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福沢諭吉【ふくざわ ゆきち】

美術人名辞典

福沢諭吉
幕末・明治の啓蒙思想家・教育者。豊前国中津藩士福沢百助の五男。緒方洪庵蘭学を学び、さらに英語を修得する。渡米・渡欧して各国を視察、『西洋事情』を刊行し欧米文明の紹介に努める。また芝新銭座に慶應義塾を創設し活発な啓蒙活動を展開、『学問のすゝめ』は人間平等宣言と〈一身独立・一国独立〉の主張により、ベストセラーとなる。また「時事新報」を創刊し、政治・時事・社会問題や婦人問題などに幅広く論説を発表した。明治34年(1901)歿、68才。

出典:(株)思文閣

デジタル大辞泉

ふくざわ‐ゆきち〔フクざは‐〕【福沢諭吉】
[1835~1901]啓蒙思想家教育家大坂の生まれ。豊前(ぶぜん)中津藩士。大坂で蘭学緒方洪庵に学び、江戸に蘭学塾(のちの慶応義塾)を開設、のち、独学で英学を勉強。三度幕府遣外使節に随行して欧米を視察。維新後、新政府の招きに応ぜず、教育と啓蒙活動に専念。明六社を設立、「時事新報」を創刊。著「西洋事情」「学問のすゝめ」「文明論之概略」「福翁自伝」など。

出典:小学館
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

福沢諭吉 ふくざわ-ゆきち
1835*-1901 幕末-明治時代の思想家。
天保(てんぽう)5年12月12日生まれ。豊前(ぶぜん)中津藩(大分県)藩士。大坂の適塾でまなび,安政5年江戸で蘭学塾(のちの慶応義塾)をひらく。英学を独修し,7年幕府の遣米使節に同行して咸臨(かんりん)丸で渡米。以後2回欧米を視察。元治(げんじ)元年幕臣となり外国奉行翻訳方をつとめる。維新後は官職を辞して生涯野にあった。明治15年「時事新報」を創刊。人間の独立自尊,実学の必要性を説き,脱亜論をとなえた。明治34年2月3日死去。68歳。著作に「西洋事情」「学問のすゝめ」「文明論之概略」など。
【格言など】天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり(「学問のすゝめ」)

出典:講談社
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デジタル大辞泉プラス

福沢諭吉
1991年公開の日本映画。監督:澤井信一郎、脚本:笠原和夫、桂千穂。出演:柴田恭兵、若村麻由美、南野陽子、仲村トオル、寺杣昌紀、円谷浩、富士原恭平ほか。

出典:小学館
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世界大百科事典 第2版

ふくざわゆきち【福沢諭吉】
1834‐1901(天保5‐明治34)
明治の思想家,教育者。豊前中津藩の蔵屋敷で廻米方を勤める百助の次男として大坂に生まれる。数え年3歳で父を失い中津に帰る。学識豊かな教養人でありながら軽格のため不遇に終わった父の生涯,中津における一家の孤立,下士の生活の惨めさは彼のうちに早くから〈封建門閥〉への強い不満をはぐくむ。1854年(安政1)長崎に出て蘭学を学び,翌年には緒方洪庵の塾に入る。58年藩命によって江戸出府,中津藩下屋敷に蘭学塾を開く。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

ふくざわゆきち【福沢諭吉】
1834~1901) 思想家・教育家。慶応義塾の創立者。豊前中津藩士。大坂の緒方塾で蘭学を学んだのち、江戸に蘭学塾を開き、また英学を独習。幕府の使節に随行し三度欧米に渡る。1868年塾を慶応義塾と命名。73年(明治6)明六社の創立に参加。82年「時事新報」を創刊。個人および国家の独立自尊、社会の実利実益の尊重を主張した。著「西洋事情」「学問ノススメ」「文明論之概略」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

福沢諭吉
ふくざわゆきち
[生]天保5(1834).12.12. 大坂
[没]1901.2.3. 東京
明治の啓蒙思想家,慶應義塾の創設者(→慶應義塾大学)。豊前国中津藩の大坂蔵屋敷で生まれ,緒方洪庵の塾で蘭学を学び,安政5(1858)年江戸に出て築地に蘭学塾を開いた。かたわら英学をも修め,万延1(1860)年,文久1(1861)~2年,慶応3(1867)年江戸幕府の遣外使節の随員として欧米を訪れ,新知識を吸収して,同2~明治2(1869)年に世に問うた 10巻の『西洋事情』がベストセラーになった。蘭学塾を芝に移して慶應義塾と名づけ,そこでの教育活動や,明六社同人として『学問のすゝめ』(1872~96)を刊行するなどの啓蒙活動に従事した。民権運動には当初から批判的で,1882年に創刊した『時事小言』(『時事新報』の前身)などでも官民調和を唱え,晩年には『脱亜論』(1885)にみられるように,富国強兵政策を支持した。『福沢諭吉全集』(21巻,1958~64)がある。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

