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織田信長【おだ のぶなが】

美術人名辞典

織田信長
室町後期の戦国大名。尾張生。信秀の子。幼名は吉法師・三郎、官名は上総介。今川義元、ついで美濃の斎藤氏を滅ぼしたのち、足利義昭を擁して上洛、浅井朝倉氏およびこれと結ぶ比叡山を撃破、のち義昭を追放して室町幕府を滅ぼした。さらに武田勝頼を破り、石山本願寺和議を結び、毛利氏征討を進めたが、明智光秀本能寺の変で攻められ、全国統一の業半ばで倒れた。安土城を築き、また関所の撤廃・楽市楽座検地等の革新政策を行なった。天正10年(1582)歿、49才。

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デジタル大辞泉

おだ‐のぶなが【織田信長】
[1534~1582]戦国・安土桃山時代武将信秀の子。桶狭間(おけはざま)に今川義元を討って尾張一国を統一。のち、京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠(ながしの)に破ったのち、安土に築城。中国出陣の途中、京都本能寺明智光秀の謀反にあって自殺。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

織田信長 おだ-のぶなが
1534-1582 戦国-織豊時代の武将。
天文(てんぶん)3年生まれ。織田信秀の子。永禄(えいろく)2年尾張(おわり)(愛知県)を統一。3年桶狭間(おけはざま)の戦いで今川義元を破る。徳川家康と同盟し,10年美濃(みの)を征服して岐阜を拠点とする。11年足利義昭を擁立して京都にはいるが,のち対立。天正(てんしょう)元年義昭を追放し,室町幕府をほろぼす。浅井・朝倉連合軍との姉川の戦いで勝利し,伊勢(いせ)長島の一向一揆(いっき)を鎮圧,武田軍との長篠の戦いにも勝利。4年近江(おうみ)に安土城をきずく。天下統一を目前にして,明智光秀の謀反にあい,天正10年6月2日京都本能寺で自刃(じじん)した。49歳。尾張出身。幼名は吉法師,三郎。官名は上総介(かずさのすけ)。
【格言など】人間五十年,下天の内をくらぶれば,夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか(「信長公記」)

出典:講談社
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デジタル大辞泉プラス

織田信長
山岡荘八の長編歴史小説。1955年刊行。

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世界大百科事典 第2版

おだのぶなが【織田信長】
1534‐82(天文3‐天正10)
安土桃山時代の武将。尾張守護代織田大和守家の奉行の家に生まれた。織田氏は越前丹生郡織田荘が本貫藤原氏を称したが,本姓忌部氏といわれる。信長も初めは藤原氏を称した。のち平氏になったのは源平迭立(てつりつ)の思想によるという。曾祖父は信良,祖父は信貞といったらしいが,父の信秀は傑出した武将で尾張勝幡(しよばた)城に拠り,津島の経済力や天王社の信仰を背景に一族間に優越し,美濃・三河を攻略,信長を那古野城に置き,斎藤利政(道三)の女をめとらせた。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

おだのぶなが【織田信長】
1534~1582) 戦国時代の武将。信秀の三男。1560年、今川義元を桶狭間おけはざまに破って勢威をつけ、以後諸群雄を攻め従え、73年将軍足利義昭を追放し室町幕府を滅亡させた。安土城を築いて全国統一に乗り出す。寺社など中世的権威を破壊する一方、貿易の奨励、楽市・楽座の設置など革新的諸事業を断行したが、雄図半ばで明智光秀の急襲を受け、本能寺で自刃。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

