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薩摩藩【さつまはん】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

薩摩藩
さつまはん
鹿児島藩ともいう。江戸時代薩摩国 (鹿児島県) 全域,大隅国 (鹿児島県) 全域,日向国 (宮崎県) の一部を領有し鹿児島に城を有した外様大藩。藩主は代々島津氏で,江戸城大広間詰。島津氏は建久8 (1197) 年に大隅,薩摩守護に任じられた忠久を祖とし,織豊時代の義久は西国の戦国大名の雄としてほとんど全九州を平定していたが,天正 15 (1587) 年,豊臣秀吉九州征伐にあって降伏し,前の3国内で 60万 5000石となる。次の義弘文禄・慶長の役に大功があり,関ヶ原の戦いに西軍に属して敗れたが,所領は安堵され,慶長7 (1602) 年に居城を鹿児島に築く。次の家久の代の同 14年には琉球に出兵し,寛永 14 (37) 年には琉球の 12万石余を合せて 72万 8700石となり,のち,さらに 77万石に達した。藩政は古来からの支配形態を残存させた独特なもので,家臣団は城下士のほかに外城衆 (とじょうしゅう) を各郷に集住させ (外城制度) ,また門割制度 (かどわりせいど) と呼ぶ百姓支配もあり非常に後進的な体制であった。それに火山地帯,台風などの自然的悪条件,江戸から遠距離にあるための参勤交代費用の増大,幕府のたびたびの普請手伝いは藩財政を困窮させた。しかし,文政 10 (1827) 年から調所広郷 (ずしょひろさと) を中心にして施行された藩政改革は,嘉永1 (48) 年には 100万両の黒字を生み出し,同4年斉彬が藩主となるや洋式軍備と藩営工場などの建設に着手,その弟の久光は公武合体派の大名として活動し,文久3 (63) 年の薩英戦争後は討幕派として長州藩と連合して明治維新の主導権を握った。以後,維新政府の中心勢力として西郷隆盛大久保利通らによって薩摩閥を形成。西南戦争によって西郷は失脚したが,ほかの多くの人物が藩閥官僚政府を形成した。

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防府市歴史用語集

薩摩藩
 鹿児島藩[かごしまはん]とも言います。江戸時代に島津[しまづ]氏が治めていた場所で、旧国名の薩摩[さつま]・大隈おおすみ]・日向[ひゅうが]の一部にあたります。江戸時代の終わりには、江戸幕府をたおすために長州藩[ちょうしゅうはん]と同盟を結び、明治維新[めいじいしん]に活躍しました。

出典:ほうふWeb歴史館
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薩摩藩
現在の鹿児島県域。江戸時代を通して島津[しまづ]氏が藩主として治めました。幕末には藩主島津斉彬[なりあきら]が藩政の改革を行い、その弟で次の藩主の父である久光[ひさみつ]は公武合体の立場をとり政治の中心として活躍しました。薩摩藩からは西郷隆盛[さいごうたかもり]や大久保利通[おおくぼとしみち]らが活躍しています。

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デジタル大辞泉プラス

薩摩藩
薩摩国、鹿児島(現:鹿児島県鹿児島市)を本拠地とし、薩摩・大隅の2ヶ国と日向国の一部を領有した外様藩。藩主は島津氏。琉球王国(沖縄県)に侵攻して支配下に置き、その石高もあわせて表高73万石余の大藩となった。11代藩主の島津斉彬は開明派で、蒸気船建造やガラス製造、反射炉の建設などを行った。幕末には長州とともに明治維新の実現を主導。明治新政府で活躍した西郷隆盛、大久保利通、黒田清隆などを輩出した。

