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藤原道長【ふじわらのみちなが】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

藤原道長
ふじわらのみちなが
[生]康保3(966).京都
[没]万寿4(1027).12.4. 京都
平安時代中期の廷臣。兼家の第5子。母は藤原中正の娘時姫。権大納言の地位にあった長徳1 (995) 年長兄道隆,次兄道兼が相次いで没すると,その地位を道隆の嫡子内大臣伊周 (これちか) と争って,同年内覧,右大臣,氏長者となって政権の首座についた。翌年伊周の失脚により左大臣。長和5 (1016) 年外孫の後一条天皇践祚とともに摂政となったが,翌年これを嫡子頼通に譲った。しかし実権は自分で握り,藤原摂関政治の最盛期を築いた。同年従一位,太政大臣となったが,翌年これを辞し,さらに翌寛仁3 (19) 年出家し,行観 (同年行覚と改む) といった。出家後法成寺を造営し,晩年はここに住んだ。日記『御堂関白記』があるが,関白に就任したことはない。

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デジタル大辞泉

ふじわら‐の‐みちなが〔ふぢはら‐〕【藤原道長】
[966~1028]平安中期の公卿。兼家の五男。娘を次々と后に立て、外戚となって内覧摂政太政大臣を歴任、権勢を振るい、栄華をきわめた。晩年に出家し、法成寺を造営。関白になった事実はないが御堂関白(みどうかんぱく)と称された。日記「御堂関白記」がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

藤原道長 ふじわらの-みちなが
966-1028* 平安時代中期の公卿(くぎょう)。
康保(こうほう)3年生まれ。藤原兼家の5男。母は藤原中正の娘時姫。兄道隆・道兼の死去で,長徳元年(995)内覧,右大臣,2年左大臣。後一条天皇の摂政となり,寛仁(かんにん)元年(1017)従一位,太政大臣。娘の彰子,妍子(けんし),威子(いし)の立后により摂関の全盛期をきずいた。詩は「本朝麗藻」に,歌は勅撰集に43首がはいる。万寿4年12月4日死去。62歳。通称は御堂(みどう)関白,法成寺関白。日記に「御堂関白記」。
【格言など】此の世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたる事も無しと思へば(威子が中宮になったときの歌)

出典:講談社
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世界大百科事典 第2版

ふじわらのみちなが【藤原道長】
966‐1027(康保3‐万寿4)
平安中期の公卿。摂政兼家の五男。母は摂津守藤原中正の女時姫。986年(寛和2)一条天皇が践祚し,父兼家が摂政となるや,翌年従四位上から3階を越えて従三位に昇り,以後累進して,991年(正暦2)権大納言に任ぜられた。995年(長徳1)疫病が流行し,兄の関白道隆・道兼が相ついで没したため,その後継をめぐって,道隆の男伊周(これちか)と激しく争ったが道長の姉で,天皇の生母である東三条院詮子の強力な後援によりこの争いに勝ち,内覧(ないらん)の宣旨をたまわり,右大臣に昇り,翌年左大臣に進んだ。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

ふじわらのみちなが【藤原道長】
966~1027 平安中期の廷臣。摂政。兼家の子。道隆・道兼の弟。法名、行観・行覚。通称を御堂関白というが、内覧の宣旨を得たのみで正式ではない。娘三人(彰子・姸子・威子)を立后させて三代の天皇の外戚となり摂政として政権を独占、藤原氏の全盛時代を現出した。1019年出家、法成寺を建立。日記「御堂関白記」がある。

出典:三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)

