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赤木城跡及び田平子峠刑場跡【あかぎじょうあとおよびたびらことうげけいじょうあと】

国指定史跡ガイド

あかぎじょうあとおよびたびらことうげけいじょうあと【赤木城跡及び田平子峠刑場跡】

三重県熊野市紀和町にある城跡と刑場跡。赤木城跡は標高238m、比高約30mの丘陵上に位置し、北方と西方を大きな堀で断ち切って周囲に高さ3mの石垣がある本丸を中心に、南東の支尾根に石垣のある2つの曲輪(くるわ)、南西にも石垣のある曲輪を配している。規模は大きくないが、近世城郭の萌芽ともいうべき城郭機能を兼ね備え、天正期(1573~92年)の城郭の特色を残している。田平子峠刑場跡は藤堂高虎(とうどうたかとら)らの新領主に抵抗した北山の国人士豪らが処刑された刑場の跡である。1585年(天正13)に豊臣秀長が大和、紀伊、和泉と伊賀の一部を支配すると、秀長の配下だった藤堂高虎は紀伊に入り、北山入り(北山郷の攻略)にあたって北山の在地豪族らの討伐、懐柔を行った。この北山入りの際に、高虎によって築かれたのが赤木城である。その後、藤堂高虎は伊予に移封され、紀伊には秀長の重臣、桑山氏が、次いで関ヶ原の戦い以降は浅野幸長(よしなが)が入った。1614年(慶長19)の大坂冬の陣では、北山でも大坂方に呼応して旧来の勢力による北山一揆が起きたが、その一揆も浅野幸長によって再び鎮圧され、その折にもこの赤木城が使用されたと考えられる。この2度にわたる北山入りと北山一揆の鎮圧は、「行ったら戻らぬ赤木の城へ、見捨てどころは田平子じゃ」と、村人が長く語り伝えるところとなる。田平子峠は『紀伊続風土記』にも記されているように「獄門場跡」として記憶され、地蔵が祀られて供養碑が建立されている。赤木城跡および田平子峠刑場跡は、豊臣・徳川政権が確立され、その支配力が全国に浸透していく政治過程を示す遺跡で、とりわけ赤木城跡は天正期の遺構の保存状態が良好であり、近世城郭の原形を示す城跡として、豊臣・徳川両政権における重鎮であった藤堂高虎の事績を示す城としても貴重である。また、田平子峠刑場跡はこうした新領主に対し、在地の旧来勢力が抵抗をくり返しながらも鎮圧されていく過程を示す重要な遺跡である。そのため、1989年(平成1)に国の史跡に指定された。JR紀勢本線阿田和駅からコミュニティバス「田平子」下車、徒歩約10分。

出典:講談社
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