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神尾春央【かんお はるひで】

江戸・東京人物辞典

神尾春央
1687〜1753(貞享4〜宝暦3)【勘定奉行】「胡麻百姓は絞れば絞る程出るもの」享保の改革で年貢増徴を推進。 幕臣。勘定奉行。老中松平乗邑の下で年貢増徴政策を推進し、享保の改革の一端を担った。隠田摘発や有毛検見取法を各地で実施し、年貢増収に成功した。西域物語では「胡麻と百姓は絞れば絞る程出るもの」と、百姓を胡麻に例え、年貢はいくらでも厳しくできると考えていたとされる。

出典:財団法人まちみらい千代田
監修:江戸東京博物館 都市歴史研究室長 北原 進
(C) 財団法人まちみらい千代田
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

神尾春央 かんお-はるひで
1687-1753 江戸時代中期の武士。
貞享(じょうきょう)4年生まれ。幕臣。元文2年(1737)勘定奉行となり,老中松平乗邑(のりさと)のもとで年貢増徴策を推進。みずから堀江芳極(ただとう)らをひきいて近畿,中国の各地を視察して年貢率の引き上げ,隠田(おんでん)の摘発などをおこなった。宝暦3年5月5日死去。67歳。本姓は下嶋。

出典:講談社
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世界大百科事典 第2版

かんおはるひで【神尾春央】
1687‐1753(貞享4‐宝暦3)
江戸中期の幕臣,勘定奉行。五郎三郎,若狭守。下嶋為政の次男として生まれ,神尾春政の養子となる。1701年(元禄14)遺跡(200俵)を継ぐ。腰物方,桐間番,腰物方,細工頭,賄頭,納戸頭を歴任し,36年(元文1)勘定吟味役へ進み納戸頭の上席となる。翌年勘定奉行に昇進し,同年勝手掛老中に就任した松平乗邑(のりさと)の下で年貢増徴につとめた。44年(延享1)みずから畿内・中国筋を巡察し,有毛検見(ありげけみ)取法と田方木綿・雑事勝手作法を施行して年貢を増徴した。

出典:株式会社平凡社
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日本大百科全書(ニッポニカ)

神尾春央
かんおはるひで
(1687―1753)
江戸中期の幕臣、勘定奉行。通称五郎三郎、若狭守(わかさのかみ)。下嶋為政(しもしまためまさ)の次男。神尾春政(はるまさ)の養子となり、1701年(元禄14)に養父の跡を継ぐ(200俵)。以後、主に奥向の勝手御用を務め、1736年(元文元)に勘定吟味役に昇進した。その翌年には勝手方の勘定奉行となり、勝手掛老中松平乗邑(のりさと)の下で年貢増徴を推進した。1744年(延享元)には、自ら畿内(きない)、中国筋へ赴き、有毛検見(ありげけみ)法、田方木綿(たかたきわた)勝手作仕法など新仕法を導入して年貢の大増徴を行ったが、翌年4月の大坂周辺幕領農民の堂上方(とうしょうがた)への出訴など、民衆の反発を招いた。後年、本多利明(としあき)も、「神尾氏が曰、胡麻(ごま)の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなりといへり、不忠不貞いふべき様なし、日本に漫(あまね)る程の罪人ともいふべし」(『西域物語(せいいきものがたり)』)と、痛烈に批難している。松平乗邑失脚の翌年、1746年に勝手方にかかわる権限を縮小されたが、なお勘定奉行の地位にあり、年貢増徴を指令し続けた。1753年(宝暦3)に没したが、この間1500石にまで加増されていた。[谷山正道]
『森杉夫著『近世徴租法と農民生活』(1993・柏書房) ▽谷山正道著『近世民衆運動の展開』(1994・高科書店)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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