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秋田藩【あきたはん】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

秋田藩
あきたはん
久保田藩ともいう。江戸時代,出羽国秋田地方 (秋田県) を領有した藩。室町時代以来この地を領有していた秋田氏が,関ヶ原の戦いで西軍に加担したため,慶長5 (1600) 年常陸 (茨城県) 宍戸へ移され,同7年に常陸水戸 54万 6000石を領していた佐竹義宣が同じく西軍に呼応したかどで 20万 5800石に減封されてこの地に移った。以後外様大名佐竹氏が 13代にわたって在封,廃藩置県に及んだ。江戸城大広間詰。義宣は,久保田城を築き,城下に久保田町を開き,梅津政景を用いて院内銀山を経営するなど藩政確立に努めた。元禄 14 (1701) 年,弟義長に新田2万石を,甥義都 (よしくに) に同1万石を分与して,それぞれ岩崎藩,久保田新田藩を起したが,後者は享保 17 (32) 年宗藩に返還された。 10代義和 (よしまさ) は藩政改革を試み,13代義堯 (よしたか) は奥羽越列藩同盟に加盟した佐幕諸藩に対し孤軍奮闘した。明治5 (1872) 年の禄高は内高 60万石,実高 80万石。

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藩名・旧国名がわかる事典

あきたはん【秋田藩】
江戸時代出羽(でわ)国秋田郡久保田(現、秋田県秋田市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩校は明徳館(めいとくかん)。戦国時代はこの地域を秋田氏が治めていたが、石田三成(みつなり)についていた常陸(ひたち)国54万石の佐竹義宣(さたけよしのぶ)関ヶ原の戦い徳川家康(とくがわいえやす)からあいまいな態度を憎まれ、1602年(慶長(けいちょう)7)、当地20万石に減転封(げんてんぽう)(国替(くにがえ))された。秋田氏は逆に常陸国宍戸(ししど)に転封となった。以後当地は明治維新まで佐竹氏12代が続いた。1603年(慶長8)から3回に及ぶ一斉検地を実施、それをもとに上納額を定め、また領内9ヵ所へ家臣団を配備して、寛文(かんぶん)~天和(てんな)期(1661~84年)に藩制が確立した。以後、米と銀や銅が藩財政を支えたが、過重な貢租にもかかわらず、地方家臣への給分が7割を占めたことなどから藩は常に財政難を抱えることになった。1833年(天保(てんぽう)4)からの天保の飢饉では大きな被害を受け、一揆が頻発した。一方、文化面では、江戸中期の社会思想家安藤昌益(しょうえき)、後期の国学者平田篤胤(あつたね)、農政学者佐藤信淵(のぶひろ)らを輩出した。幕末には平田派国学の徒がクーデタを起こして勤王に転換したが、東北諸藩のなかでは孤立し、領地が戦場と化した。1871年(明治4)の廃藩置県で秋田県に編入された。◇江戸期の正式な藩名は久保田藩

出典:講談社
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世界大百科事典 第2版

あきたはん【秋田藩】
出羽国久保田に藩庁を置いた外様大藩。維新当時の正式名は久保田藩であるが,1871年(明治4)1月秋田藩と改称し,一般に秋田藩と呼ぶことが多い。佐竹義宣は関ヶ原の戦後の1602年(慶長7)常陸54万石から秋田20万石(領地高は1664年確定)に移封を命じられる。出羽国秋田,檜山ひやま)(1664以降山本),豊島(としま)(同河辺),山本(同仙北(せんぼく)),平鹿雄勝の6郡と下野国河内,都賀郡のうち11ヵ村を領有。

出典:株式会社平凡社
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日本大百科全書(ニッポニカ)

秋田藩
あきたはん
出羽(でわ)国北半の秋田、仙北(せんぼく)6郡(秋田県)を支配した藩。久保田(くぼた)藩ともいう。藩主佐竹(さたけ)氏。外様(とざま)。関ヶ原の戦いの結果、1602年(慶長7)佐竹義宣(よしのぶ)が常陸(ひたち)(54万石余)から、北羽の安東、戸沢、小野寺、本堂、六郷氏などの旧領に転封、新たに久保田(秋田市)に築城、ここを城下町として廃藩置県に至る。1664年(寛文4)出羽6郡20万石、下野(しもつけ)(栃木県)のうち5800石余の知行(ちぎょう)高が確定した。1603年(慶長8)からの3回に及ぶ一斉検地とこれに伴う貢租(こうそ)制の完成、領内9か所への家臣団の配備、蔵分支配の集中化などを経て、寛文(かんぶん)~天和(てんな)期(1661~1684)のころに藩制が確立した。藩初から新田開発と鉱山、山林経営に力を注ぎ、当初20万石余の石高が17世紀末には39万石余となり、また院内(いんない)銀山、阿仁(あに)銅山など国内屈指の鉱山の稼行も盛んであり、「国の宝は山なり(中略)山の衰えは即(すなわ)ち国の衰えなり」を国是として山林育成にも努めた。義宣のとき山奉行(ぶぎょう)、勘定奉行、家老を歴任した梅津政景(うめづまさかげ)の日記は初期藩政史の重要史料である。19世紀初頭にも佐竹義和(さたけよしまさ)の殖産興業などがあり、産業開発にも努力したが、耕地の8割近くが水田であり、米のほかみるべき農産物がなく、米(65%)と鉱産物(20%)を移出し、木綿、棉(わた)、塩、紙などを移入する典型的な経済的後進地であった。当高10石について8石余相当の過重な貢租収奪は農村の発展を阻害することが多く、また藩高の7割5分前後が地方知行(じかたちぎょう)を基本とする家臣給分のため、藩の財政難はすでに17世紀中葉から顕在化し、知行借上げは6割にも達したが、その克服は不可能であった。文教、文化面では、平田篤胤(ひらたあつたね)、佐藤信淵(さとうのぶひろ)、安藤昌益(あんどうしょうえき)らが知られ、全国に先駆けて洋画の手法を取り入れた秋田蘭画(あきたらんが)の出現など注目すべきものがある。なおこの藩は、戊辰(ぼしん)戦争に際し、孤軍よく奥羽越(おううえつ)列藩同盟軍と対抗したことでも知られている。1871年(明治4)秋田県に編入。[半田市太郎]
『『秋田県史 2・3』(1965・秋田県)』

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