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漢文【かんぶん】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

漢文
かんぶん
古代の民族において発達し,現代まで伝承されている漢字による文字言語およびそれで書かれた言語作品。漢文は朝鮮,日本,安南にまで広まり,使用され,言語作品が作成された。日本には,古く大陸からの渡来者がもたらしたが,次第にその外国語である中国語に返り点,送りがなをつけ,日本語文語文に翻訳しながら読む訓読法が発達し,固定化するようになった。外国の文字言語を自国の文字言語として機能させる際の,一つの独特のやり方である。平安時代前期には各人が独自の訓法で読んでいたのが,後期から宗派別に固定しはじめ,以後代々読み伝えられるようになったことが,返り点,ヲコト点などの訓点をつけた点本の調査により明らかになってきた。「当」を再読文字として「マサニ…ベシ」と読む方式なども,平安後期から現れたものの一つである。また「アニ」「ハナハダ」など,平安以降の和語文脈には現れない訓読語特有の語彙語法は,古語のそれを伝えるもので,漢文こそ正式の文章であり,漢文を解することが教養の印とされた社会風潮に支えられ,のちの日本語の文体に大きな影響を与えた。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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デジタル大辞泉

かん‐ぶん【漢文】
中国古来の文語体の文章を日本でいう称。
日本人が1に倣って書いた文章。
中国の漢の時代の文章。

出典:小学館
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世界大百科事典 第2版

かんぶん【漢文】
ここに漢文というときの〈漢〉とは漢王朝のことであり,したがって,本来は漢の文字(漢字)で書かれた文章という意味である。だが,日本において〈漢〉とは中国というのとほぼ同義に用い,漢文とは広く〈漢字で書いた文章〉という意味で理解されている。周知のごとく,日本では日本語を書き表す独自の文字は生みだされなかった。そこで,古代から,日本語とは言語体系を異にする中国語(中国語は単音節語でありしかも孤立語であるが,日本語は多音節語であり膠着(こうちやく)語である)を書き表す漢字を利用し日本語を書き表そうとしてきた。

出典:株式会社平凡社
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日本大百科全書(ニッポニカ)

漢文
かんぶん

文章の一つ。漢字のみでつづった文章、すなわち中国の文章をいう。ただし日本では古来固有の文字をもたなかったので、中国の文字を借りて自分の言語を表現したが、日本語は中国語と言語体系を異にするので、中国と異なる漢字の使用法が生まれた。日本語を表記するために漢字音を用いた上代の万葉仮名の文章や、中国と異なる漢字の意義用法に従ってつづった後世の変体漢文や候文などは、通常漢文のなかには含まない。

[大曽根章介]

古代・中世の漢文

わが国は古代から中国の制度文物を輸入して自国の文化の発展に努力してきたので、漢文の理解だけでなくその作成が要求され、中国文化への崇拝の念が漢文に対する尊敬となり、長い間正式の文章を漢文で書くことが天下を支配した。古代では漢字の使用が史官の記録に限られ、彼らは中国・朝鮮からの渡来人が中心をなしていたと思われる。現存最古の文章は推古(すいこ)天皇時代のもので、聖徳太子の『十七条憲法』や「伊予温泉碑文」などには古文ながら文章の修飾への留意がみられる。大化改新後しだいに制度も整備し多くの漢籍が将来され、奈良時代には六朝(りくちょう)から初唐にかけて流行した駢儷(べんれい)文が大きな影響を与えた。漢文の代表である「令(りょう)」と『日本書紀』を中心に、詔勅、詩序、伝、賦など種々の文体(文章の種類)が出現した。そしてこの時代に漢字を和訓によって読み、漢文を日本語の語順に従って読み連ねる訓読が行われるようになり、以後長い間継承されていく。平安時代になると駢儷文は頂点に達し、華麗な表現を尊ぶ美文意識が文壇を席捲(せっけん)した。当時の文章は文体によって一定の形式があり、どの作品も内容が大同小異であるので、人々は対句の巧拙によって作品を評価した。このような風潮から『和漢朗詠集』をはじめとする秀句選が生まれ、『本朝文粋(もんずい)』のような名文の編纂(へんさん)が行われた。一方、中国の詩文論を集めた空海の『文鏡秘府論(ぶんきょうひふろん)』を継いで、『作文大体(さくもんだいたい)』などの文章作法書に対句の種類や句型が論じられた。平安後期から鎌倉時代にかけて僧侶(そうりょ)の手で表白、願文(がんもん)の類纂が行われたが、その文章は和習(日本的な習癖)の強い駢儷体で終始している。また『王沢不渇鈔(おうたくふかつしょう)』や『文筆問答鈔(ぶんぴつもんどうしょう)』のような作文指南書や『文鳳抄(ぶんぽうしょう)』のような詞句熟語集が出現した。

