Rakuten infoseek

辞書

【しん】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典


しん
Qin; Ch`in
中国,代の諸侯国で,戦国の七雄の一つ。のち統一国家を建設 (前 221~206) 。甘粛省方面から起り,帝せんぎょくの子孫栢翳 (はくえい) が舜からえい姓を賜わったというが,西周末期までは伝説におおわれた部分が多い。周の平王東遷を助けた襄公がその功績で諸侯に列せられたという。春秋時代中期に穆公 (ぼくこう) が発展に努め,五覇の一つに数えられたこともあるが,中原諸侯からは夷狄視され続けた。強力になるのは戦国時代中期に商鞅 (しょうおう) を用いた孝公のときからで,次の張儀を用いた恵王,白起らを用いた昭襄王にかけて韓,魏など6国に圧迫を加え,始皇帝のときに天下を統一した (前 221) 。秦二世皇帝は在位3年で趙高に殺され,子嬰 (しえい) が立ったが漢の劉邦 (→高祖) に降伏し,前 206年に滅亡した。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉

しん【秦】
中国の国名
春秋戦国時代の国の一。戦国七雄の一。初め秦(甘粛)の地にいたが、前771年、の諸侯に列せられて以後、渭水(いすい)に沿って東進。勢力を拡大して、前249年にを滅ぼし、前221年政(始皇帝)の時には六国を滅ぼし天下を統一。都は咸陽。前207年、3代15年で劉邦(りゅうほう)(高祖)に滅ぼされた。
五胡十六国時代の3王朝、前秦後秦西秦

出典:小学館
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:田中牧郎、曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

しん【秦】[漢字項目]
人名用漢字] [音]シン(漢)
中国周代の国名。「秦篆(しんてん)先秦
[名のり]はた
[難読]秦皮(とねりこ)

出典:小学館
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:田中牧郎、曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

はた【秦】
姓氏の一。
古代の渡来系氏族。伝承では、応神天皇の時に来朝した弓月君(ゆづきのきみ)の子孫と称する。織物の生産に従事する秦部(はたべ)を統率した。
[補説]「秦」姓の人物
秦佐八郎(はたさはちろう)
秦河勝(はたのかわかつ)

出典:小学館
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:田中牧郎、曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

はた‐しん【秦】
《「秦」を「はた」と訓読するところから》中国古代の国名「」を、同音の「(すすむしん)」と区別していう語。

出典:小学館
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:田中牧郎、曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

防府市歴史用語集

 中国・春秋戦国時代[しゅんじゅうせんごくじだい]の国の1つです。紀元前221年に他の国をほろぼして、中国全土を支配しました。しかし、紀元前206年には前漢[ぜんかん]の劉邦[りゅうほう]によって、ほろぼされてしまいます。

出典:ほうふWeb歴史館
Copyright 2002,Hofu Virtual Site Museum,Japan
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版

しん【秦 Qín】
中国,周代の(えい)姓の諸侯。戦国七雄の一つ。前221年に秦王政(始皇帝)が全国を統一し,中国最初の統一帝国となる。統一後,秦はそれまでの社会体制を大改革し,郡県制を制定,官僚組織を整備するなど中央集権的国家体制をしき,これらの制度はのちの中国各王朝に引きつがれることになる。また秦は法律による統治を理想として,法家思想に基づく信賞必罰主義をとった。急激な変革,厳しい法による人民支配の強化から,2代目皇帝胡亥即位の翌年(前209)早くも農民反乱(陳勝・呉広の乱)を招いた。

出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.

しん【秦 Qín】
中国,五胡十六国の一つ。西秦ともいう。385‐431年。隴西郡(甘粛省隴西県)の鮮卑族の部族長乞伏国仁は,前秦の滅亡を機に苑川(甘粛省蘭州東方)地方により,その弟乾帰がこれを継承して河南王を称した。一時後秦に帰属したが再び自立し,その子熾磐は南涼を下して秦王を称した。熾磐の時代が西秦の最盛期である。その死後,慕末がこれを継いだが部民の信頼を得ず南安(甘粛省隴西県)に遷都した。やがてのために滅ぼされた。

出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.