織田信長
おだのぶなが
[生]天文3(1534).尾張,那古野
[没]天正10(1582).6.2. 京都
戦国時代の武将。信秀の子。幼名吉法師または三郎。元服して信長。天文 20 (1551) 年父信秀が没して家督を相続して以来,一族内部の抗争に奔走,永禄2 (1559) 年には岩倉城の織田信賢を破り,尾張一国を統一,次いで駿河の今川義元を桶狭間で奇襲して敗死させた (→桶狭間の戦い ) 。そののち三河の徳川家康と同盟して後顧の憂いを除き,美濃に進出を企て,永禄 10 (1567) 年斎藤龍興を滅ぼして美濃をくだし,稲葉山城を岐阜と改名して,尾張清洲より移った。翌 11年足利義昭を奉じて上洛,義昭を将軍職につけたが,のち義昭が信長の勢力拡大を喜ばなかったため元亀2 (1571) 年信長は義昭に内通していた比叡山の焼き打ちを決行した。天正1 (1573) 年には朝倉氏,さらに浅井氏を滅ぼし,義昭を河内に追放して室町幕府を滅亡させ,天正3 (1575) 年,武田勝頼を三河長篠に破り (→長篠の戦い ) ,翌年には近江安土に築城した (→安土城 ) 。やがて中国経略を志して毛利氏と対立したが,一方では石山本願寺を降伏させて畿内一円を支配。天正 10 (1582) 年には甲斐武田氏を滅ぼし,信濃の北口を平定。しかし同年6月2日,本能寺の変明智光秀のために殺され,その統一事業は中絶した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

織田信長
おだのぶなが
(1534―1582)
戦国・安土桃山(あづちももやま)時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]

家系

織田氏は近江(おうみ)津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波(しば)氏に仕え、越前(えちぜん)(福井県)織田荘(おだのしょう)を根拠とし織田劔神社(つるぎじんじゃ)を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る。のち上・下尾張に織田氏も分かれるが、信長の家は下四郡守護代家の家老であった。信長の父信秀(のぶひで)が勢力を伸ばし、勝幡(しょばた)・那古野(なごや)を中心に尾張南部などを支配する。信長は信秀の三男。幼名は吉法師(きちほうし)。1546年(天文15)元服して三郎信長。翌年三河へ初陣、ついで美濃(みの)斎藤道三(さいとうどうさん)の娘と結婚、1551年信秀の死とともに家督を嗣(つ)いだ。初め藤原氏を称したが、室町幕府が源氏であるため、源平交替思想から、のち平氏を称す。上総守(かずさのかみ)、上総介(かずさのすけ)と署名するが、入洛(にゅうらく)を前に弾正忠(だんじょうのちゅう)と中央官職に変える。若いころの行状は奔放で異様な風体を好み「うつけ」と評された。老臣平手政秀(ひらてまさひで)が諫死(かんし)する事件もあり、信長は、政秀寺(せいしゅうじ)を建立して菩提(ぼだい)を弔っている。舅(しゅうと)道三との対面に正式の服装をして人々を驚かせる。家紋は(か)(木瓜(もっこう))、将軍足利義昭(あしかがよしあき)より桐(きり)の紋を許される。旗差物(はたさしもの)は永楽通宝(えいらくつうほう)。馬印(うまじるし)は南蛮笠(なんばんがさ)。朱印は「天下布武(てんかふぶ)」などを用いる。[脇田 修]

