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祇園南海【ぎおんなんかい】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

祇園南海
ぎおんなんかい
[生]延宝5(1677).江戸
[没]寛延4(1751).9.8. 紀伊
江戸時代中期の画家。名は瑜 (ゆ) ,字は伯玉,号は南海,蓬莱など。祇南海ともいう。紀州藩医祇園順庵の長子。木下順庵門人で特に詩文にすぐれる。元禄 10 (1697) 年父の跡目を継ぎ,儒官として 200石の知行を受けたが,同 13年不行跡により謫居を命じられる。宝永8 (1711) 年儒官に再任され,のち藩校開設にも参加。『八種画譜』『芥子園画伝』などを通じて,中国明,清の絵画を慕い,日本の南画先駆者となる。池大雅らに影響を与えた。『詩学逢源』など著書も多い。主要作品『山水図』 (東京国立博物館) ,『模唐六如山水図』『墨梅図』。

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デジタル大辞泉

ぎおん‐なんかい〔ギヲン‐〕【祇園南海】
[1677~1751]江戸中期の漢詩人・文人画家。紀伊の人。名は瑜(ゆ)・正卿(せいけい)。字(あざな)は伯玉。木下順庵の門下。紀伊藩の儒官。中国、元・明の文人画風を学び、日本文人画の開拓者とされる。著「詩学逢原」「南海詩訣」など。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

祇園南海 ぎおん-なんかい
1676-1751 江戸時代前期-中期の漢詩人,画家。
延宝4年生まれ。祇園尚濂(しょうれん)の父。木下順庵に師事。22歳で紀伊(きい)和歌山藩儒官となるが,放蕩(ほうとう)無頼のため10年間城下追放。のち朝鮮通信使接待役,藩校講釈場の主長となる。文人画の先駆者のひとり。寛延4年9月8日死去。76歳。名は瑜。字(あざな)は伯玉。通称は余一。著作に「南海先生集」「詩学逢原(ほうげん)」など。
【格言など】畢竟(ひっきょう)詩は人情の声なれば,天誠自然の真情をうつしたる所を詩とす(「詩学逢原」)

出典:講談社
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世界大百科事典 第2版

ぎおんなんかい【祇園南海】
1676か77‐1751(延宝4か5‐宝暦1)
江戸時代の文人画家。日本における文人画の祖といわれる。紀州藩の藩医祇園順庵の長子として江戸に生まれる。名は瑜,字は伯玉。南海は号。湘雲,信天翁などの別号がある。1689年(元禄2)14歳で初めて木下順庵に謁した際,七言律詩を賦して木門諸子を驚かす。また藩主に詩を献じて褒美を拝領するなど年少のころから詩文に豊かな才能を示し木下門下の逸材といわれた。97年22歳で藩の儒官となるが,3年後,不行跡によって知行を召し上げられ,城下を追われて片田舎に謫居(たつきよ)を命ぜられる。

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大辞林 第三版

ぎおんなんかい【祇園南海】
1677~1751) 江戸中期の漢詩人・南画家。紀伊の人。名は瑜、字あざなは伯玉。木下順庵に師事。紀伊藩の儒官。詩文に長じ、また、日本南画の先駆者とされる。著「詩学逢原」「南海詩訣」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

祇園南海
ぎおんなんかい
(1677―1751)
江戸中期の漢詩人、文人画家。名は瑜。字(あざな)は伯玉。紀伊国(和歌山県)の人。紀州藩医の子に生まれ、木下順庵(じゅんあん)に学んだ。新井白石(はくせき)、室鳩巣(むろきゅうそう)らと同門である。早くから詩才を現し、18歳のとき2回にわたって一夜に100首の詩を詠じた。22歳で藩の儒官に登用されたが、放蕩無頼(ほうとうぶらい)のゆえをもって、25歳から35歳まで和歌山城下を追放されたことがある。詩風は雅趣雅言を重んじて塵俗(じんぞく)の気を排する。絵もよくしてわが国文人画の先駆者の一人となり、芸術、趣味に個性を生かした生涯は、服部南郭(はっとりなんかく)、柳沢淇園(きえん)らと並んで文人的生活態度の確立者と評される。著書に、前述の一夜百詠の詩を収めた『南海先生詩稿』、詩文集『南海先生集』、詩論『詩学逢原(ほうげん)』などがある。[日野龍夫]
『中村幸彦校注『日本古典文学大系94 近世文学論集』(1966・岩波書店)』

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精選版 日本国語大辞典

ぎおん‐なんかい【祇園南海】
江戸中期の朱子学者、漢詩人、南画家。名は瑜、俗称与一郎、字は伯玉。別号鉄冠道人など。紀州藩医師祇園順庵の子。木下順庵に学び、紀伊藩の儒官となったが、不行跡の故に城下を追放され、那賀郡長原村に一〇年間謫居(たっきょ)した。儒官復帰後は藩校を開設して学事を司った。詩文にすぐれ、また文人画を好み、日本南画の先駆者とされる。著「詩学逢原」「南海先生集」など。延宝五~寛延四年(一六七七‐一七五一

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