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演歌【えんか】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

演歌
えんか
艶歌ともいう。もとは明治期の自由民権運動壮士が,演説代りにうたった歌。のちにバイオリン伴奏による人情物の歌となって大道芸化した。これが今日の演歌の直接の祖で,作曲家中山晋平のヨナ抜き短音階の曲調が以後のスタイルを決定づけた。 1960年代,歌謡曲全般の西洋化のなかで,演歌は伝統色の強いジャンルとして確立。 80年代以降,カラオケ・ブームを背景におもに中高年層に支持されている。

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デジタル大辞泉

えん‐か【演歌/艶歌】
《「演説歌」から》
明治10年代に、自由民権運動の壮士たちが、その主義主張を歌にして街頭で歌ったもの。のちに政治色が薄くなり、悲恋・心中の人情歌をバイオリン・アコーディオンなどに合わせて歌う遊芸になり、「艶歌」とも書かれるようになった。
日本調流行歌の一。小節(こぶし)をきかせた浪曲風メロディーで二拍子、短調の曲が多く、義理人情を歌う。
つやうた(艶歌)」に同じ。

出典:小学館
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世界大百科事典 第2版

えんか【演歌】
日本の民衆歌謡の一種。時代とともに定義は揺れ動くが,1890年代以降,流行歌(はやりうた)の一部につけられた名称。政治を風刺,告発する歌は江戸時代から数多いが,大部分は端唄(歌)(はうた),都々逸,数え歌の旋律である。自由民権運動が高揚した1880年代の歌,たとえば植木枝盛の《民権数え歌》や安岡道太郎の都々逸《よしや武士》,あるいは高知の盆踊歌《民権踊》などはいずれも旧来からの旋律で,そうした歌は演歌といえない。

出典:株式会社平凡社
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日本大百科全書(ニッポニカ)

演歌
えんか
日本の流行歌の一種。歌によって意見を述べるという意味で、「演説」に対応することばとして明治中期から使用された。思想を歌に託して表明することは古くから行われてきたが、植木枝盛(えもり)作『民権田舎歌(いなかうた)』や安岡道太郎作『よしや武士(ぶし)』のように、「数え歌」や「どどいつ」の旋律に頼るものは演歌とよばない。したがって演歌の嚆矢(こうし)は川上音二郎作『オッペケペー』となる。1889年(明治22)の暮れにつくられたこの歌は、京都・新京極の寄席(よせ)で公開されるや、たちまち京都市民の心をとらえた。政府の施策を非難することなく、自由と民権の伸張を平易に説く『オッペケペー』は、多年にわたる川上の反権力闘争の成果といえるが、翌年に壮士芝居を率いて東上した川上一座の公演によって、横浜や東京でも流行し始めた。絶頂に達するのは1891年6月以降である。歌詞の内容とリズムをたいせつにするだけで、一定の旋律をもたないこの歌は、音楽的にはデクラメーションdeclamationという。端唄(はうた)や俗曲以外、はやり歌が皆無に近かった当時の民衆にとって、だれもが容易に口ずさめる『オッペケペー』は、民衆娯楽の新分野を形成することになった。
 東京にたむろする壮士のなかには、川上をまねて街頭で放歌高吟するかたわら、この歌本を売って生活の糧(かて)を得る者が現れる。『ヤッツケロ節』『欽慕節(きんぼぶし)』『ダイナマイトドン』など同類の歌もつくられたが、政府を弾劾する歌詞もあって、しばしば官憲の弾圧を受けた。こうした壮士の歌に「演歌」の名を冠する一団もあったが、世間では一般に「読売」とか「壮士歌(うた)」とよんだ。ところが壮士の大半は書生であり、『法界節(ほうかいぶし)』や『日清(にっしん)談判破裂して』を月琴(げっきん)で流したので、壮士歌はむしろ「書生節」という名称で親しまれるようになった。そのころ、黒地の着物に編笠(あみがさ)をかぶり、薄化粧を施して娘たちの歓心を買おうとする書生たちの行為は、社会問題として大きな波紋をよんだ。添田唖蝉坊(そえだあぜんぼう)が、社会主義的な歌をつくったのもこの時代である。
 1910年代になると、東京の神長瞭月(かみながりょうげつ)と大阪の中林武雄の歌がもてはやされ、『残月一声』『松の声』『不如帰(ほととぎす)』などが好まれた。やがてバイオリンが用いられると、目新しいこの楽器にひかれ、書生節の周辺を聴衆が取り巻くことになる。大正中期、『一かけ節』や『七里ヶ浜の仇浪(あだなみ)』(真白き富士の嶺(ね))が全国に浸透するころ、書生節の歌手は「演歌師」といわれ始め、映画の力とも相まって『船頭小唄(こうた)』や『籠(かご)の鳥』が一世を風靡(ふうび)した。
 1930年代になってレコード歌謡に人気が集まると、書生節は消滅して「歌謡曲」が台頭し、東海林(しょうじ)太郎、音丸(おとまる)、上原敏(びん)らが「流行歌手」として誕生してくる。またレコード会社専属の作詞家として西条八十(やそ)、佐伯孝夫(さえきたかお)、藤田まさと、作曲者として古賀政男(まさお)、古関裕而(こせきゆうじ)、大村能章(のうしょう)ほか多士済々。そして1960年(昭和35)前後に「艶歌(えんか)」ということばとともに「演歌」が復活する。美空ひばりをはじめ、島倉千代子、春日(かすが)八郎、三波春夫ら、枚挙にいとまがないほど多数の歌手が出現し、その歌声は民衆の魂を揺さぶって黄金時代を形成した。外国のポップスの流行につれて、こぶしのきいた日本調の歌謡曲を演歌とよんだわけであるが、第一次石油ショック(1973)を境に歌謡曲は演歌とニューミュージックに二分された。こうした用語の変遷や歌詞ないしは歌い方に注目するとき、今日の演歌は、日本的な土壌に立脚した歌声だと定義づけることができよう。1970年代以降も、北島三郎、森進一、五木ひろし、細川たかし、都はるみ、水前寺清子、八代亜紀、小林幸子、石川さゆりらの歌手が活躍し演歌を支えているが、歌謡曲のさらなる多様化、演歌ファン層の高齢化などにより、歌謡曲分野に占める演歌の位置付けは相対的に低下している。[倉田喜弘]

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