戦闘

信長の生涯は戦闘に明け暮れたが、まず、1555年(弘治1)清洲城(きよすじょう)織田信友を討ってここを居城とし、1557年弟信行らの反乱を抑え、1559年(永禄2)岩倉城主織田信賢(のぶかた)を追放して尾張を統一した。翌1560年桶狭間(おけはざま)の戦いで今川義元(いまがわよしもと)を倒して武名をあげ、ついで徳川家康と同盟した。のち、小牧山を居城として美濃(岐阜県)攻めに力を入れ、1567年稲葉山井ノ口城攻略、斎藤龍興(さいとうたつおき)を追放、これを岐阜と改め居城とする。尾張、美濃をあわせた信長は、1568年9月足利義昭を奉じて上洛の途につき、これを阻もうとする近江(おうみ)六角義賢(ろっかくよしかた)を追い、入洛、畿内(きない)を鎮定。義昭は将軍となり、信長は天下の実権を握るが、戦国群雄、本願寺との戦いが激化する。翌年、信長は北伊勢(きたいせ)北畠(きたばたけ)氏を屈伏させ、二男信雄(のぶかつ)を養子に入れ、1570年(元亀1)北近江浅井、越前(えちぜん)朝倉と姉川(あねがわ)に戦い、摂津で三好三人衆(みよしさんにんしゅう)を迎え撃ち、石山本願寺との合戦も起こる。1571年比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)を焼討ち。このころ、先に不和となっていた将軍義昭との対立が激しくなり、1573年義昭を追放、室町幕府を滅亡させた。ついで朝倉・浅井両氏をも滅ぼした。1575年(天正3)甲斐(かい)武田勝頼(たけだかつより)と長篠合戦(ながしのかっせん)があり鉄炮隊(てっぽうたい)の威力で撃破。畿内では松永久秀、荒木村重の離反を押さえ、もっとも頑強であった石山本願寺との対決は、伊勢長島、越前、雑賀(さいか)と一揆(いっき)の拠点をつぶしたのち、1580年本願寺と和睦(わぼく)、石山から退城させた。これにより畿内は平定され、信長は、摂河泉和(兵庫県、大阪府、奈良県一帯)で城破りを行う。その間にも明智光秀(あけちみつひで)の丹波(たんば)・丹後(たんご)(兵庫県、京都府一帯)平定、柴田勝家(しばたかついえ)による加賀平定、羽柴秀吉(はしばひでよし)(豊臣秀吉(とよとみひでよし))の中国毛利(もうり)攻めが進み、ついに1582年には宿敵武田氏を滅ぼす。信長の晩年には、東は甲斐(山梨県)、信濃(しなの)(長野県)、北は越中(えっちゅう)(富山県)、能登(のと)(石川県)、西は伯耆(ほうき)(鳥取県)、備中(びっちゅう)(岡山県)と、ほぼ本州の中央部を征服し、中国毛利氏との決戦を前に天正(てんしょう)10年6月2日未明、家臣明智光秀の謀反により京都本能寺(四条西洞院(にしのとういん))で倒れた(長男信忠(のぶただ)も、このとき二条御所にあって自刃)。紫野(むらさきの)大徳寺(北区)総見院に葬る。法号総見院泰巌安公。信長父子の骨灰を集めて葬ったという墓が阿弥陀寺(あみだじ)(上京(かみぎょう)区)にもあり、本能寺(中京(なかぎょう)区、変後移転)には信長本廟(ほんびょう)がある。[脇田 修]

武家権力

信長の直属分国は尾張、美濃、近江(滋賀県)で、家督を信忠に譲ったとき、尾張、美濃も渡している。中央権力としては、入洛直後は室町幕府が再建され、畿内では幕府関係者が守護となったように、信長の正規の権限はあまりなく、実力支配体制をとった。義昭と不和になり、数年の暗闘ののち、幕府を滅亡させた。その後、信長は将軍権力を継承し、名実ともに天下を握り、京都所司代(しょしだい)に村井貞勝(むらいさだかつ)を任命、守護などの地域支配権を掌握し、摂津に荒木、山城(やましろ)・大和(やまと)に原田直政(はらだなおまさ)らを任命した。ついで柴田勝家、明智光秀、羽柴秀吉、滝川一益(たきがわかずます)らの武将が各地に封じられ、それが織田家の支配圏をゆだねられるとともに、軍団を率いた。家臣団組織は、おとな・宿老に先の有力武将がなり、奉行(ぶぎょう)が安土などの都市と、軍事・行政単位に置かれた。軍事力は親衛隊として馬廻(うままわり)の士、弓・槍(やり)・鉄炮の組が存在した。とくに鉄炮隊は優れていた。軍事動員は相対(あいたい)契約で決めた人数を率いて家臣が参陣した。また、当面の司令官たる武将の直属軍事力に、与力(よりき)として他の武将の軍事力を組み合わせて軍団を構成した。[脇田 修]

朝廷・寺社との関係

信長は初め朝廷の官職を辞退したが、1575年(天正3)従三位(じゅさんみ)権大納言(ごんだいなごん)兼右近衛大将(うこんえだいしょう)となり、家督を信忠に譲り、その後、天下人として行動、安土城にいる。内大臣次いで1577年に従二位右大臣となるが、やがて辞官、最後まで辞退した。これは、天下平定ののち顕職につくとの理由であり、朝廷との関係では正親町天皇(おおぎまちてんのう)の東宮誠仁親王(さねひとしんのう)を猶子(ゆうし)(相続を目的としない養子)とし馬揃(うまぞろ)えを天皇にみせ、安土城(1576年着工、1579年完成)に行幸の間をつくるなどした。公家(くげ)・寺社とは、反抗した延暦寺などを焼討ちはしたものの、一般には、有力な寺社・公家が現に知行(ちぎょう)している土地や座の権益は安堵(あんど)し、徳政を行って知行の回復を図り、新地を進めるなど、一定の保護を行った。[脇田 修]

