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足代弘訓【あじろ ひろのり】

美術人名辞典

足代弘訓
江戸後期の国学者。伊勢山田生。伊勢神宮権禰宜足代弘早の子。本姓は度会。幼名は慶二郎、のち式部、通称は権太夫、号を寛居。荒木田久老芝山持豊本居大平・春庭に学び、国史・律令・和歌・有職故実に通じ、本居学派の中心的人物となる。『国史人名部類』『文徳実録故事成語考』など、多くの著述を残す。経世の志が強く、大塩平八郎吉田松陰らと交わった。安政3年(1856)歿、73才。

出典:(株)思文閣

デジタル大辞泉

あじろ‐ひろのり【足代弘訓】
[1784~1856]江戸後期の歌人・国学者。伊勢外宮(げくう)の神官。号は寛居(ゆたい)。晩年に尊王を説き、古典の類聚(るいじゅ)編纂(へんさん)に努めた。歌集に「海士(あま)の囀(さえずり)」がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

足代弘訓 あじろ-ひろのり
1785*-1856 江戸時代後期の国学者,神職。
天明4年11月26日生まれ。伊勢神社外宮(げくう)の権禰宜(ごんのねぎ)。荒木田久老(ひさおゆ),本居春庭(もとおり-はるにわ)・大平(おおひら)らにまなぶ。律令,有職(ゆうそく)故実にも通じ,古典の考証にすぐれた。天保(てんぽう)の飢饉(ききん)には私財を投じて救民につとめ,大塩平八郎とも親交があった。安政3年11月5日死去。73歳。通称は権太夫。号は寛居。編著に「日本紀人名部類」,著作に「本職平職考」など。

出典:講談社
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世界大百科事典 第2版

あじろひろのり【足代弘訓】
1784‐1856(天明4‐安政3)
江戸末期の国学者。伊勢外宮祠官。通称権太夫,号は寛居(ゆたい)。はじめ荒木田久老に師事,その没後は本居春庭・大平(おおひら)に入門し,鈴屋系の伊勢山田社中の指導者として活躍した。また京や江戸で広く天下の士と交わり,文名を挙げる一方,天保の飢饉に際しては,私財を投げうち民の救恤(きゆうじゆつ)に奔走するなどした。堅実な学風で知られ,《度会系図考証》《万葉集類語》《詞の重浪(しきなみ)》等の考証・類聚・語学に優れた業績をのこした。

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大辞林 第三版

あじろひろのり【足代弘訓】
1784~1856) 江戸後期の国学者・歌人。伊勢外宮の神職。通称、権太夫。号、寛居ゆたい。荒木田久老・本居春庭らに師事。考証や古典の類聚編纂に努める。天保の飢饉ききんに私財を投じ窮民を救った。「日本紀人名部類」「海士あまの囀さえずり」など著書多数。

出典:三省堂
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

足代弘訓
あじろひろのり
[生]天明4(1784).11.26. 伊勢
[没]安政3(1856).11.5. 伊勢
江戸時代後期の国学者。豊受大神宮神官足代弘早の子。本居大平らに国学を学ぶ。大塩平八郎,吉田松陰らの儒学者や幕末の志士と親交があった。考証学を中心とした。主著『続日本紀人名部類』『寛居雑纂』。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)

足代弘訓
あじろひろのり
(1784―1856)
江戸末期の国学者。伊勢外宮(いせげくう)の権禰宜(ごんねぎ)、弘早(ひろとし)の子。17歳で家督を相続。国学を荒木田久老(あらきだひさおゆ)、本居春庭(もとおりはるにわ)、本居大平(おおひら)に学び、上京して和歌を芝山持豊(しばやまもちとよ)(1742―1815)に、有職(ゆうそく)を竹屋光棣(たけやみつとみ)(1781―1837)に学び、江戸、大坂に出て塙保己一(はなわほきいち)、大塩平八郎らと交流した。研究は、国語・国文のほか、神道・国史に及び、考証や古典の類聚(るいじゅう)・部類に業績を残し、『日本紀人名部類』以下の国史人名部類、『万葉集類語』などの歌書部類、『大塩平八郎一件記』、歌集『海人(あま)の囀(さえずり)』など、1230部(2179冊)を著す。門下に佐々木弘綱(ささきひろつな)(1828―1891)がいる。[上野 理]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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367日誕生日大事典

足代弘訓 (あじろひろのり)
生年月日:1784年11月26日
江戸時代後期の国学者
1856年没

出典:日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」
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