藤原道長
ふじわらのみちなが
(966―1027)
平安中期の政治家で、藤原氏全盛期の最頂点にたった人物。『大鏡』や『栄花物語』は道長の生涯の記述に重点を置いている。父は、藤原氏北家(ほっけ)の摂政(せっしょう)・関白・太政大臣(だいじょうだいじん)の兼家(かねいえ)。母は、左京大夫藤原中正(なかまさ)の女(むすめ)の時姫。御堂殿(みどうどの)、法成寺殿(ほうじょうじどの)などとよばれたが、彼を御堂関白と記するのは誤り。彼は関白に類した内覧には在任したけれども、関白には任じられないままに終わった。兼家の五男に生まれた道長は順調に官途をたどり、991年(正暦2)26歳の若さで権大納言(ごんだいなごん)に任じられはしたが、兄に道隆(みちたか)、道綱(みちつな)、道兼(みちかね)がおり、彼自身さほど栄華を極めるに至るとは考えていなかった。ところが995年(長徳1)4月、関白道隆が疫病で倒れ、後を襲った関白道兼も、在職7日にして薨(こう)じたため、同年5月、姉の詮子(あきこ)(一条天皇(いちじょうてんのう)母后、東三条院)の推輓(すいばん)によって権大納言の道長は、図らずも内覧の宣旨を被り、ついで6月、右大臣に任じられ、政権の座についた。これに派生した甥(おい)の伊周(これちか)との政治的確執を克服した道長は、名門藤原公任(きんとう)を抑え、源俊賢(みなもとのとしかた)や藤原行成(ゆきなり)らの協力を得て自己の政権を強固にしていった。一方、彼は宇多源氏(うだげんじ)の倫子(ともこ)を正妻、醍醐源氏(だいごげんじ)の明子(あきこ)(高松殿)を本妻に迎え、毛並みを整えた。
 やがて長女の彰子(あきこ)が長ずると、中宮(ちゅうぐう)として一条天皇の後宮に納(い)れ、一帝二后の制を始めた。三条天皇(さんじょうてんのう)が登位すると二女の妍子(よしこ)をその中宮とした。三条天皇が眼病を患うに至って、彼はそれを理由に譲位を迫った。こうして彰子が産んだ敦成親王(あつなりしんのう)が登位し(後一条天皇(ごいちじょうてんのう))、彼は外祖父として摂政に任じられた(1016)。翌年、摂政を辞し、従(じゅ)一位太政大臣に昇進した。この年、工作して皇太子敦明親王(あつあきらしんのう)(三条皇子)の辞退を図り、彰子腹の敦良親王(あつながしんのう)を皇太弟にたてたし、一男の頼通(よりみち)が摂政に任じられた1018年(寛仁2)には、正妻腹の威子(たけこ)が後一条天皇の中宮、その同母妹の嬉子(よしこ)が尚侍(ないしのかみ)の名で皇太弟(後の後朱雀天皇(ごすざくてんのう))の妃となった。いまや娘たちのうち彰子は太皇太后、妍子は皇太后、威子は中宮(皇后)であり、道長は三后の父となった。有名な望月(もちづき)の歌「この世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へば」は、同年10月、権力の絶頂に達した道長が喜びのあまりに詠じたものである。
 政治家としての道長は、特別に優れた政策はもたなかった。それは刀伊(とい)の賊の入寇(にゅうこう)(1019)に際しての無策によっても指証される。しかし国内の政情は安穏であり、代々培われた摂関家の勢威が強固であったため、政界は事なきを得たといえよう。彼がもっとも腐心したのは後宮政策であって、次々と娘を宮中に入れ、外孫が登位することによって不動の地位を得、かつそれを息子たちに及ぼした。
 道長は、政治家として冷酷非情な人物ではなかった。政敵を倒すことは、どの政治家にも避けがたいことであるが、彼の場合は、いったん失脚した政敵を厚く遇し、かつ娘を配したりして、彼らの恨みを買わぬように配慮していた。また妾妻たちを女房として後宮の各所に仕えさせ、もろもろの情報を収集することも、彼の常套(じょうとう)手段であった。おそらく紫式部は、その意味での妾妻の一人であったのであろう。
 当時の貴族の常として、道長も厚く仏教に帰依(きえ)していた。彼は、祖先を供養するために、宇治の木幡(こはた)の墓地に浄妙寺を建てたし、また吉野の金峯山(きんぷせん)に詣(もう)で、埋経の端緒をつくった。1019年には、院源を戒師として出家し、法号を行観(ぎょうかん)(のち行覚(ぎょうかく))と称した。晩年には、本邸土御門殿(つちみかどどの)の東に接して、この世の浄土とも称せられた豪華な法成寺を建立した。
 文学の方面では、道長は優れた詩人であり、歌人でもあった。彼がつくった漢詩は『本朝麗藻(ほんちょうれいそう)』に多数収められている。和歌のほうは、『後拾遺集(ごしゅういしゅう)』以下の勅撰集(ちょくせんしゅう)に33首とられている。『御堂関白集』にも彼の詠草が収められているけれども、これは彼の歌集ではないと認められている。
 道長が中宮彰子の側近に粒よりの才媛(さいえん)を女房としてはべらせたことは、女流文学の興隆を大いに助成した。『紫式部日記』によると、彼は『源氏物語』に非常な関心を抱き、その面でも紫式部を後援していた。
 道長は、政務に忙殺されてはいたが、23年にわたって毎日日記をつけていた。現存する日記の自筆本は14巻に及ぶが、これを『御堂関白記』というのは後人の呼称である。この日記は、11世紀初頭の政治や世相を知るうえで甚だ貴重な史料である。
 道長はもともと頑健な体質ではなく、生涯にわたって幾度も大病を患っている。51歳ごろからは糖尿病を患うようになった。実のところ例の「望月の歌」を詠んだころには、彼は糖尿病に由来する白内障や心臓神経痛に悩んでいたのである。これに加えて、1025年(万寿2)8月には娘の嬉子が皇子(後の後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう))を産んで薨(こう)じ、妍子も1027年9月に崩じ、これらの悲哀は彼に大きな打撃をもたらした。同年6月から彼は背中にできた癰(よう)に悩んでいた。あらゆる祈祷(きとう)や治療によっても病勢は快方に向かわず、10月には乳房ほどに腫(は)れ上がった癰のため苦悶(くもん)を続けた。彼は法成寺の九体阿弥陀堂(くたいあみだどう)に病床を移し、そこで顔を西方(浄土)に向けて同年12月4日に薨逝(こうせい)した。享年は62歳。同じ日に道長の永年の盟友であった権大納言行成も薨じた(56歳)。道長の遺骸(いがい)は愛宕(おたぎ)郡の鳥倍野(とりべの)で荼毘(だび)に付され、骨灰は宇治木幡の墓地に埋納された。木幡には、藤原氏北家関係の火葬墓が累々と現存しているが、どれが道長の墓であるかは不明である。[角田文衛]
『『日本古典文学全集20 大鏡』(1974・小学館) ▽『日本古典文学大系75・76 栄花物語 上下』(1976・岩波書店) ▽赤木志津子著『御堂関白藤原道長』(1966・秀英出版) ▽北山茂夫著『藤原道長』(岩波新書)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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精選版 日本国語大辞典

ふじわら‐の‐みちなが【藤原道長】
平安中期の公卿。父は兼家。母は時姫。兄道隆・道兼の死後、内覧・氏長者・右大臣となる。道隆の子伊周・隆家を失脚させ、娘彰子・妍子・威子・嬉子・盛子を入内させて三代の外戚となる。長和五年(一〇一六)摂政となったが、翌年子頼通に譲り、太政大臣となり、父子並んで政権を独占、藤原氏の全盛時代を出現させた。寛仁三年(一〇一九)出家、法成寺を建立。関白になった事実はないが、御堂関白と称され、日記を「御堂関白記」といい、自筆原本が現存。康保三~万寿四年(九六六‐一〇二七

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