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藩名・旧国名がわかる事典

さつまはん【薩摩藩】
江戸時代薩摩(さつま)国鹿児島郡鹿児島(現、鹿児島県鹿児島市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩校は造士館(ぞうしかん)。鎌倉時代から当地を支配していた島津(しまづ)氏は、戦国時代末期には九州を制覇する勢いを見せていたが、1587年(天正(てんしょう)15)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)九州征伐により、薩摩国、大隅(おおすみ)国2国と日向(ひゅうが)国諸県(もろかた)1郡に封じられた。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いでは西軍に属したが、井伊直政(いいなおまさ)らの奔走で島津家久(いえひさ)が徳川家康(とくがわいえやす)と交渉して本領を安堵(あんど)された。09年に幕府の許可を得て琉球(りゅうきゅう)を征服、その石高約12万石を加えて1634年(寛永(かんえい)11)には表高(おもてだか)72万9000石余の大藩となった。武士を分散して農民を地域ごとに支配する外城(とじょう)制度が敷かれ、農民に対しては耕地を分割・分配する門割(かどわり)制度を設けたことにより、百姓一揆はほとんど発生しなかった。しかし、宝暦年間(1751~64)には、幕府の命令で行った木曽(きそ)三川の治水工事などによる出費によって藩の財政は窮迫した。8代藩主の島津重豪(しげひで)は開化政策を積極的に進めるとともに、1773年(安永2)に藩校の造士館と武道の演武館を開設、その後も明時館(天文館)、医学院を設けた。財政は藩債500万両に達するほどの破産状態だったが、調所広郷(ずしょひろさと)の登用により回復。11代藩主の島津斉彬(なりあきら)は、日本最初の西洋型帆船、蒸気船の建造のほか、ガラス、火薬、アルコール、砲丸、塩酸など幅広い分野にわたる洋式工業を興した。斉彬は養女の篤姫(あつひめ)を第13代将軍徳川家定(いえさだ)に嫁がせたことでも有名。斉彬没後は、異母弟の島津久光(ひさみつ)が実権を握り、公武合体運動を展開したが、薩英戦争以降は西郷隆盛(さいごうたかもり)大久保利通(おおくぼとしみち)らの倒幕派が主導するようになり、長州藩薩長同盟を結んで明治維新の指導的役割を果たした。西郷・大久保のほか、黒田清隆(くろだきよたか)松方正義(まつかたまさよし)森有礼(もりありのり)らの人材を輩出、明治新政府の中軸となった。1871年(明治4)の廃藩置県により、薩摩藩領は鹿児島県となった。◇鹿児島藩〈正称〉ともいう。

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世界大百科事典 第2版

さつまはん【薩摩藩】
薩摩国(鹿児島県)鹿児島に藩庁を置く外様大藩。鹿児島藩ともいう。藩主島津氏。戦国末期に貴久,その子義久・義弘が出て薩摩,大隅,日向の3州を統一したのが1576年(天正4)であり,86年までには九州制覇を遂げようとしていた。しかし豊臣秀吉の九州征伐により薩隅2国と日向諸県(もろかた)1郡だけとなり,関ヶ原の戦には西軍に属したが旧領を安堵された。朱印高は1617年(元和3)60万8916石,35年(寛永12)琉球高が加えられて73万2616石,内高太閤検地の疎漏を訂正して1612年(慶長17)73万2157石(琉球高を含む),33年69万6321石,59年(万治2)74万7193石,藩政期最後の1725年(享保10)の検地では86万7028石となった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

