはちまん)の社前で源氏再興の旗をあげた。5月、赤松則村(のりむら)、千種忠顕(ちぐさただあき)らと京都に侵攻し六波羅探題(ろくはらたんだい)を滅ぼし、奉行所(ぶぎょうしょ)を置いて、全国各地から上洛する武将を傘下に加えた。後醍醐天皇は帰京後ただちに尊氏の昇殿を許し、鎮守府将軍とし、さらに諱(いみな)(尊治)の一字を与えて、北条氏討伐戦における尊氏の戦功を賞揚した。尊氏は、武蔵(むさし)など3か国の国務と守護職、さらに30か所に及ぶ所領を与えられたものの、征夷大将軍に任命されなかったことを不満とし、建武(けんむ)政権のいかなる機関にも参加せず、奉行所を強化し、独自の政権構想を固めつつあった。そのため、護良親王との反目がしだいに深まり、1334年(建武1)11月には、天皇に護良親王の逮捕を強要し、親王の身柄(みがら)を鎌倉の弟直義(ただよし)のもとへ送り、ついに幽閉した。翌1335年6月、北条時行(ときゆき)が信濃(しなの)(長野県)に挙兵し、鎌倉へ侵攻するや、尊氏は時行の乱を鎮圧するため東下したが、このときにも征夷大将軍の地位を許されなかった。8月には、時行軍を撃破して鎌倉を奪回したものの、直義の諫言(かんげん)を受け入れて帰洛せず、11月、逆に、直義の名をもって、新田義貞(にったよしさだ)誅伐(ちゅうばつ)の檄文(げきぶん)を諸将に送って軍勢催促を要請した。義貞誅伐を名目として、建武政権への反意を表明したものである。後醍醐天皇は、新田義貞と陸奥(むつ)の北畠顕家(きたばたけあきいえ)らに尊氏誅伐を命令した。尊氏は箱根竹の下の合戦に義貞軍を破り、1336年(延元1・建武3)1月には入京し、天皇を叡山(えいざん)へと逐(お)った。しかし、尊氏の背後から入京した顕家軍との合戦に敗れ、九州へと敗走した。この途中、味方武将の動揺を鎮めるため、元弘以来の没収地を返付すると発表し、朝敵という汚名を逃れるために、光巌(こうごん)上皇の院宣を獲得した。さらに、一門の細川、今川氏や、小早川(こばやかわ)、大内氏などの有力武将を中国、四国の各地に派遣して、反撃の際の拠点づくりを怠らなかった。同年3月、尊氏は多々良浜(たたらはま)(福岡市東区)で菊池軍を破ったのち、勢力を急速に回復し、5月楠木正成(くすのきまさしげ)を将とする建武政府軍を兵庫湊川(みなとがわ)に破り、6月には入京を果たし、京都近郊の合戦において政府軍をほぼ壊滅させた。8月、光明(こうみょう)天皇を擁立した尊氏は、「この世は、夢のごとくにて候」と、遁世(とんせい)を祈願し、今世の果報を直義に賜りたいとの自筆願文(がんもん)を清水(きよみず)寺に納めたが、混沌(こんとん)とした内乱期社会が、武士の棟梁(とうりょう)としての尊氏を隠遁させるはずもなく、彼の願望は終生を通じての夢でしかありえなかった。11月に、神器を光明天皇に引き渡した後醍醐天皇は、翌月、吉野に逃れて南朝を建てたが、この間尊氏は、「建武式目十七カ条」を制定して、室町幕府の施政方針を確立した。1337年(延元2・建武4)3月、高師泰(こうのもろやす)に越前(えちぜん)(福井県)金ヶ崎城を攻略させた尊氏は、翌1338年5月、北畠顕家を堺(さかい)の石津(いしづ)浜に敗死させ、閏(うるう)7月には、北国で勢力を挽回(ばんかい)しつつあった新田義貞をも越前藤島で戦死させた。そして8月、尊氏は、待望久しかった征夷大将軍に任命された。元弘以来の戦没者の遺霊を弔い、天下の泰平を祈願するために、諸国に安国(あんこく)寺と利生(りしょう)塔を建立し始めたのも、この年のことである。1339年(延元4・暦応2)8月、後醍醐天皇が吉野で死去したことを知った尊氏は、直義とともに天皇のために盛大な法要を営み、さらに天竜寺を創建して、その菩提(ぼだい)を弔っている。[佐藤和彦]

