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百年戦争【ひゃくねんせんそう】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

百年戦争
ひゃくねんせんそう
Hundred Years' War
1337~1453年フランスを戦場に,イングランド,フランスの間で断続的に行われた戦争。戦争が長期にわたった原因は,イングランド王がフランス国内に領土を有し,フランスの王位継承権を争ったことにある。イングランドのウィリアム1世によるノルマン・コンクェスト以来,イングランド王が同時にフランス王の封臣として大陸に封土を有したことにより,以前から両国はこの問題で確執を繰返していた。さらに中世最大の毛織物生産地であるフランドルをめぐる両国の対立,またワインの特産地で当時イングランド領であったガスコーニュ地方の領有問題がからんでいた。カペー家のフランス王シャルル4世が嗣子を残さず没すると,イングランド王エドワード3世はその母がフランスのカペー家の出身であることを理由に王位を要求,フランスの貴族はエドワードの王位請求を退け,シャルルの従兄バロア伯をフィリップ6世として王位につけ,これにより両者の間に対立が生じた。戦争は両国の国内問題ともからみ合って,戦争と和平とをたびたび繰返しつつ継続した。戦争の第1期 (1337~60) は,エドワード (黒太子) の活躍により,クレシーの戦いポアティエの戦いでイングランド側がフランス騎士軍を破り,1360年カレー講和が成立した。第2期 (69~80) は,フランスが一時戦勢を回復,75年和約が成立した。その後散発的な戦闘が行われたが,96年にイングランド王リチャード2世とフランス王シャルル6世との間で 28年間の休戦協定が結ばれた。第3期 (1413~28) は,フランス王シャルル7世がオルレアンに包囲され,ジャンヌ・ダルクによって危機を救われ,以後フランスが優勢のうちに戦争は終結に向った。その結果,イングランドの勢力は大陸から一掃され,両国とも封建諸侯,騎士の力が衰え,中産市民層の台頭,王権の拡大を招くにいたった。

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デジタル大辞泉

ひゃくねん‐せんそう〔‐センサウ〕【百年戦争】
1337年~1453年、イギリスとフランスとの間で断続的に行われた戦争。フランス内にあるイギリス領土およびフランドル地方の領有に関する対立と、フランス王位継承をめぐって開戦。初めはイギリスが優勢であったが、ジャンヌ=ダルクオルレアン解放後はフランスが反攻に転じ、イギリスはカレーを除くすべての大陸領土を失って講和した。

出典:小学館
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とっさの日本語便利帳

百年戦争
カペー王朝の王位継承権を巡って、英仏間で繰り広げられた戦争(一三三七~一四五三)。仏西南部を足掛かりに勢力を拡張したいイギリスと、国内の英領を一掃したいフランスの利害正面からぶつかり合った。ジャンヌダルクの出現によりフランスが優位になり、カレーを除く全フランスからイギリスが撤退して終結。

出典:(株)朝日新聞出版発行「とっさの日本語便利帳」

世界大百科事典 第2版

ひゃくねんせんそう【百年戦争 Hundred Years’ War】
14世紀中ごろからほぼ1世紀間,イギリス王家とフランス王家の対立を軸に展開したヨーロッパ諸勢力の対立抗争をいう。ドイツおよびネーデルラントの諸邦,フランドル諸都市,ブルターニュ公家,とりわけ後半におけるブルゴーニュ公家の動向が注目される。1360年のブレティニー・カレー条約までを第1期,1415年のアザンクールの戦,もしくは1420年のトロアの和約の前と後を第2期,第3期に分けることができる(図)。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

ひゃくねんせんそう【百年戦争】
フランスの王位継承問題、羊毛工業地帯フランドルの主導権争いなどが原因となり、1337~1453年の間、断続的に戦われた英仏間の戦争。前半、英国が優勢だったが、ジャンヌ=ダルクのオルレアン解放などにより形勢は逆転し、カレーを除く全フランスから英軍が撤退して終結。

出典:三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)

