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藤原兼家【ふじわらのかねいえ】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

藤原兼家
ふじわらのかねいえ
[生]延長7(929).京都
[没]永祚2(990).7.2. 京都
平安時代中期の廷臣。師輔の3男。母は武蔵守藤原経邦の娘盛子。別称,東三条殿。 10歳で昇殿。安和1 (968) 年次兄兼通に先んじて公卿に列し,翌年中納言,天禄3 (972) 年大納言,同年長兄伊尹 (これただ) が死ぬと関白の地位は次兄兼通,次いで従兄頼忠が占めた。天元1 (978) 年右大臣。寛和2 (986) 年策を用いて花山天皇に譲位させ,新帝一条天皇 (母は兼家の娘詮子) の外祖父として摂政となり,永祚1 (989) 年太政大臣。摂政としては能吏の挙用,銭貨統制僧侶の風儀の匡正などを行い,また住民の訴えを入れて尾張国守藤原元命を罷免した。同2年病で官を辞し関白に任じられたが,これをも辞して出家,法名,如実,法興院と号した。

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デジタル大辞泉

ふじわら‐の‐かねいえ〔ふぢはら‐かねいへ〕【藤原兼家】
[929~990]平安中期の公卿師輔(もろすけ)三男兼通(かねみち)関白職を争い一条天皇の外祖父として摂政、次いで関白となった。法興院。東三条殿

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

藤原兼家 ふじわらの-かねいえ
929-990 平安時代中期の公卿(くぎょう)。
延長7年生まれ。藤原師輔(もろすけ)の3男。母は藤原経邦の娘盛子。安和(あんな)元年(968)従三位。寛和(かんな)2年(986)外孫一条天皇の即位により右大臣から摂政,従一位となる。永祚(えいそ)元年太政大臣,2年関白,同年7月2日死去。62歳。次兄兼通(かねみち)との権力争いや,花山天皇の出家退位をはかった話が有名。通称は東三条殿,法興院入道。

出典:講談社
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世界大百科事典 第2版

ふじわらのかねいえ【藤原兼家】
929‐990(延長7‐正暦1)
平安中期の公卿。右大臣師輔の三男。母は武蔵守藤原経邦の女盛子。968年(安和1)兄兼通を越えて従三位に昇り,翌年蔵人頭を兼ねたまま中納言に進んだ。左大臣源高明が失脚した安和の変が起きたのはその1ヵ月後で,兼家もこれに重要な役割を果たしたものと思われる。その後,順調に昇進して,972年(天禄3)長兄の摂政伊尹(これただ)がしたときは,すでに大納言兼右大将に進み,次兄の権中納言兼通との間に大きく距離をあけていたので,世人は兼家を伊尹の後継者とみなしていた。

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大辞林 第三版

ふじわらのかねいえ【藤原兼家】
929~990 平安中期の廷臣。師輔の子。兄兼通と対立。兄の死後、花山天皇を退位させ、外孫一条天皇をたて摂政・関白となった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

藤原兼家
ふじわらのかねいえ
(929―990)
平安中期の公卿(くぎょう)。師輔(もろすけ)の子。母は信濃守(しなののかみ)藤原経邦(つねくに)の女(むすめ)盛子。968年(安和1)兄兼通(かねみち)を超えて従三位(じゅさんみ)、蔵人頭(くろうどのとう)となり、翌年参議を経ず中納言(ちゅうなごん)になった。970年(天禄1)右大将、972年長兄伊尹(これただ)の死後、兄兼通は円融(えんゆう)天皇に、天皇の母后で兼通の妹にあたるいまは亡き安子(あんし)の遺言状「関白は兄弟の順によるべし」との書付けを見せたため、親孝行の天皇はただちに兼通を関白にしたという説話により、兼通は内大臣関白となり、兼家は右大将のままであった。977年(貞元2)兼通は臨終にあたり従兄の頼忠(よりただ)を関白とし、兼家を治部卿(じぶきょう)に左遷した。978年(天元1)頼忠の恩恵により右大臣に任ぜられたが、986年(寛和2)円融天皇の女御(にょうご)詮子(せんし)(兼家の娘)の産む一条(いちじょう)天皇を早く帝位につけたいため、花山(かざん)天皇の譲位に計画をめぐらしたことは見逃せない。一条天皇即位とほぼ同時に頼忠は太政(だいじょう)大臣となったが、兼家はこのとき右大臣摂政(せっしょう)になった。だが、ただちに右大臣を辞し、三公之上に列せられ、摂政のみとなった。ここに摂政が初めて独立して強い権威をもつこととなる。989年(永祚1)頼忠の死後、兼家は太政大臣、翌年5月2日には関白となり、同8日病のため出家。7月2日死去した。[山中 裕]

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精選版 日本国語大辞典

ふじわら‐の‐かねいえ【藤原兼家】
平安中期の公卿。右大臣師輔の三男。兄兼通と関白職を争う。一条天皇即位の後、外祖父として摂政、ついで関白太政大臣となり、権力をふるった。以後、摂関はその子孫に限られるようになった。延長七~正暦元年(九二九‐九九〇

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旺文社日本史事典 三訂版

藤原兼家
ふじわらのかねいえ
929〜990
平安中期の公卿
師輔 (もろすけ) の3男。摂政・関白。従一位。通称東三条殿。兄兼通 (かねみち) との官位争いで有名。兼通の死後,策謀によって花山 (かざん) 天皇を退位させ,外孫一条天皇の即位を実現,その摂政・関白として権勢をふるった。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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