二頭政治―足利氏の内訌

1347年(正平2・貞和3)から翌1348年にかけて、室町幕府軍と楠木正行(まさつら)らを中心とする南軍との攻防戦が展開されたが、この過程において、尊氏の執事(しつじ)高師直(こうのもろなお)の勢力が急速に伸張し、政務を統轄して声望の高かった直義との対立が激化した。尊氏は、師直の強請によって直義を退け、義詮(よしあきら)を鎌倉から呼び寄せて、直義のもっていた諸権限を義詮に与えた。尊氏の庶子で、直義の養子となっていた直冬(ただふゆ)も九州へと逐(お)われた。1350年(正平5・観応1)10月、直義は大和(やまと)に赴き、南朝へ降伏して師直誅伐(ちゅうばつ)の軍をおこした。翌1351年2月には、直義党の勢力は尊氏・師直派を圧倒し、ついに師直・師泰らは直義党の上杉能憲(よしのり)によって殺害された。尊氏は直義党の処置を怒り、諸将も2派に分かれて対立するに至った。こうして、直義と師直との対立抗争に端を発した観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)は、ついに尊氏・義詮派と直義・直冬党との全面的な対立へと発展し、8月、直義は北国へと逃走した。直義は北国から関東へと逃れたが、尊氏は直義討伐軍を率いて追撃し、1352年(正平7・文和1)1月には鎌倉へ入り、翌月、直義を毒殺した。尊氏は以後1年有半を関東で過ごすが、それは、新田義興(よしおき)の挙兵によって混乱した東国の政情を回復せんがための日々であった。尊氏が鎌倉より京都に帰ったのは翌1353年9月のことであった。1355年(正平10・文和4)正月から3月にかけての直冬党の京都進攻を退けたのち、尊氏・義詮派はその勢力をようやく確立し、翌1356年1月には越前の斯波高経(しばたかつね)も復帰し、室町幕府は、観応の擾乱による痛手を回復するに至った。1358年(正平13・延文3)尊氏は九州への遠征を計画した。それは、菊池氏に擁立された懐良親王の南軍が、博多(はかた)に攻め入るなどして勢力を強化しつつある情況を一挙に打開せんがためであった。しかし病を得て、この計画を果たすまもなく、この年4月30日、京都二条万里小路(までのこうじ)邸で死去した。法名は仁山妙義。等持院殿。墓所は京都・等持院にある。[佐藤和彦]

人となり

尊氏の人となりは、つねに直義と対比されるが、尊氏が八朔(はっさく)の贈り物を惜しげもなく人々に与えたのに対し、直義は八朔の習俗そのものを嫌い、贈り物を受け取らなかったといわれている。夢窓疎石(むそうそせき)は尊氏を、勇気、慈悲、無欲の三徳を兼備した前代未聞の将軍であったと評価している。尊氏は疎石に帰依して禅を学ぶ一方、地蔵信仰や聖天信仰などにも深く傾倒していた。[佐藤和彦]
『山路愛山著『足利尊氏』(1909・岩波書店) ▽高柳光寿著『改稿 足利尊氏』(1966・春秋社) ▽佐藤進一著『南北朝の動乱』(1965・中央公論社) ▽佐藤和彦著『南北朝内乱』(1974・小学館)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

足利尊氏」の用語解説はコトバンクが提供しています。

足利尊氏の関連情報

他サービスで検索

「足利尊氏」のスポンサー検索

(C)The Asahi Shimbun Company /VOYAGE GROUP, Inc. All rights reserved.
No reproduction or republication without written permission.