しん【秦 Qín】
中国,五胡十六国の一つ。前秦ともいう。351‐394年。(てい)族苻氏(もと蒲氏)の建てた政権。略陽郡臨渭県(甘粛省秦安県)の長苻洪が永嘉の乱を契機にこの地方の氐族や漢族に推されて盟主となったことから,政権の基礎が生まれた。初め後趙の傘下にあったが,苻洪の子苻健が自立して長安に即位した。第3代苻堅のとき西域を含む華北全域を平定し,五胡時代には珍しい政治の安定と文化の隆盛を築いたが,東晋併呑に失敗して国家は瓦解し,本拠長安は後秦に奪われた。

出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.

しん【秦 Qín】
中国,五胡十六国の一つ。後秦ともいう。386‐417年。(きよう)族姚(よう)氏の建てた政権。南安郡赤亭(甘粛省隴西県)を本拠とする羌族長姚弋仲(ようよくちゆう)は永嘉の乱を機に勢力を拡大し,前趙,後趙,東晋に属した。のちその勢力は前に入ったが,姚弋仲の子姚萇(ようちよう)は前秦の瓦解を機に自立し,苻堅をとらえて長安に即位した。その子の姚興洛陽を占領し,後涼を併せ,北涼,南涼,西涼を臣属させるなど国威を張ったが,その子姚泓のとき東晋の劉裕に滅ぼされた。

出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.

大辞林 第三版

しん【秦】
中国最初の統一王朝。周代の諸侯国の一、戦国七雄の一として渭水いすい盆地に進出。紀元前四世紀以降急速に発展し、周室を討ち、始皇帝の時、六国を滅ぼして天下を統一(前221年)したが、三代15年で滅んだ(前207年)。
五胡十六国時代の王朝。前秦・後秦・西秦の三王朝。

出典:三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

はた【秦】
姓氏の一。漢氏あやうじと並ぶ古代の新羅系渡来氏族。養蚕をはじめ鉱山開発、灌漑・土木事業に従事した。山城国葛野かどの郡を本拠に、近畿一帯に広く住し、平安京の建設にはその財力が大いに貢献したといわれる。

出典:三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

はたしん【秦】
〔「秦」を「はた」と訓ずるところから〕
古代中国の「秦」を、同音の「晋」と区別する呼び方。 → すすむしん

出典:三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)


しん
中国、周代の侯国の一つで、のち中国最初の統一王朝(?~前207)。[好並隆司]

周代の侯国としての秦

神話伝説から歴史事実とみられる移行期は非子の記載のあるころとみられる。周の孝王は大丘にいた非子に牧畜をさせ、秦の地を与え、(えい)氏を名のらせた。襄公(じょうこう)は周の内乱に際して平王を助けたので初めて諸侯に任じ、岐山(きざん)(陝西(せんせい)省岐山県北東)以西の地を与え秦公とした(前771)。このとき犠牲を用いて上帝を祀(まつ)ったが、これは西戎(せいじゅう)の習俗に由来する。文公のとき、渭水(いすい)(けんすい)の合流点あたりに都を移し「三族の罪」を決めた。人が罪を犯したとき父母、妻子、兄弟まで連座する法律である。君主権の伸長を示すとともに戎(じゅうてき)の慣習を法制化した面もある。寧公2年(前714)には都を平陽(陝西省鳳翔(ほうしょう)県南西)に移した。そののち武公10年(前688)に(けい)、冀(き)の戎を討伐し、ここに初めて県を置き、杜(と)、鄭(てい)を県としている。徳公のとき雍(よう)(陝西省鳳翔県)に都したが、繆公(穆公)(ぼくこう)のときに飛躍的にその勢力を強めた。繆公は百里奚(ひゃくりけい)や由余を登用し、秦の進むべき道を指し示した。百里奚はもと虞(ぐ)の大夫であり、繆公の招請によって臣下となった。由余は晋(しん)の人であるが、当時、戎王の下にいたのを策略をもって臣従させた。このように客臣を用いて君主の指導力を強める方針は秦の伝統となった。由余は礼楽法度(れいがくほうど)を退けて上下一体の戎の社会をモデルにするよう繆公に勧めている。君主権を抑制する宗族(そうぞく)や貴族の勢力を削減する道である。このなかで強大となった秦は河西の地を占め西戎の地を伐(う)ったので、その領土は方千里に達したという。繆公は死んだとき多くの殉死者を得たが、それは生前、臣下と約束していたからである。つまり、君主が部下を私臣として自由に扱うということで、秦の君子たちの非難を受けているが、これも君主権伸長の一標識である。[好並隆司]

