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玄奘【げんじょう】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

玄奘
げんじょう
Xuan-zang
[生]仁寿2 (602)頃
[没]麟徳1 (664)
中国,唐の僧,訳経家。法相宗の開祖。三蔵法師として知られる。姓は陳。名は褘(い)。陳留(河南省)の人。原典によって経典を研究しようと,貞観3(629)年インドに向かい,戒賢論師に唯識説を学び,サンスクリット仏典を研究したのち諸方を歴訪して同 19年仏舎利,仏像,多くの教典を持って長安に帰着。勅令により弘福寺,慈恩寺,玉華宮において諸経論約 75部 1335巻を訳出。また『西遊記』の題材になったといわれるインド紀行『大唐西域記』により西域の事情を紹介した。経典翻訳は,新しい訳語を用い,旧文体を一新し,サンスクリット原文に忠実であったので,新訳と称され,中国や日本の仏教教理の本となった。

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朝日新聞掲載「キーワード」

玄奘
600(602年説も)〜664年。中国から中央アジアを経由してインドへ赴き、ナーランダー僧院に学ぶ。帰国後、仏典を翻訳し、法相宗を伝える。「大唐西域記」は弟子がまとめた玄奘の旅行記。西域やインドの地理、風俗、政治、経済など幅広い内容で、「西遊記」の基になったとされる。
(2007-01-10 朝日新聞 朝刊 2外報)

出典:朝日新聞掲載「キーワード」

デジタル大辞泉

げんじょう〔ゲンジヤウ〕【玄奘】
[602~664]中国、唐代の僧。法相宗開祖。陳留(河南省)の人。仏教の真義を究めるため、627年(または629年)長安を出発、西域を経てインドに入り、那爛陀(ならんだ)寺の戒賢らに学び、インド各地の仏跡を訪ね、645年帰国。以後、原典から「大般若経」「瑜珈師地論」「倶舎論」などを翻訳、訳業は千巻に及ぶ。原典に忠実なその訳はそれまでの旧訳(くやく)に対して新訳といわれる。旅行記「大唐西域記」は当時の諸地方を知る上で重要な資料。玄奘三蔵。三蔵法師
[補説]後年、明代の長編小説「西遊記」の登場人物のモデルとなった。

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世界大百科事典 第2版

げんじょう【玄奘 Xuán zàng】
602‐664
中国,唐代初期の僧。西域,インドへの求法僧で,一般には三蔵法師として知られる。俗姓は陳氏。洛陽に近い陳留郡(河南省)緱氏県に生まれた。13歳のときに出家し,兄の長捷法師のいた洛陽の浄土寺に住んで経論を学んだ。まもなく隋・唐王朝交代期の混乱期にあい,618年,兄とともに長安に入ったが,兵乱のために学僧の多くが蜀(四川省)に逃れて仏法の講席ひとつさえなかったので,ついに蜀におもむき空慧寺に入った。622年(武徳5)に具足戒をうけ,まもなく成都から長江(揚子江)を下って荆州に出,相州,趙州をへて落着きを取り戻した国都の長安に舞い戻り,大覚寺に住んで道岳,法常,僧弁といった学僧から俱舎論や摂大乗論の教義を授けられた。

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大辞林 第三版

げんじょう【玄奘】
602~664) 中国、唐代初期の僧。経典漢訳者の代表的人物で、後世、法相・俱舎両宗の開祖とされる。629年長安を出発し、西域を経てインドに入り、戒賢について唯識の思想などを学ぶ。645年に仏舎利・仏像および経論を携えて帰国し、太宗の庇護のもとに「大般若経」「瑜珈師地論」などの仏典を漢訳。インド旅行記である「大唐西域記」は地誌的資料としても重要。のちにその旅を素材にして「西遊記」が作られた。玄奘三蔵。三蔵法師。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

