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神功皇后【じんぐうこうごう】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

神功皇后
じんぐうこうごう
古代,仲哀天皇皇后とされる人。名はオキナガタラシヒメノミコト。父は開化天皇の曾孫,母は新羅から但馬に来住したというアメノヒボコ(天之日矛)の玄孫タカヌカヒメ。いわゆる三韓征伐物語の中心人物。「記紀」によると仲哀天皇が熊襲を討つため九州に赴き筑紫橿日宮(→香椎宮)で急死すると,同行の皇后は妊娠中にもかかわらず,武内宿禰とはかり新羅に遠征,新羅降伏後筑紫に帰ってホンダワケノミコト(応神天皇)を産んだという。この遠征の結果,百済高句麗も日本に帰服した。皇后は大和に戻ってほかの王らを討ち,応神天皇を皇太子に立てて,約 70年間皇太子の摂政としてみずから政治をとったといわれる。また『日本書紀』は皇后を暗に『魏志倭人伝』にみえる女王卑弥呼に擬している。陵墓は奈良県奈良市の狭城盾列池上陵(さきのたたなみのいけのへのみささぎ)。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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朝日新聞掲載「キーワード」

神功皇后
古事記によると、夫の仲哀(ちゅうあい)天皇は「西に金銀財宝に満ちた国があり、その国を帰順させよう」と神託を受けたが、偽りを言う神だと思い信じなかった。そのため神の怒りに触れて亡くなった。その後、神功皇后は新たな神託を受け、身重の体で軍を整えた。を並べて海を渡ると、魚は舟を背負って進み、追い風が舟を進め、新羅の国までたどり着いた。新羅の国王は恐れおののき、降伏して朝貢することを誓い、百済も従ったとされる。
(2012-05-01 朝日新聞 朝刊 奈良1 1地方)

出典:朝日新聞掲載「キーワード」

デジタル大辞泉

じんぐう‐こうごう〔‐クワウゴウ〕【神功皇后】
記紀に伝えられる仲哀天皇の皇后。名は気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)。仲哀天皇の没後、懐妊のまま朝鮮半島に遠征し、帰国後に応神天皇を出産したといわれる。

出典:小学館
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

神功皇后 じんぐうこうごう
記・紀にみえる仲哀天皇の皇后。
父は気長宿禰(おきながのすくね)王。「日本書紀」によれば,仲哀天皇8年天皇の熊襲(くまそ)征討にしたがい筑紫(つくし)におもむいたが,天皇が急死。翌年みずから兵をひきいて新羅(しらぎ)を征し,百済(くだら),高句麗(こうくり)を帰服させた。帰国後,応神天皇を出産。国政を69年間とり,100歳で没したという。名は気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)。

出典:講談社
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防府市歴史用語集

神功皇后
 『日本書紀[にほんしょき]』に出てくる仲哀[ちゅうあい]天皇の妻で、神のおつげに背いて亡くなった仲哀天皇の後をついで熊襲[くまそ]を征伐しました。さらに新羅[しらぎ]征伐も行い、朝鮮半島を従わせたと書かれています。

出典:ほうふWeb歴史館
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世界大百科事典 第2版

じんぐうこうごう【神功皇后】
仲哀天皇の妃で記紀の新羅遠征説話の主人公,また応神天皇の母とされる。別名,気長足姫(おきながたらしひめ)尊(記では息長帯比売命)。
[神功皇后伝説の大要]
 熊襲(くまそ)を撃つため筑紫に赴いた仲哀天皇は,海のかなたの宝の国を授けようという神託を得る。この神言は武内宿禰(たけうちのすくね)が請い,神がかりした神功皇后を通じて告げられた。その宝の国とは先進文明に輝く朝鮮半島諸国のことであったが,これを信じなかった仲哀天皇は急死する。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

じんぐうこうごう【神功皇后】
記紀所伝の仲哀天皇の皇后。気長足姫(息長帯比売)おきながたらしひめの漢風諡号しごう。天皇の死後、新羅しらぎに出陣、凱旋がいせんののち筑紫の地で応神天皇を出産、69年間摂政をつとめたという。「播磨風土記」などでは大帯姫おおたらしひめとも。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

神功皇后
じんぐうこうごう
記紀や『風土記(ふどき)』などにみえる伝承上の人物。『日本書紀』によると、仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后で、名を気長足姫尊(息長足姫命)(おきながたらしひめのみこと)という。父は開化(かいか)天皇の曽孫(そうそん)、気長宿禰王(おきながのすくねのおおきみ)、母は葛城高(かずらきのたかぬかひめ)。『古事記』では、父は開化天皇の玄孫で、母は新羅(しらぎ)国の王子天之日矛(あめのひぼこ)の5世の孫にあたるという。仲哀天皇が熊襲(くまそ)を討つため筑紫(つくし)の橿日宮(かしひのみや)(香椎宮(かしいぐう)。福岡市東区香椎町に所在)にきたとき、天照大神(あまてらすおおみかみ)と住吉(すみよし)三神が皇后にのりうつって託宣を下したが、仲哀はこれを信じなかったために急死した。そこで神功は、臨月であったにもかかわらず新羅を討ち、帰国後、筑紫の宇美(うみ)で後の応神(おうじん)天皇を出産。さらに大和(やまと)に帰還して(かごさか)・忍熊(おしくま)2王の反乱を鎮定し、応神が即位するまで69年間も政治をとっていたという。『書紀』にはさらに多くの日朝関係記事が記され、なかには干支(かんし)二運(120年)を下げれば史実と考えられるものもある。また4か所にわたって『魏志(ぎし)』や『晋書(しんじょ)起居注』が引用され、編者が神功を倭(わ)の女王(卑弥呼(ひみこ))に比定していたことは疑いない。
 この伝説は、古くから朝廷に伝えられていた朝鮮半島侵略の物語に、各地で語られていた母子神信仰に基づく民間伝承的なオホタラシヒメの伝承や、京都府綴喜(つづき)郡に居住した古代豪族息長(おきなが)氏の伝承などが加わり、さらに7~8世紀に古代天皇制の思想によって潤色を受け、最終的に記紀に定着したと考えられる。[塚口義信]
『塚口義信著『神功皇后伝説の研究』(1980・創元社)』

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精選版 日本国語大辞典

じんぐう‐こうごう ‥クヮウゴウ【神功皇后】
記紀の仲哀皇后、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)に対する漢風諡号。仲哀天皇西征に同行、神罰によって天皇が陣没した後、神託を得て新羅を討ったという。応神天皇の母。

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歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典

神功皇后
じんぐうこうごう
歌舞伎・浄瑠璃の外題。
初演
元禄8.1(大坂・嵐三右衛門座)

出典:日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」
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