 鎌倉末期から室町時代になると文化の中心が貴族から禅林に移行し、文章の世界においては中唐におこった古文復興運動が将来され、駢儷文が否定されて散文の文章が書かれた。しかし禅林の公的文章には四六文が必要であり、元(げん)の笑隠大訢(しょういんたいき)の『蒲室集(ほしつしゅう)』がもたらされてからは、それを手本にして名文家が輩出し、また四六文の作法書が書かれ、『蒲室集』の講義が行われた。ただ禅林の四六文は公的な文章に限定され、規則が厳格で声律が重視されるなど、従来の駢儷文とはまったく異なる。

[大曽根章介]

近世の漢文

江戸時代になると、朱子学の隆盛と相まって文章は道徳に従属するという文章観が信奉され、先秦(せんしん)の古文が師とされた。中国の文章論に基づく藤原惺窩(ふじわらせいか)の『文章達徳綱領(ぶんしょうたっとくこうりょう)』以下多くの文法書が出現したが、これらは文章の体段と種類についての論で、当時流布した『古文真宝』の講説鈔解(しょうかい)や『文章弁体』『文体明弁(めいべん)』の影響によるものと思われる。ただ江戸初期の儒者の文章は和臭(日本的な特殊な傾向)を免れず、欠点が多かった。荻生徂徠(おぎゅうそらい)は従来の和訓顛倒(てんとう)の読み方を拒絶し、中国語の履修を説くとともに古文辞学を提唱して、宋(そう)以後の文章を廃した。彼は文章の修辞を尊び、和臭を避けるために古典の辞句の模擬転用を説き、自ら実践した。この説は一世を風靡(ふうび)したが、模擬剽窃(ひょうせつ)が大きな弊害を生んだため、多くの学者によって攻撃された。山本北山(やまもとほくざん)、中井竹山(なかいちくざん)、皆川淇園(みながわきえん)らは徂徠の説を否定し、漢文の熟読と覆文(漢人の文章を国字に直しふたたび原文に復すること)の訓練によって中国人の文章に近づくことを説いた。しかし新しい文章論は樹立されず、ふたたび道徳的文章観が学界を支配した。ただ作文に気魄(きはく)の尊重と人格の陶冶(とうや)が尊重され、個性の発揮が強調された。そのため和臭が除去されて、斎藤拙堂(せつどう)、頼山陽(らいさんよう)などの名文家が輩出し漢文の全盛時代を迎えた。だが明治維新により西欧文化が浸透するにつれて、漢文はしだいに衰退滅亡していった。

[大曽根章介]

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精選版 日本国語大辞典

かん‐ぶん【漢文】
〘名〙
① 中国、漢時代の文章および文学。
② 中国で書かれた、漢字による文章。特に、現代中国語に対して、古い中国の文章や文学。また、これにならった日本の文章や文学をもいう。もろこしぶみ。からぶみ。
※本朝麗藻(1010か)下・戸部尚書重賦丹字見贈妙詞吟咏反覆欲罷不能憗課庸駑以尽余意〈具平親王〉「憶古見今猶悵望。漢文徃昔示邯鄲
※蛻巖先生答問書(1751‐64か)中「我こそ学力有りて、真の漢文をも仕ると」

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