戦国七雄の一国としての秦

秦はその後、国内で争いを起こし東方発展の力はなかった。しかし、紀元前403年、晋が韓(かん)、魏(ぎ)、趙(ちょう)に分裂したので、献公は櫟陽(やくよう)(陝西省臨潼(りんとう)県東)に都を東遷して、東方経略を図った。その子、孝公は、諸侯でありながら戎狄(じゅうてき)と蔑視(べっし)されて東方の会盟に加わることができなかったので憤りを感じ、自国を強化して東方諸侯に力を示そうと考えた。そこで広く人材を求め、富国強兵を実現しようとした。魏から衛の公族出身の公孫鞅(おう)(後の商鞅)が来朝して、帝王の道、王道、覇道という順序で孝公に自説を述べている。前二者は回りくどいという点で孝公は用いなかったが、覇道は孝公を感銘させた。商鞅は覇道を実行することがやがて帝王の道(尭(ぎょう)の統治)に至る道程と考えていた。孝公に抜擢(ばってき)された商鞅は信賞必罰を核として、農業、戦闘の成果を計って授爵し、有爵者だけが評価される身分制社会をつくりだした。そして隣=伍家(ごか)という共同体(小宗族的)単位を基礎として国家に協力するという体制を什伍(じゅうご)制として施行した。これは君主が「伍」を把握するもので、中間的勢力を抑制して家父長的権力の伸長を計るものであった。その「伍」を単位として「聚(じゅ)」がつくられ、その上に「郷」「県」が行政単位として成立する。後の郡県制につながる県制は商鞅によって初めて設定された。阡陌(せんぱく)制を開いたのも彼であるが、これは小型家族の創設政策である「分異法」によって析出され、野を開拓した子弟の土地を整理するために設けられた東西の土地区画線と考えられるが、諸説あってなお定説はない。商鞅変法は第一次、第二次と施行されるが、この第二次変法は都を咸陽(かんよう)に移してのち行われている。咸陽はそれ以後、秦の滅亡するまで首都であった。
 孝公は変法で強力となった国力で東征を展開し、河西の地を魏から奪回した。魏はこの敗戦の結果、都を安邑(あんゆう)(山西省候馬(こうま))から大梁(たいりょう)(河南省開封)に移さざるをえなかった(前340)。この秦の東征は東方諸国に大きな脅威を与えた。蘇秦(そしん)、張儀(ちょうぎ)らの有名な合従連衡(がっしょうれんこう)などの妥協策や対抗策はすべて秦を中心に考えられた外交政策である。孝公の死後、秦では恵文王が継ぎ、もともと仲のよくなかった商鞅を誅殺(ちゅうさつ)するが、政策の基本である君主権の伸長という方針はこれを踏襲した。そして、ただちに中原(ちゅうげん)に覇を唱えるのでなく、なおいっそう国力の基礎を強固にするため、巴蜀(はしょく)(四川(しせん)省)を制圧し、楚(そ)に属していた漢中を領有した(前312)。さらに昭王の時代には揚子江(ようすこう)を南渡し、将軍白起(はくき)は楚の首都郢(えい)(湖北省江陵県)を陥落させた。東方では魏の河東地方を併合し、范雎(はんしょ)を用いて遠交近攻策を駆使しつつ、長平において趙国に致命的な打撃を与えた(前260)。昭王はやがて西周を滅ぼし、東周君も秦の荘襄王(そうじょうおう)子楚(しそ)によって滅ぼされ、周王朝はここに形式上も終焉(しゅうえん)した(前249)。[好並隆司]

