Rakuten infoseek

辞書

藤原純友【ふじわらのすみとも】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

藤原純友
ふじわらのすみとも
[生]?
[没]天慶4(941).6.20. 伊予
平安時代中期の海賊。伊予掾。筑前守大宰少弐良範の子。瀬戸内海の海賊の首領で,承平6 (936) 年,伊予国日振 (ひぶり) 島を根拠として瀬戸内海西部の多くの海賊集団を支配して各地を掠奪した。このときは伊予守紀淑人に攻められ一時平定されたが,再び勢力を回復。天慶3 (940) 年,東国で平将門反乱が中央に及ぼうとしていたのと時を同じくして,淡路国を襲って兵器を奪い,さらに讃岐,周防,筑前を荒し回り,大宰府を焼打ちにしたが,追捕使 (ついぶし) 小野好古の軍勢に敗れた。伊予国で捕えられて殺された。 (→承平・天慶の乱 )  

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉

ふじわら‐の‐すみとも〔ふぢはら‐〕【藤原純友】
[?~941]平安中期の貴族。伊予掾(じょう)となって下向瀬戸内海の海賊と結んで反乱を起こしたが、敗れて殺された。→承平天慶(じょうへいてんぎょう)の乱

出典:小学館
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:田中牧郎、曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル版 日本人名大辞典+Plus

藤原純友 ふじわらの-すみとも
?-941 平安時代中期の官吏。
藤原長良(ながら)の曾孫で,大宰少弐(だざいのしょうに)藤原良範の次男。伊予掾(いよのじょう)に任じられた。任地で海賊を組織し,天慶(てんぎょう)2年平将門の反乱とほぼ同時に,瀬戸内海に反乱をおこす(天慶の乱)。小野好古(よしふる)ら追捕使に追いつめられ,天慶4年6月20日伊予で討たれた。

出典:講談社
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版

ふじわらのすみとも【藤原純友】
?‐941(天慶4)
平安中期の地方豪族。大宰少弐良範の子,あるいは伊予前司高橋友久の子で良範の養子とも。伊予掾として936年(承平6)海賊追捕の宣旨をうけ,伊予守兼追捕南海道使紀淑人に協力してその追捕にあたった。しかし939年(天慶2)12月東国で平将門の乱が起こると,紀淑人の制止を振り切って反乱に立ちあがり,瀬戸内海に一大勢力となる。将門と共謀し東西呼応して蜂起したとの説には根拠がないが,将門の乱による混乱を好機と判断したことは考えられる。

出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.

大辞林 第三版

ふじわらのすみとも【藤原純友】
?~941) 平安中期の地方官。伊予掾として任地に下ったが、瀬戸内海の海賊を率いて日振島を根拠地に乱を起こし、瀬戸内全域と九州の一部を支配。警固使橘遠保に誅せられた。 → 承平天慶の乱

出典:三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)

藤原純友
ふじわらのすみとも
(?―941)
平安中期の瀬戸内海海賊の組織者。大宰少弐(だざいのしょうに)藤原良範(よしのり)の子。また伊予前司(いよのぜんじ)高橋友久の子とも伝える。伊予掾(じょう)。936年(承平6)、伊予日振島(ひぶりじま)(愛媛県宇和島市)に拠(よ)る海賊、1000余艘(そう)、2500余人の首領であったが、国守紀淑人(きのよしひと)のもとに投降した。『本朝世紀』によると、純友はこの年に追捕(ついぶ)海賊の宣旨(せんじ)を被っており、海賊の動きはしばらく鎮静化するので、その組織力の大きかったことがわかる。しかし939年(天慶2)12月、備前介(びぜんのすけ)藤原子高(さねたか)らの一行を摂津で襲ってふたたび反乱。東国の平将門(まさかど)の反乱と同時であったため、東西の兵乱として貴族たちを震撼(しんかん)させた。
 朝廷は純友に従(じゅ)五位下の位階を授けて懐柔、西海の反乱は一時鎮まるが、940年5月に征東軍が帰洛(きらく)すると純友士卒の追捕を令し、西海の追討が本格化する。純友は讃岐(さぬき)の国府を攻めて国軍を走らせ、備前、備後(びんご)の兵船を焼いたが、朝廷は長官小野好古(よしふる)・次官源経基(つねもと)らの追捕使を任じてこれにあたらせた。海賊軍は紀伊、安芸(あき)、周防(すおう)などを襲うがしだいに追い詰められ、941年5月に大宰府を襲撃するが追討軍に敗れて四散する。伊予に逃れた純友は6月29日、子息とともに警固使橘遠保(たちばなのとおやす)に討たれた。遠保に捕らえられて獄中で死んだとも伝える。純友与党の追捕もこの年内に完了するが、その経過をみると、純友は九州、四国、中国地方の瀬戸内一帯の海賊を組織していたことがわかる。[福田豊彦]
『福田豊彦著『平将門の乱』(岩波新書)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

精選版 日本国語大辞典

ふじわら‐の‐すみとも【藤原純友】
平安中期の貴族。良範の子。伊予掾となって下向、瀬戸内海の海賊と結んでその棟梁となり、伊予の日振島を根城に公私官物の略奪など東は播磨、西は大宰府まで、ほとんど内海全域に勢力を拡げたが、天慶三年(九四〇)、小野好古・源経基に敗れ、捕えられて殺された。天慶四年(九四一)没。

出典:精選版 日本国語大辞典
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

藤原純友」の用語解説はコトバンクが提供しています。

藤原純友の関連情報

関連キーワード

財産分離財産分離都内の交番統廃合計画承平天慶の乱征西将軍リチウム承平・天慶の乱野村[町]藤原忠平

他サービスで検索

「藤原純友」のスポンサー検索

(C)The Asahi Shimbun Company /VOYAGE MARKETING, Inc. All rights reserved.
No reproduction or republication without written permission.