百年戦争
ひゃくねんせんそう
Hundred Years' War英語
guerre de Cent Ansフランス語
14世紀中ごろから約1世紀間、イギリス王家とフランス王家の対立を軸に展開したヨーロッパ諸勢力の対立抗争状態をいう。諸勢力はまだ「国家」といえるほどの集権体制をみせておらず、ドイツおよびネーデルラント諸邦、フランドル諸都市、ブルターニュ公家、スコットランド王家など、とりわけブルゴーニュ公家の動向が問題となる。百年戦争は、1360年のブレティニー・カレー条約の締結までを第一期、1415年のアザンクールの戦い、もしくは1420年のトロア条約の前と後を、第二期、第三期に分けることができる。[堀越孝一]

第一期


開戦
1330年代、英仏両王家はスコットランド王家との関係において外交戦にしのぎを削っていた。王政府をイングランド北部に移してまでスコットランドに対する締め付けを図るイギリス王家に対して、フランス王家はスコットランドの立場を支持し、イギリス王家の大陸所領アキテーヌ(ギエンヌ)の境界に兵力を展開し、ノルマンディー諸港に船団を集結せしめて対抗する。アキテーヌ領は13世紀初頭、アンジュー・プランタジネット王家の支配地が解体したのち、同王家、すなわちイギリス王家の当主がフランス王の封臣として保有する領土であった。フランス王フィリップ6世(在位1328~50)がイギリス王エドワード3世(在位1327~77)に対し、フィリップ即位時、1328年にエドワードがたてた臣従礼の不備を言い立て、1337年春、アキテーヌ領の没収を宣言したのも、この国際戦略の一環としてであった。これに対し、同年秋、エドワードは「バロア家のフィリップ、自称フランス王」あて挑戦状をパリに届け、王政府をロンドンに戻して、対仏戦略に本腰を入れる姿勢をみせた。普通にいわれる百年戦争の開始である。
 しかし、エドワードはまだこの時点では「フランス王」を称していなかった。バロア家のフィリップのフランス王即位は不法であり、イギリス王エドワードこそ血統権に基づく適法のフランス王位継承者であるとうたい、これを対仏戦争の大義名分とするのがエドワードとイギリス議会の方針であったと理解すれば、1340年2月6日、ガン(ヘント)で開かれていたフランドル等族会議の席上、自ら「フランス王」を名のり、同月付けの一連の文書に「神の恩寵(おんちょう)によりフランスとイギリスの王エドワード」と頭書した時点をもって、百年戦争の開始とみるのが適当であろう。なお、1339年のフランドル、北フランスにおける軍事的衝突を開戦とする説もある。[堀越孝一]
ブレティニー・カレー条約まで
1337年から39年にかけて、エドワードは、ドイツ皇帝、ラインおよびネーデルラント諸侯と折衝を重ねて、「皇帝代官」の地位と攻守同盟の約束を取り付けた。しかし、彼の同盟工作の眼目はフランドルにあった。1338年以降、ガンの毛織物業・醸造業者アルテフェルデの指導権がフランドル諸都市に確立されていた。フランドル伯はすでにパリに逃げていた。イングランドの羊毛生産はフランドルを最大の輸出市場としており、羊毛輸出関税は、議会の課税承認権に縛られないイギリス王家最大の収入源であった。エドワードはこれを外交の武器に使い、フランドル諸都市との攻守同盟を固め、フランドルに対する宗主権を認知せしめてガンに進駐、「フランス王」を名のった。
 こうしてイギリス、ネーデルラント、フランドル、ライン諸侯を結ぶ北方の環状同盟が「自称フランス王」フィリップと対峙(たいじ)する。フィリップ側はジェノバ、カスティーリャの助力を得て、この同盟の環を切断しようと図る。百年戦争最初の戦闘は1340年6月ブリュージュの海への出口にあたる海港スロイスのフランス船団による封鎖と、イギリス・フランドル連合船団によるその排除である。この海戦の結果フランス王家は英仏海峡の制海権を失った。
 以後、エドワードが情勢を先導し、翌年発生したブルターニュ公家相続争いに介入して、ブルターニュに兵力を展開する。1343年から翌年にかけて、アキテーヌでフランス王軍と対決する。1346年にはエドワード自身兵を率いてノルマンディーに入り、クレシーの戦いを経て、カレー地区をイギリス領に確定する。エドワードの戦略は、あたかもアンジュー・プランタジネット王家の旧大陸領土全域の回復をねらうかのようであって、1356年ポアチエの戦いを経て、1359年、再度来攻したエドワードが、翌60年シャルトル近郊ブレティニーにおいてフランス王家代表団と協議し、のちカレーにおいて、ポアチエの戦いで捕虜になっていたフランス王ジャン2世(在位1350~64)の署名を得て発効した休戦条約に、そのねらいが明示された。ブレティニー・カレー条約は、ポアトゥーを筆頭に旧アンジュー王領のイギリス王家への帰属を規定したうえで、第12条において、フランス王はそれら諸領に対する宗主権を行使しないこと、イギリス王は「とりわけてフランス王冠と王国の名と権利に対する請求権」を放棄すべきことを規定している。エドワードは、旧アンジュー王領の回復と引き換えにフランス王位請求権を放棄したのである。[堀越孝一]