福沢諭吉
ふくざわゆきち
(1834―1901)
明治時代の啓蒙(けいもう)思想家、慶応義塾の創立者。天保(てんぽう)5年12月12日、大坂の中津(なかつ)藩蔵屋敷で、13石二人扶持(ぶち)の藩士福沢百助(ひゃくすけ)とお順(じゅん)との間に次男として生まれる。2歳のとき父と死別、母子一家は中津(大分県中津市)へ帰る。母の手一つで育てられたが、彼もまた母をよく助けたという。1854年(安政1)長崎に蘭学(らんがく)修業に出、翌1855年大坂の緒方洪庵(おがたこうあん)塾に入門。1856年兄三之助が病死し福沢家を継ぐが、洪庵塾に戻り、1858年藩命で江戸中津藩屋敷に蘭学塾を開くことになった。これが後の慶応義塾に発展する。1859年横浜に遊び蘭学の無力を痛感、英学に転向。翌1860年(万延1)咸臨丸(かんりんまる)に艦長の従僕として乗り込み渡米、1862年(文久2)には幕府遣欧使節団の探索方として仏英蘭独露葡6か国を歴訪、1864年(元治1)に幕臣となる。1866年(慶応2)これら洋行経験をもとに『西洋事情初編』を書き刊行、欧米諸国の歴史・制度の優れた紹介書として洛陽(らくよう)の紙価を高める。1867年幕府遣米使節に随従するが、その際かってに大量の書物を買い込んだかどで、帰国後3か月の謹慎処分を受ける。
 1868年(明治1)4月、これまでの家塾を改革し慶応義塾と称し、「商工農士の差別なく」洋学に志す者の学習の場とする。上野戦争のさなかに経済学の講義をしていたエピソードは有名。この年(1868)8月幕臣を辞し、中津藩の扶持も返上、明治政府からのたびたびの出仕要請も断る。1871年の廃藩置県を歓迎し、国民に何をなすべきかを説く『学問のすゝめ初編』(1872年刊行)を書き、冒頭に「天は人の上に人を造(つく)らず人の下に人を造らずと云(い)へり」という有名な人間平等宣言を記すとともに、西洋文明を学ぶことによって「一身独立、一国独立」すべきだと説いた。この書は当時の人々に歓迎され、第17編(1876)まで書き続けられ、総発行部数340万といわれるベストセラーとなった。ここに啓蒙思想家としての地位を確立した。1873年、当代一流の洋学者たちの結集した明六社(めいろくしゃ)に参加、『明六雑誌』などを舞台に文明開化の啓蒙活動を展開。また演説の重要性を指摘し、明六社や義塾で演説会を催した。1874年母死去。翌1875年『文明論之概略』を刊行、日本文明の停滞性を権力の偏重にあるとし、西洋文明を目的とし自由な交流と競合こそが日本を文明国にすると説いた。本書は日本最初の文明論の傑作であり、西洋文明を相対化する視点も示した。
 そのほか、雑誌『民間雑誌』『家庭叢談(そうだん)』などを刊行して民衆啓蒙に努めるが、しだいにその情熱を失い、1881年の『時事小言』では「天然の自由民権論は正道にして、人為の国権論は権道なり、我輩(わがはい)は権道に従ふ者なり」と宣言し、1885年には「脱亜論」を発表、「亜細亜(アジア)東方の悪友を謝絶する」というに至る。朝鮮の開明派金玉均(きんぎょくきん)らの亡命を保護したりしたが、基本的にはアジア諸国を犠牲にしても日本が欧米列強に伍(ご)していく道を選ぶのである。その間、東京府会議員(1878)、東京学士会院初代会長(1879)、名望家のサロン交詢社(こうじゅんしゃ)の結成(1880)、そして1882年には新聞『時事新報』の創刊に携わる。日清(にっしん)戦争に際しては、文明と野蛮の戦争と断じ、献金運動に奔走。勝利には感涙にむせんだという。晩年には『福翁百話』『福翁自伝』『女大学評論・新女大学』などを著述。明治34年2月3日、脳溢血(のういっけつ)で死去。常光寺(東京都品川区上大崎1丁目)に葬られた。法名大観独立自尊居士。
 自由主義者、民主主義者、合理主義者、女性解放論者などの高い評価と、西洋崇拝、政府への妥協、一般民衆への非情、権道主義への転向を批判する考えと、その評価はさまざまである。[広田昌希]
『『福沢諭吉全集』全21巻(1958~1964/1969~1971・岩波書店) ▽『福沢諭吉選集』全14巻(1980~1981・岩波書店) ▽鹿野政直著『福沢諭吉』(1967・清水書院) ▽遠山茂樹著『福沢諭吉』(1970・東京大学出版会) ▽ひろたまさき著『福沢諭吉』(1976・朝日新聞社) ▽小泉信三著『福沢諭吉』(岩波新書)』

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精選版 日本国語大辞典

ふくざわ‐ゆきち【福沢諭吉】
教育家、啓蒙思想家。慶応義塾の創立者。豊前国(大分県)の人。長崎に留学、ついで大坂の緒方洪庵の適塾に学び、のち江戸に蘭学塾を開いて子弟を教授。この間、独力で英学を学ぶ。万延元年(一八六〇)幕府遣米使節に随行して渡米。文久元年(一八六一)再び西欧諸国を視察して、「西洋事情」「世界国尽」を著わす。慶応四年(一八六八)塾を慶応義塾と命名。「明六雑誌」や「時事新報」を創刊。独立自尊・経済実学を標語として国民の啓蒙に尽力した。主著「学問のすゝめ」「文明論之概略」「福翁自伝」。天保五~明治三四年(一八三四‐一九〇一

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