始皇帝の登場と中国統一

荘襄王子楚の子が秦王政である。彼は年少で王位についたので、太后や丞相(じょうしょう)呂不韋(りょふい)らが政治権力を握っていた。しかし、太后の愛人、(ろうあい)を誅(ちゅう)し(前238)、を太后に推薦したことによって呂不韋も政権の座から追放して、ついに秦王政が親政することになった。それ以後、彼は丞相に李斯(りし)を用い、法家主義的政策を採用して、宗室、貴族の勢力を抑制しつつ、専制的皇帝権力を樹立した。その間、王翦(おうせん)らの将軍を派遣して各国を征服し続けた。韓王国の滅びたのは前230年であるが、以後、10年間に他の5国も次々と秦国の力の前に屈服した。そして中国全土を統一の権力が制覇することとなった(前221)。これが秦帝国である。彼は秦帝国の永遠なることを希望して始皇帝と称し、万世に至らんと願った。彼は丞相、太尉(たいい)、御史大夫(ぎょしたいふ)を配置して、行政、軍事両面における皇帝の補佐役とした。地方統治形態は封建制でなく、商鞅以来の郡県制をとり、全国を36郡に分け、郡には守、尉、監を、県には令、長などを置き、軍事は県尉にゆだねられた。全国を集権化する必要上、度量衡、貨幣、文章書体などを一定にする措置がとられた。そして、反乱を防ぐため武器を集めて溶融し「金人」としたという。北は匈奴(きょうど)防衛のため長城を設け、南は華南、東は朝鮮までもその勢力範囲を伸長した。イデオロギー統制にも力を入れた。焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)は著名な事件であるが、農芸、医薬、卜占(ぼくせん)などを除くすべての書籍を焼いたようにいわれている。しかし、官庁に保管していた儒家の経典など諸子百家の文献は残されていた。それらを私的にもち流布させることによって秦朝の諸政策を非難する動きを抑制するのが焚書のおもなねらいであった。坑儒も始皇帝を誹謗(ひぼう)した方士たちと、それに関連した儒者が処罰されたのであって、儒家の抹殺という徹底したものでなかったことは注意を払っておく必要があろう。
 この壮大な帝国はアジア世界において最初の大規模な領域をもち、秦の名は遠く西方世界にまで伝播(でんぱ)された。支那(しな)(チャイナ)の名称の起源は秦(チン)にあるという説があったのもそこに由来するであろう。しかし、秦の法家的威圧は、なお強い勢力をもつ貴族や小宗族を基礎とする農民各層の反発を招かざるをえなかった。しかも、皇帝権力の威を示すための陵や宮殿の造築に要した労働力は莫大(ばくだい)なもので、負担は庶民に重くのしかかった。二世皇帝胡亥(こがい)も趙高(ちょうこう)を用いて同様の政策をとった。趙高は身分制を撤廃して君権強化を計っているが、現実との背反は激しくなるばかりであった。このころ、陳勝(ちんしょう)・呉広(ごこう)らの農民反乱が起こり、それに触発されて貴族、豪傑らも反秦の旗を翻した。胡亥の後継の公子嬰(しえい)が項羽(こうう)の部将であった漢の劉邦(りゅうほう)に降(くだ)り、伝国の玉璽(ぎょくじ)を捧呈(ほうてい)して秦帝国は滅んだ(前207)。天下統一後、3代15年の治世であった。[好並隆司]
『西嶋定生著『中国の歴史2 秦漢帝国』(1974・講談社)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

精選版 日本国語大辞典

しん【秦】
[一] 中国の通称。秦朝の盛勢が、四方に伝わったため、諸外国は、多くこれを中国の代称とした。
[二] 中国陝西(せんせい)省の別称。
[三] 中国甘粛省の古名。
[四] 周代の侯国で、中国最初の統一王朝。はじめ甘粛省東部にあり、周の諸侯となり、渭水に沿って東進。春秋の五覇、戦国の七雄として勢力を伸長し、前二五六年周室を滅ぼし、秦王政(始皇帝)のとき韓・趙・魏・楚・燕・斉を滅ぼして天下を統一した(前二二一)。中央集権的法治国家体制をとり、郡県制を立て、北は匈奴を討って万里の長城を修築し、南は閩越・南越を併せた。その死後帝国は瓦解、三代一五年で劉邦(漢の高祖)に滅ぼされた(前二〇七)。
[五] 中国の王朝名。五胡十六国の一つ(三五一‐三九四)。氐族の苻健が長安に都して建国。苻堅のとき華北を統一したが、淝水の戦いに敗れて滅びた。前秦。
[六] 中国の王朝名。五胡十六国の一つ(三八六‐四一七)。羌族の姚萇(ようちょう)が長安に都して建国。一時華北の大半を領有。東晉の劉裕の北伐により滅んだ。後秦。
[七] 中国の王朝名。五胡十六国の一つ(三八五‐四三一)。鮮卑の乞伏国仁が金城(甘粛)に都して建国。夏に滅ぼされた。西秦。

出典:精選版 日本国語大辞典
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

はた‐しん【秦】
(「はだしん」とも。「秦」は「はた」と訓読するところから) 中国の古代の国名「秦」を「晉(すすむしん)」と区別していう語。〔随筆・夏山雑談(1741)〕

出典:精選版 日本国語大辞典
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

」の用語解説はコトバンクが提供しています。

秦の関連情報

他サービスで検索

(C)The Asahi Shimbun Company /VOYAGE MARKETING, Inc. All rights reserved.
No reproduction or republication without written permission.