第二期


長い休戦
ブレティニー・カレー条約以後、1370、80年代、数次にわたる戦争状態はあったものの、1415年までほぼ半世紀にわたって英仏両王家は休戦した。旧アンジュー王領の回復は結局ならず、その心臓部にあたるアンジューには、バロア家系アンジュー公領が置かれ、ブレティニー・カレー条約締結を指導したフランス王名代シャルル(後のシャルル5世)、さらに1364年以降はシャルル5世の弟ルイの所領となった。ブルターニュには親仏的な公家の家系が確立した。他方、ブルゴーニュ公領を与えられたシャルル5世の末弟フィリップ(1世)が1384年以降、その妻の権利を享受してフランドルを領有した。
 1380年シャルル5世が死去したのち、シャルル6世(在位1380~1422)の代、フランスは王族諸侯による王政後見の時代に入る。1404年、国王顧問会議の筆頭ブルゴーニュ公フィリップの死後、その息ジャンと王弟オルレアン公ルイの確執が表面化し、いわゆるブルゴーニュ派対アルマニャック派対立の局面を迎えるが、シャルル5世の確定した王政の方式は、その基本の構造を崩されることなく維持された。
 国際関係において注目すべきはブルゴーニュ公家の立場である。フランドルを家領とした公家は対英和親策をとった。イギリス王家側では、プランタジネット朝最後の王リチャード2世(在位1377~99)が対仏和親の方向を模索した。フランス王女イザベルを妻としたのもその表れであり、これを斡旋(あっせん)したのがほかならぬブルゴーニュ公フィリップであった。結局、この強引な対仏融和策が反対党派の結成を促し、1399年リチャード2世は廃位された。[堀越孝一]