薩摩藩
さつまはん
薩摩・大隅(おおすみ)両国(鹿児島県)と日向(ひゅうが)国(宮崎県)諸県(もろかた)郡の一部を領有した外様(とざま)大藩。鹿児島藩ともいう。藩主島津氏。表高73万石余(籾(もみ)高)。島津氏は源頼朝(よりとも)の庶流と称し、守護大名、戦国大名に成長、戦国末期には薩隅日の3州を統一、さらに九州全土の制覇を目前にするまでに至った。しかし豊臣(とよとみ)秀吉の九州征伐(1587)に敗れ、薩隅2国と日向諸県1郡の地に逼塞(ひっそく)することとなった。関ヶ原の戦い(1600)において島津義弘(よしひろ)は西軍にくみしたが、井伊直政(なおまさ)らのとりなしで三男家久(いえひさ)(忠恒(ただつね))が旧領を安堵(あんど)された。藩主は、家久のあと光久(みつひさ)、綱貴(つなたか)、吉貴(よしたか)、継豊(つぐとよ)、宗信(むねのぶ)、重年(しげとし)、重豪(しげひで)、斉宣(なりのぶ)、斉興(なりおき)、斉彬(なりあきら)、忠義(ただよし)(茂久(もちひさ))と12代続き明治に至った。表高は1617年(元和3)60万8916石、1635年(寛永12)琉球(りゅうきゅう)高12万3700石を加えて73万2616石となる。初代藩主家久は鹿児島の城山の麓(ふもと)に鶴丸城を築いたが、天守閣や重層櫓(やぐら)のない質素なものであり、武士の城下町集中も徹底しなかった。さらに、領内を113の外城(とじょう)(郷)に分けて軍事・行政支配の単位とする特殊な外城制度(郷士(ごうし)制度)を敷いた。このため武家人口は圧倒的に多く、明治初年の調査では全人口に占める士卒人口比は全国平均の0.56%に対し薩摩藩のそれは26.38%に上っている。また農村では、門(かど)とよばれる農民共同体に耕地をほぼ均等に分配して耕作させる門割(かどわり)制度が施行された。外城、門割の2制度によって農村支配は徹底し、藩内の百姓一揆(いっき)はわずか2例が知られるにすぎない。
 1609年(慶長14)には琉球に侵入し、進貢貿易の利を得、また琉球高も加えることとなった。藩初から数度の戦争のため財政は窮迫していたが、たび重なる幕府の御手伝普請(おてつだいぶしん)、江戸藩邸や城下の火災もこれに拍車をかけた。なかでも幕命による木曽(きそ)川治水工事は工費40万両にも上り惣奉行(そうぶぎょう)平田靫負(ゆきえ)の引責自殺まで起こった(宝暦(ほうれき)治水事件)。8代藩主重豪は43歳で隠居したが、89歳で没するまで約80年間にわたって藩政に君臨した。シーボルトとも交際のある開明的君主で、積極的開化政策をとった。三女茂姫を将軍徳川家斉(いえなり)夫人とし、次子以下に中津藩、福岡藩、八戸(はちのへ)藩を継がせて勢威があり、また蘭学(らんがく)・実学を好み、藩校造士館や演武館、明時館(薩摩暦を作成)などを創立した。一方その開化政策のため藩庫は疲弊し藩債500万両にも達した。9代藩主斉宣のとき、重豪は彼の政策に反対する改革運動を弾圧(近思録(きんしろく)崩れ)したが、次代斉興のときには、調所広郷(ずしょひろさと)を登用して、奄美(あまみ)の黒糖専売はじめ、琉球密貿易、新田開発、物産開発などによる財政改革を行った。藩債500万両は、250年賦、無利子償還という「踏み倒し」で切り抜けた。このほか、一分金・二分銀の偽金(にせがね)づくりまで行われたという。
 11代藩主斉彬は曽祖父(そうそふ)重豪譲りの開明派で、洋式工業(集成館事業)をおこし、将軍継嗣(けいし)問題では一橋(ひとつばし)派として活躍した。その襲封にあたって御家騒動(お由良(ゆら)騒動)があったが、治世7年余で病没した。異母弟久光(ひさみつ)(12代藩主忠義の父)は幕末、藩の実権を握り、公武合体運動に指導的役割を果たしたが、薩英戦争(1863)以後藩論は急速に転換、イギリスに接近し、尊王討幕を掲げ、薩長同盟、薩土盟約を結んで大政奉還、明治維新の実現に指導的役割を果たした。幕末維新期に西郷隆盛(たかもり)、大久保利通(としみち)、黒田清隆(きよたか)、松方正義(まさよし)、五代友厚(ともあつ)、森有礼(ありのり)ら多くの人材を生み、その人脈は藩閥官僚政府の中心となった。1871年(明治4)廃藩、鹿児島県となり、諸県郡は83年再置の宮崎県に編入。[原口 泉]
『秀村選三編『薩摩藩の基礎構造』(1970・御茶の水書房) ▽原口虎雄著『鹿児島県の歴史』(1973・山川出版社) ▽原口虎雄著『幕末の薩摩』(中公新書)』

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