●花山天皇【かざんてんのう】
花山天皇
かざんてんのう
[生]
安和1(968).10.26. 京都
[没]寛弘5(1008).2.8. 京都
第 65代の天皇 (在位 984~986) 。名は師貞。冷泉天皇第1皇子,母は藤原伊尹の娘懐子。永観2 (984) 年円融天皇の譲位で践祚,次いで即位。在位1年 10ヵ月,外戚藤原義懐 (伊尹の子) と右大臣藤原兼家の勢力争いの余波を受けて花山寺で落飾,入覚と号し,花山法皇と称した。出家後,諸寺を遍歴し仏道を修めた。絵や和歌に巧みで,『
拾遺和歌集』は同法皇の撰と称せられる。和歌は『
花山院集』のほか諸集に収められており,また『
古今和歌集』を
宸筆した。陵墓は京都市北区衣笠北高橋町の紙屋上陵 (かみやのほとりのみささぎ) 。
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かざん‐てんのう〔クワザンテンワウ〕【花山天皇】
[968~1008]第65代天皇。
在位984~986。
冷泉(れいぜい)天皇の第1皇子。名は師貞(もろさだ)。
女御の死を悲しむあまり、
藤原兼家らに欺かれて
退位。
出家して花山寺(
元慶寺)に入る。
歌人としても有名で「花山院集」がある。
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花山天皇 かざんてんのう
968-1008 平安時代中期,第65代天皇。在位984-986。
安和(あんな)元年10月26日生まれ。
冷泉(れいぜい)天皇の第1皇子。母は
藤原懐子(かいし)。
円融天皇の譲位をうけ17歳で即位。右大臣藤原兼家(かねいえ)・道兼(みちかね)父子にはかられ,在位1年余で退位し,元慶(がんぎょう)寺(花山寺)で出家した。和歌にすぐれ「拾遺和歌集」を編集したという。
寛弘(かんこう)5年2月8日死去。41歳。墓所は紙屋上陵(かみやのほとりのみささぎ)(京都市北区)。諱(いみな)は師貞(もろさだ)。法名は
入覚。
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かざんてんのう【花山天皇】
968‐1008(安和1‐寛弘5)
第65代に数えられる天皇。在位984‐986年(
永観2‐
寛和2)。諱(いみな)は師貞(もろさだ),僧名入覚。花山院とも。冷泉天皇の第1皇子。母は
藤原伊尹(これただ)の娘懐子(かいし)。969年(安和2)
立太子。以後叡山・熊野等を
巡歴,修行を積み,正暦年間(990‐995)に帰京,東院(花山院)に住んだ。1008年2月8日没。深夜に宮中を脱出,東山の花山寺(現,元慶(がんぎよう)寺)に入り剃髪するという劇的な退位の真相は,孫の懐仁親王(一条天皇)の即位を急いだ
藤原兼家一門が,女御忯子の死に乗じて僧厳久などを使い,天皇に世間無常を吹きこむとともに,陰に陽に政治的圧力を加えたためと見られる。
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かざんてんのう【花山天皇】
(
968~1008) 第六五代天皇(在位
984~986)。名は師貞
もろさだ。冷泉天皇の皇子。荘園整理など親政に努めたが藤原兼家のために退位させられ、一条天皇に譲位して花山寺に出家した。和歌をよくし、「拾遺和歌集」はその親撰かという。 →
開あかずの門
②
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花山天皇
かざんてんのう
(968―1008)
第65代天皇(在位984~986)。冷泉
(れいぜい)天皇第1皇子。母は太政
(だいじょう)大臣正二位藤原伊尹
(これただ)の女
(むすめ)懐子
(かいし)。諱
(いみな)は帥貞
(もろさだ)。円融
(えんゆう)天皇の禅を受けて即位。藤原頼忠
(よりただ)が関白となったが、外戚
(がいせき)でなかったことから実権をもたず、外戚の藤原義懐
(よしちか)と惟成
(これしげ)を重用。饗宴
(きょうえん)の禁制を布告して宮廷貴族社会の統制、引締めを図り、902年(延喜2)に出されて以来布告されていなかった荘園
(しょうえん)整理令を久々に布告するなど、革新的な政治路線を打ち出した。この荘園整理令は、受領
(ずりょう)らの間で高まってきていた荘園整理の気運を政策化したもので、以後頻出する整理令の嚆矢
(こうし)であった。花山朝においてはかく政治改革が企図されたが、後宮の寵姫
(ちょうき)
子
(きし)(藤原為光
(ためみつ)の女)の死を悲しんでいるおり、藤原道兼
(みちかね)の偽計に陥り出家し、2年足らずで次の一条朝となった。退位後は仏事や風流をこととし、和歌をよくした。『拾遺和歌集』の撰者
(せんじゃ)に擬せられ、『花山院御集』も存したが散逸。996年(長徳2)誤解により藤原伊周
(これちか)の従者に射られ、これがもとで伊周は大宰権帥
(だざいのごんのそち)に左遷された。御陵は京都市衣笠
(きぬがさ)の紙屋
(かみや)川上陵。
[森田 悌]『今井源衛著『花山院の生涯』(1976・桜楓社) ▽森田悌著『王朝政治』(1979・教育社)』
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花山天皇 (かざんてんのう)
生年月日:968年10月26日
平安時代中期の第65代の天皇
1008年没
出典:日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」
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かざん‐てんのう クヮザンテンワウ【花山天皇】
(古くは「かさんてんのう」) 第六五代天皇。冷泉天皇の第一皇子。母は藤原伊尹の娘懐子。名は師貞。永観二年(九八四)即位し、在位一年一〇か月。女御、藤原忯子の死を悲しむのあまり、藤原兼家に謀(はか)られて退位。出家して東山花山寺にはいる。和歌、画をよくし、「拾遺和歌集」「拾遺抄」「後十五番歌合」の撰者ともいわれる。安和元~寛弘五年(九六八‐一〇〇八)
出典:精選版 日本国語大辞典
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