第三期


フランス戦争の開始
1415年初頭、イギリス王ヘンリー5世(在位1413~22)はフランス王シャルル6世に対しノルマンディー要求の最後通牒(つうちょう)を突きつけた。内戦にまで発展したアルマニャック、ブルゴーニュ両派対立につけ入っての策動である。アザンクールの戦いは、ブルゴーニュ派を排除したアルマニャック派王軍の大敗に終わり、イギリス軍はノルマンディーを占領した。1419年ブルゴーニュ公ジャンが謀殺され、新公フィリップ2世はイギリス王家との同盟策に踏み切り、1420年、英仏両王家の和親を斡旋し、トロア条約が締結された。1422年、シャルル6世、ヘンリー5世ともに死去し、ヘンリー5世とフランス王女カトリーヌの子、当年当歳のヘンリー6世が「イギリスとフランスの王」ということになった。英仏連合王家の成立である。[堀越孝一]
ブルゴーニュ公の動向
もとよりアルマニャック派はこれを認めない。彼らは、トロア条約において廃嫡されたシャルル6世の末男シャルル(後のシャルル7世)を擁してロアール河畔(かはん)に下り、ブールジュに臨時政府を置く。ブルゴーニュ公家の動向こそは見ものであった。ブルゴーニュ公フィリップ2世は、この前後すでにシャルルを「王」とよびながら、イギリス王家との同盟関係を清算せず、関心をもっぱらネーデルラントに向けた。1428年の時点で、ホーラントほか三伯領に対するブルゴーニュ公家の支配権が事実上確定していた。公家はフランス王国から離脱し、ネーデルラント方面に家勢を伸張しようとする。したがって1420年代、ノルマンディーからパリにかけて支配する英仏連合王家、ロアール河畔のバロア亡命政権、そしてネーデルラントへの進出を図るブルゴーニュ公権と、三つの政権が三すくみの状態にあった。1429年のオルレアンの攻防戦は、このような状況下に現象したのである。
 ジャンヌ・ダルクの登場は確かにバロア亡命政権の立場の宣伝に役だった。しかし、ジャンヌ・ダルクを含む若手の将官団の主張した中央突破作戦、すなわちノルマンディー進撃策をシャルルはとらず、ブルゴーニュ公家との和解が先決とみた。[堀越孝一]
アラスの和約
1435年夏、英仏両王家、ブルゴーニュ公家は、アルトアの首都アラスにヨーロッパ諸勢力の代表を集め、ここにアラスの和約が成立した。フィリップは三者対等の和議を望んだが、シャルルがそれを阻止した。会議の成果はバロア、ブルゴーニュ両家の和解にとどまった。ブルゴーニュ家がバロア、ランカスター両王家と対等の和議を結ぶべきではない。公家はバロア王家の一封臣である。この大原則を保守するためならばと、シャルルはフィリップに一代限りの臣従礼の免除を行った。[堀越孝一]
戦争の終結
ブルゴーニュ問題はなお残る。しかし対英戦略において、もはや公家は阻害因とはなりえない。1437年、王都パリを奪回したシャルル7世は、ノルマンディーとアキテーヌのイギリス軍との戦いを有利に進め、1453年10月、アキテーヌの首都ボルドーでの戦闘を最後に作戦を終了し、百年戦争は終わった。[堀越孝一]
『堀越孝一著『ジャンヌ・ダルク――百年戦争のうずの中に』(1975・清水書院) ▽堀越孝一著『14.15世紀の西ヨーロッパ諸国 フランス』(『岩波講座 世界歴史 第11巻』所収・1970・岩波書店) ▽堀米庸三著『西洋中世世界の崩壊』(1958・岩波書店)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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精選版 日本国語大辞典

ひゃくねん‐せんそう ‥センサウ【百年戦争】
中世末期のフランスとイギリスの戦争(一三三七‐一四五三)。フランス内のイギリス領をめぐる紛争、毛織物商工業地帯フランドルをめぐる対立に加え、フランスの王位継承をめぐって開戦。はじめはイギリス軍が優勢を続けたが、ジャンヌ=ダルクの出現後戦局は一変し、フランスはカレーを除く全土を回復してイギリスと講和を結んだ。戦後北フランスの農村は荒廃し、両国で封建貴族の力が衰え、王権が伸長した。

出典:精選版 日本国語大辞典
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旺文社世界史事典 三訂版

百年戦争
ひゃくねんせんそう
Hundred Years' War
1337年から1453年までの長期にわたり,フランス国内のイギリス領の帰属とフランドル羊毛工業地帯をめぐってイギリス・フランス間に行われた戦争
カペー朝の断絶後,ヴァロワ朝を樹立したフィリップ6世に対し,イギリス王エドワード3世(仏王フィリップ4世の孫)がフランス王位の相続権を主張して侵入したのに始まる。イギリス軍はエドワード黒太子らの活躍でクレシーの戦い,ポワティエの戦いで大勝し,さらにフランス国内が黒死病の流行やジャックリー(の乱)で混乱したのに乗じてブレティニーの和を結んだ。その後もフランスでは親英的なブルゴーニュ派と王室派のアルマニャック派との対立などがあり,アジャンクールの戦いで大敗した。1429年,ジャンヌ=ダルクがオルレアンを解放すると攻勢に転じ,シャルル7世はカレーを除く全土を回復。戦後,イギリス・フランス両国ともに国内封建諸侯の勢力が衰退し,国王による中央集権国家の成立が促進された。

出典:旺文社世界史事典 三訂版
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