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細川頼之【ほそかわ よりゆき】

美術人名辞典

細川頼之
南北朝時代の武将。三河生。頼春の子、頼元の兄。名は弥九郎、法名常久。南北両朝分裂後足利尊氏に従って戦功をあげ、のち細川一族を統括し四国を平定した。また正平22年管領となり、将軍足利義満を補佐する。明徳の乱には山名氏清を討ち、幕府の宿老として重きをなした。明徳3年(1392)歿、64才。

出典:(株)思文閣

デジタル大辞泉

ほそかわ‐よりゆき〔ほそかは‐〕【細川頼之】
[1329~1392]南北朝時代の武将。室町幕府管領(かんれい)として足利義満を助け、幕政の安定をはかった。のち、一時失脚したが、中国・四国地方の平定に活躍して、再び幕政に参加。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

細川頼之 ほそかわ-よりゆき
1329-1392 南北朝時代の武将。
元徳元年生まれ。細川頼春の子。細川頼元の兄。足利尊氏(たかうじ)にしたがって南朝方とたたかう。貞治(じょうじ)6=正平(しょうへい)22年幕府管領(かんれい)となり,幼少の将軍足利義満を補佐した。のち諸将にうとまれて失脚。晩年復帰し,明徳の乱の鎮定につくした。明徳3=元中9年3月2日死去。64歳。三河(愛知県)出身。通称は弥九郎。
【格言など】人生五十功無きを愧(は)ず 花木春過ぎ夏すでに中ばなり(「海南行」)

出典:講談社
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世界大百科事典 第2版

ほそかわよりゆき【細川頼之】
1329‐92(元徳1‐元中9∥明徳3)
南北朝時代の武将。頼春の子。幼名弥九郎。はじめ武蔵守,のち相模守。父頼春とともに足利尊氏に従い南朝軍と戦う。1362年(正平17∥貞治1)同族細川清氏が南朝方に降り讃岐白峰城に拠って足利義詮(よしあきら)に背いたのを攻め滅ぼし,四国を平定した。67年義詮の死去に際し,幼少の義満の補佐を託され,管領に任ぜられ,これまで足利氏の家宰的性格しか与えられていなかった執事職を管領という幕府政治の中枢的な職に高め,幕政を左右した。

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大辞林 第三版

ほそかわよりゆき【細川頼之】
1329~1392) 南北朝時代の武将。室町幕府管領。足利義満を助け幕政に重きをなす。晩年明徳の乱を鎮定。

出典:三省堂
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

細川頼之
ほそかわよりゆき
[生]元徳1(1329)
[没]元中9=明徳3(1392).3.2. 京都?
室町幕府管領 (在職 1367~79) 。阿波,讃岐,土佐,淡路の守護。頼春の子。中国管領として正平 17=貞治1 (62) 年幕府から離反したいとこ清氏を讃岐に滅ぼし,細川一族を統制,四国を平定した。正平 22=貞治6 (67) 年将軍足利義詮 (よしあきら) の委託を受けて管領となり,幼少の将軍義満の補佐役となり,以後 12年間事実上幕政を主宰した。正平 23=応安1 (68) 年武蔵守,3年後相模守となった。しかし彼の専横なやり方に,斯波氏をはじめ諸大名が反発し,康暦の政変 (79) で失脚,四国へ下った。元中8=明徳2 (91) 年政界へ復帰,養子の管領頼元の後見となった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

細川頼之
ほそかわよりゆき
(1329―1392)
南北朝時代の武将。室町幕府の管領(かんれい)。通称弥九郎(やくろう)。右馬助(うまのすけ)、右馬頭(うまのかみ)、武蔵守(むさしのかみ)。法号常久(じょうきゅう)、道号桂岩(けいがん)。阿波(あわ)守護・侍所頭人(さむらいどころとうにん)細川頼春(よりはる)の子。1350年(正平5・観応1)から翌年にかけて父の名代(みょうだい)として阿波にあり南朝方と戦う。52年(正平7・文和1)頼春が京都で討ち死にすると阿波守護を継ぎ、翌々年伊予(いよ)守護を兼ね、畿内(きない)、四国で南朝方と連戦したのち、56年(正平11・延文1)中国管領となって足利直冬(あしかがただふゆ)党を追討し、62年(正平17・貞治1)従兄弟(いとこ)の前幕府執事(しつじ)細川清氏(きようじ)を幕命により讃岐(さぬき)に討ち取り、一族の分立を淘汰(とうた)して讃岐・土佐守護を兼ねた。67年将軍義詮(よしあきら)の遺命により、幕府の管領となって幼少の将軍義満(よしみつ)を助け12年間在任。この間に半済(はんぜい)法の整備、朝廷(北朝)の段銭(たんせん)催徴権などの接収、河内(かわち)、伊勢(いせ)、越中(えっちゅう)などの南軍拠点攻撃、鎮西(ちんぜい)管領(九州探題)今川了俊(りょうしゅん)の発遣、義満の官位昇進や幕府新第(しんてい)(花の御所)の造営による将軍家の権威増進、五山以下仏教界の風儀粛正、統制強化などに努め、幕府権力の確立に力を尽くす。そのかたわら、弟頼元(よりもと)以下の一族を侍所頭人、諸国守護などに起用して守護大名細川氏興隆の基礎を築いた。やがて斯波義将(しばよしまさ)らの諸大名の反発を招き、79年(天授5・康暦1)失脚し、剃髪(ていはつ)して四国に下ったが、一族、被官を結集して分国の統治に専念した。89年(元中6・康応1)義満の瀬戸内巡歴に協力、翌年備後(びんご)守護となって山名時煕(やまなときひろ)の反乱を討ち、91年(元中8・明徳2)管領に就任した頼元を後見してふたたび幕政に参画し、明徳(めいとく)の乱の鎮定に殊功を収めた。翌92年3月2日病没。墓所は洛西(らくせい)地蔵院に現存する。性篤実で義満の信任厚く、和歌、連歌(れんが)、詩文を愛好し、禅宗を厚く信じ、京都の景徳寺・地蔵院、阿波の光勝院・宝冠寺を建立し、土佐の吸江庵(ぎゅうこうあん)などを再興した。[小川 信]

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精選版 日本国語大辞典

ほそかわ‐よりゆき【細川頼之】
南北朝・室町初期の武将。細川頼春の子。足利尊氏に従って武功をあげ、管領となって三代将軍義満を補佐。守護大名と対立して辞任したが、後年、再び幕府に迎えられた。元徳元~明徳三年(一三二九‐九二

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