Rakuten infoseek

辞書

物部守屋【もののべのもりや】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

物部守屋
もののべのもりや
[生]?
[没]用明2(587).7. 河内
古代の豪族。物部尾輿の子。敏達1 (572) 年大連 (おおむらじ) となり,排仏派として,崇仏派の大臣蘇我馬子対立していた。同 14年諸国に疫病が流行すると,守屋は,この疫病の流行を馬子仏像を礼拝し寺塔を建立したためであるとして,寺塔を焼き,仏像を難波堀江に捨てた。用明天皇が危篤に陥り,群臣に崇仏の可否を問うと,守屋は排仏を説いたが,天皇が馬子の崇仏の説を採用したため,両者の対立はますます激しくなった。用明天皇が没すると,守屋は穴穂部皇子即位させようとしたが,皇子は馬子らのために殺され,さらに守屋も泊瀬部皇子 (のちの崇峻天皇) や聖徳太子らを味方に引入れた馬子に滅ぼされた。以後,物部氏は衰退に向い,守屋の所有にかかる奴婢や邸宅は,四天王寺などに施入されて,その奴婢,田荘となった。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

朝日新聞掲載「キーワード」

物部守屋
6世紀に大和朝廷勢力を誇った豪族物部氏の長。大陸文化の仏教の受け入れに反対し、崇仏派の蘇我馬子と対立した。587年に聖徳太子を擁した馬子との戦いに敗れ戦死。以来、仏教は日本に定着した。「大連」は大和朝廷の最高官。
(2012-09-19 朝日新聞 朝刊 山形全県 2地方)

出典:朝日新聞掲載「キーワード」

デジタル大辞泉

もののべ‐の‐もりや【物部守屋】
[?~587]敏達用明朝の大連(おおむらじ)尾輿の子。排仏を主張して蘇我馬子と対立。用明天皇の死後、穴穂部皇子(あなほべのみこ)を推したが、馬子らに攻められて敗死

出典:小学館
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:田中牧郎、曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル版 日本人名大辞典+Plus

物部守屋 もののべの-もりや
?-587 6世紀後半の豪族。
物部尾輿(おこし)の子。母が弓削(ゆげ)氏の出身のため,物部弓削守屋とも名のる。敏達(びだつ),用明朝の大連(おおむらじ)。仏教を排撃し,蘇我馬子(そがの-うまこ)と対立。用明天皇2年穴穂部(あなほべの)皇子の即位をはかったが,皇子が馬子に殺されたため孤立。同年7月諸皇子,豪族の軍に攻撃され,河内(かわち)(大阪府)渋川本拠で射殺された。

出典:講談社
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版

もののべのもりや【物部守屋】
?‐587(用明2)
飛鳥時代の大連(おおむらじ)。尾輿(おこし)の子,雄君の父。母が弓削氏のため物部弓削守屋ともいう。敏達・用明朝を通じ大連であった守屋は,大臣(おおおみ)蘇我馬子とことごとく対立した。仏教受容については父尾輿の場合と同様,中臣勝海(なかとみのかつみ)とともに,疫病流行は蘇我稲目の仏教尊信によるものとして,その大野丘北の寺の塔,仏殿,仏像を焼き,残りの仏像も難波の堀江に捨てたという話を伝える。また,敏達天皇の死後の殯宮(もがりのみや)では,馬子の姿を矢で射られたのようだとあざけり,馬子からはふるえる手脚に鈴をかけよとあざけられた,との話も伝えられている。

出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.

大辞林 第三版

もののべのもりや【物部守屋】
?~587 敏達・用明天皇の大連おおむらじ。尾輿の子。排仏を主張して蘇我馬子と対立、用明天皇死後穴穂部あなほべ皇子の即位を企てたが馬子らに殺された。

出典:三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)

物部守屋
もののべのもりや
(?―587)
敏達(びだつ)・用明(ようめい)朝の大連(おおむらじ)。尾輿(おこし)の子。母姓により弓削(ゆげ)守屋ともいった。敏達天皇元年(572)欽明(きんめい)朝に引き続いて大連となり、大臣(おおおみ)蘇我馬子(そがのうまこ)と対立した。同14年仏法の廃棄を奏請して許され、馬子の建てた寺と仏像を焼き、焼け残りの仏像を難波(なにわ)の堀江に投棄した。同年、天皇の崩後、殯宮(もがりのみや)に誄(しのびごと)したとき、馬子と互いに相手の姿を嘲笑(ちょうしょう)し、これより二人の間に怨恨(えんこん)を生じたというが、本末を顛倒(てんとう)した話であろう。用明即位後も大連となったが、やがて天皇の異母弟穴穂部(あなほべ)皇子と結び、その擁立を図った。その2年(587)用明が没すると穴穂部の即位を図ったが、まもなく皇子は馬子に殺されてしまった。ここにおいて守屋は馬子と雌雄を決することとなったが、皇族・豪族の大半を味方にした馬子に河内渋河(かわちしぶかわ)(大阪府八尾(やお)市)の本拠を攻められ、ついに射殺された。乱後、彼の奴のなかばと宅地とを分けて四天王寺に施入した。馬子の妻は守屋の妹で、時人は、馬子が妄(みだ)りに妻の計により守屋を殺したと評した。[黛 弘道]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

精選版 日本国語大辞典

もののべ‐の‐もりや【物部守屋】
古代の豪族。敏達・用明朝の大連(おおむらじ)。尾輿の子。父とともに排仏を主張して蘇我氏と対立し、用明天皇死後、穴穂部皇子を推したが、蘇我馬子らに攻められ敗死した。五八七年没。

出典:精選版 日本国語大辞典
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

物部守屋」の用語解説はコトバンクが提供しています。

物部守屋の関連情報

関連キーワード

用明天皇捕鳥部万用明天皇中臣勝海穴穂部皇子崇峻天皇用明天皇崇峻天皇用明天皇オバデヤ書

他サービスで検索

(C)The Asahi Shimbun Company /VOYAGE MARKETING, Inc. All rights reserved.
No reproduction or republication without written permission.