玄奘
げんじょう
(602―664)
中国、唐代の仏教学者。大旅行家、大翻訳家として著名。法相(ほっそう)宗開創の祖。本名は(い)。俗姓は陳(ちん)氏。三蔵(さんぞう)法師の名で知られる。洛州(らくしゅう)(こうし)県(河南省陳留)の人。602年(仁寿2。ただし、このほかに600年説など諸説がある)、父慧(恵)(けい)の四男(末子)として誕生。幼にして敏、つねに古典に親しむ。11歳前後で父を失ったのち、すでに出家していた兄長捷(ちょうしょう)につき、洛陽(らくよう)の浄土寺に住する。614年(大業10)度僧の勅に応じ、人選の大理卿(たいりけい)鄭善果(ていぜんか)にその才を認められて出家。以後も浄土寺にとどまり、景(けい)法師や厳(ごん)法師より『涅槃経(ねはんぎょう)』や『摂大乗論(しょうだいじょうろん)』を学ぶ。618年(武徳1)兄に勧められ、洛陽から長安に移り、荘厳(しょうごん)寺に住したが、政変直後の長安仏教界に失望し、翌619年、兄とともに蜀(しょく)に向かい成都に至る。622年具足戒(ぐそくかい)を受けてのち、各地に高僧を訪ね、翌623年ふたたび長安に戻り、大覚寺に住して道岳(どうがく)法師より『倶舎論(くしゃろん)』を学ぶ。624年、法常(ほうじょう)(567―645)と僧弁(そうべん)(568―642)の『摂大乗論』の講筵(こうえん)に列し、両師から大いにその将来を嘱望されたが、このころより国内における仏教研究の限界に目覚め、諸種の疑点解明のためインド留学を決意し、その準備に専念する。国外出立の公式許可を得ることはできなかったが、627年(貞観1。一説に629年)秋8月、意を決してひそかに長安を出発。天山南麓(なんろく)を経由し、ヒンドゥー・クシ山脈を越えて、インド北辺から中インドに入り、630年ついにマガダ国のナーランダー僧院に至り、シーラバドラ(戒賢(かいけん))法師と対面(一説に634年)した。以後、法師について『瑜伽師地論(ゆがしじろん)』を中心に学ぶこと5年に及ぶ。635年いったん師のもとを去り、東インドから南インド、さらに西インドを経由してインド半島一巡の旅を終える。638年ナーランダー僧院に戻り、師と再会。その後は近辺の諸師について学んだが、とくにジャヤセーナ(勝軍(しょうぐん))居士(こじ)について2年ほど唯識(ゆいしき)の論典を中心に学んだことが注目される。640年、東インドのクマーラ王の招聘(しょうへい)を受け、彼の王宮に1か月ほど滞在、さらに中インドのシーラーディーティヤ(ハルシャバルダナ、戒日王(かいじつおう))に招かれる。翌641年プラヤーガでの75日の無遮大会(むしゃだいえ)に参列したのち、秋には帰国の途につき、645年(一説に643年)長安に帰った。
 仏像、仏舎利(ぶっしゃり)などのほか、彼が請来(しょうらい)したサンスクリット原典は、総計520夾(きょう)、657部と伝えられている。同年2月1日、高句麗(こうくり)遠征準備のため洛陽にあった太宗皇帝(李世民)に拝謁、3月に長安に戻り、弘福(ぐふく)寺に住して仏典の翻訳準備にかかる。同年5月2日『大菩薩蔵経(だいぼさつぞうきょう)』の翻訳に着手、以後、訳場を弘福寺、弘法(ぐほう)院、慈恩(じおん)寺、玉華(ぎょくか)寺に移しながらも、整備された訳経組織のもとに死の直前までつねに翻訳に従事した。訳出仏典総数は、『瑜伽師地論』『成唯識論(じょうゆいしきろん)』など瑜伽唯識の論典を中心に計75部1335巻に及び、この分量は中国歴代翻訳総数の4分の1弱に相当する。また質的な面でも、訳語の統一を図り、原文に忠実たらんとした跡がみられ、中国訳経史上に一時代を画したため、彼以降の訳を新訳(以前の訳を旧訳(くやく))とよぶ。なお、帰国直後、帝の求めに応じてまとめられたインド・西域に関する見聞録『大唐西域記(だいとうさいいきき)』は、7世紀前半の当該地方の地理、風俗、文化、宗教などを知るうえの貴重な史料として名高い。664年(麟徳1)2月5日、63歳(一説に65歳。ほか異説あり)で示寂。門下には、『成唯識論』を基本として事実上の法相宗初祖となった基(き)(窺基(きき))のほか幾多の俊才が輩出した。[袴谷憲昭]
『慧立本・彦箋・高田修訳注『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』(『国訳一切経 史伝部11』所収・1940・大東出版社) ▽前嶋信次著『玄奘三蔵――史実西遊記』(岩波新書) ▽桑山正進・袴谷憲昭著『人物中国の仏教 玄奘』(1981・大蔵出版)』

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精選版 日本国語大辞典

げんじょう ゲンジャウ【玄奘】
中国、唐初の僧。姓は陳。俗名は褘。仏教の疑義を解くため、六二九年(または六二七年)単身、長安を出発、苦難を克服し、西域諸国を経て、アフガニスタンからインドにはいる。ナーランダ(那爛陀)寺の戒賢などの高僧に学び、六四五年帰国。太宗の命により経典を訳出し、七五部一三〇〇余巻におよぶ。訳経史上それ以前を旧訳(くやく)、以後を新訳と称する。その盛名は一代を圧し、玄奘三蔵、または、訳経三蔵と呼ばれ、門下には窺基(きき)、玄応(げんのう)をはじめ多数を擁し、後世法相宗および倶舎宗の祖と称された。旅行記に「大唐西域記」がある。三蔵法師。(六〇〇または六〇二‐六六四

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