経済政策

土地政策では指出(さしだし)・検地(けんち)を行い土地把握に努めた。伊勢、尾張、美濃は貫高制、畿内近国は「石(こく)」高(だか)制であり、統一されていなかった。しかし、一国単位で土地の高表示を一元化し、その年貢収量を把握して、知行の基礎を固め、年貢負担責任者としての百姓を確定したことは注目しうる。これを秀吉の太閤検地(たいこうけんち)に比べると、「石」高も稗(ひえ)などを含んでいて米に統一されていないこと、高は年貢高を表示し、生産高を前提にしていないこと、検地帳に給人知行(きゅうにんちぎょう)が記されるものがあり、兵農分離が不徹底であること、名主百姓(みょうしゅびゃくしょう)の中間搾取は否定されず、「内徳小物成(ないとくこものなり)」を認められていること、などの違いがあった。都市商業政策では、分国における関所を撤廃して流通を円滑にし、金銀貨をも含む広い視野から撰銭令(えりぜにれい)を出して通貨整備を行おうとした。また城下町安土では楽市(らくいち)・楽座(らくざ)、公事免許(くじめんきょ)などの優遇策を実施して繁栄に努めた。都市については上京(かみぎょう)、尼崎(あまがさき)を焼き、堺(さかい)などの武装を解除したが、都市自治権は全面的には否定せず、寺内町(じないまち)の特権は認めたりしている。全般的にいえば関所撤廃、城下町政策など戦国大名のなかでも、もっとも進んだ政策を実施した。また領国尾濃では伊藤宗十郎(いとうそうじゅうろう)を商人司として商人統制を行い、城下町以外では座組織を認め、流通仲間など積極的に利用した。ここでも京七口(きょうななくち)の皇室領率分関(りつぶんぜき)を残し、座を認め、寺内町の建設すら認めたのは、公家・寺社との関係を尊重したためであった。都市の経済力に注目し、今井宗久(いまいそうきゅう)、津田宗及(つだそうきゅう)ら堺の豪商と結び付いたことも知られる。[脇田 修]

文化政策

信長は禅宗であるが、無神論者といわれるようなところがあり、なによりも政治権力を宗教勢力の上に置いた。浄土宗、日蓮宗(にちれんしゅう)の宗論を安土城で行わせ、日蓮宗を非としたことはそれを示している。比叡山延暦寺や槇尾寺(まきのおでら)焼討ち、高野聖(こうやひじり)斬殺(ざんさつ)、一向一揆(いっこういっき)の徹底的弾圧など、抵抗する者には容赦しなかった。キリスト教については、ヨーロッパ文化への興味と一向一揆との対抗のために保護を加え、安土にセミナリオ、京都に南蛮寺(なんばんじ)の建設を認めている。また相撲を好み、芸能では幸若舞(こうわかまい)をたしなみ、桶狭間合戦に赴く朝、かねて好む『敦盛(あつもり)』の一節「人間五十年、下天(げてん)の内をくらぶれば夢幻(ゆめまぼろし)の如(ごと)くなり……」と舞ったのは有名。小歌も口ずさみ、「死のふは一定(いちじょう)、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすよの」の歌詞を愛誦(あいしょう)したという。茶の湯では千利休(せんのりきゅう)、津田宗及、今井宗久らを茶道(さどう)として召し抱え、名物をも集めたが、茶の湯を政治に利用し、功績のある家臣に茶の湯を許す栄誉を与え、茶道具を与えたりした。[脇田 修]

歴史的位置

中世から近世への変革期に現れ、戦国動乱を平定する直前で信長は倒れた。その意味で、彼が近世統一権力の先頭走者であったことは確かである。しかし、織田政権の評価については意見が分かれている。従来は、織豊政権(しょくほうせいけん)と一括されるように、織田政権を近世権力と考え、豊臣政権と連続してとらえる説が有力であった。最近の研究では、織田政権を戦国大名段階の中央権力と規定し、室町幕府よりもはるかに新しいが、豊臣政権のような近世権力とは異なると考えられている。[脇田 修]
『鈴木良一著『織田信長』(岩波新書) ▽今井林太郎著『織田信長』(1966・筑摩書房) ▽脇田修著『近世封建制成立史論』(1977・東京大学出版会)』

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