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源頼朝【みなもとのよりとも】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

源頼朝
みなもとのよりとも
[生]久安3(1147)
[没]建久10(1199).1.13. 鎌倉
鎌倉幕府初代将軍 (在職 1192~99) 。武家政治の創始者。義朝の3男。母は熱田大宮司季範の娘。妻は北条時政の娘政子。平治1 (59) 年の平治の乱に敗れて伊豆に流されたが,治承4 (80) 年以仁王 (もちひとおう) の命を受けて平氏追討の兵をあげた。東国武士の糾合に成功して東国に支配権を確立,鎌倉を本拠とし,次いで源義仲および平氏を滅ぼして天下を平定した。文治1 (85) 年守護・地頭設置の勅許を得て武家政治の基礎を固め,建久1 (90) 年上京して権大納言,右近衛大将に任じられ,翌々年征夷大将軍を拝して名実ともに武家政権としての幕府を開いた。落馬が原因で死去。

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デジタル大辞泉

みなもと‐の‐よりとも【源頼朝】
[1147~1199]鎌倉幕府初代将軍。義朝の三男。平治の乱後、伊豆に流されたが、以仁王(もちひとおう)の平氏討伐の令旨を受けて挙兵。鎌倉を本拠に関東に勢力を伸ばし、弟範頼義経を西上させて義仲を討ち、次いで一ノ谷壇ノ浦などの戦いで平氏を全滅させた。のち、義経追討を名目に守護・地頭設置の許可を得て武家政権の基礎を確立。建久3年(1192)征夷大将軍に任ぜられた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

源頼朝 みなもとの-よりとも
1147-1199 鎌倉幕府初代将軍。在職1192-99。
久安3年生まれ。源義朝の3男。母は熱田大宮司季範(すえのり)の娘。妻は北条政子。平治(へいじ)の乱後の処分で,伊豆(いず)蛭ケ小島(ひるがこじま)(静岡県)に配流。治承(じしょう)4年(1180)平氏打倒の兵をあげ,石橋山で大敗するが安房(あわ)(千葉県)にのがれて勢力を拡大。鎌倉を本拠として東国を支配する。さらに源義仲,平氏,奥州藤原氏を滅亡させて建久3年征夷(せいい)大将軍となり,わが国初の武家政権を樹立した。建久10年1月13日死去。53歳。

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防府市歴史用語集

源頼朝
 鎌倉幕府の初代将軍です。1180年に平氏[へいし]をたおす兵をあげ、鎌倉を中心とした南関東の武士政権をつくり、弟の源義経[みなもとのよしつね]や源範頼[みなもとののりより]に平氏を都から追い出した源義仲[みなもとのよしなか]や平氏を討たせます。その後の1192年、征夷大将軍[せいいたいしょうぐん]に任命されました。

出典:ほうふWeb歴史館
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デジタル大辞泉プラス

源頼朝
山岡荘八の歴史小説。1957年刊行。

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源頼朝
吉川英治の長編歴史小説。1941年刊行。

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世界大百科事典 第2版

みなもとのよりとも【源頼朝】
1147‐99(久安3‐正治1)
平安末期~鎌倉初期の武将。武家政治の創始者。鎌倉幕府初代将軍。源義朝の三男で,母は熱田大宮司藤原季範(すえのり)の女。1158年(保元3)皇后宮権少進に任官,翌年には上西門院蔵人・内蔵人に補せられた。59年(平治1)の末,藤原信頼,源義朝らのクーデタが一時成功した際に従五位下右兵衛佐に叙任。しかし信頼,義朝らは平清盛に敗れ(平治の乱),東国に敗走する父義朝に従ったが,途中,美濃で捕らえられて京都に送られた。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

みなもとのよりとも【源頼朝】
1147~1199) 鎌倉幕府初代将軍。義朝の三男。平治の乱後、伊豆蛭ヶ小島に配流。1180年以仁王もちひとおうの平氏追討の令旨に応じ挙兵。石橋山に敗れ安房に逃げたが、東国武士の来援を得て関東を制しつつ鎌倉にはいって根拠地とした。同年、平維盛の追討軍を富士川に破る。83年、東国支配を認める宣旨を得、ついで弟の範頼・義経を西上させ、85年壇浦で平氏を討滅し全国を平定。その後、義経追討を口実に全国に守護・地頭を設置、武家政治の基礎を確立。92年征夷大将軍に任ぜられた。

出典:三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)

源頼朝
みなもとのよりとも
(1147―1199)
鎌倉幕府初代将軍。源義朝(よしとも)の三男。母は熱田(あつた)大宮司藤原季範(すえのり)の女(むすめ)。義朝は1143年(康治2)から45年(久安1)ごろにかけて、相模(さがみ)国鎌倉の館(やかた)を本拠として東国経営を進めていたが、のち上洛(じょうらく)して季範の女と結ばれた。熱田大宮司家は、鳥羽(とば)法皇と結んで勢力の維持に努めていたから、義朝も妻の縁を媒介として鳥羽法皇の側近武将として活躍し、保元(ほうげん)の乱(1156)の戦功によって、右馬権頭(うまごんのかみ)に任ぜられた。58年(保元3)頼朝は12歳で皇后宮権少進(こうごうぐうのごんのしょうじん)に任官。翌59年(平治1)2月に鳥羽法皇の皇女統子が上西門院(じょうさいもんいん)となるや、上西門院蔵人(くろうど)となり、6月には後白河(ごしらかわ)上皇の皇子二条(にじょう)天皇に仕え、蔵人に補せられた。藤原信頼(のぶより)、源義朝は、同年12月、平清盛(きよもり)の熊野詣(もう)での留守をねらってクーデターを起こし、政権の奪取に成功した。このとき、義朝は播磨守(はりまのかみ)、頼朝は従(じゅ)五位下右兵衛佐(うひょうえのすけ)に叙任した。しかし信頼らは帰京した清盛との合戦に敗れ、義朝は東国へ敗走した(平治(へいじ)の乱)。頼朝は父義朝とともに東国へ逃れようとしたが、父は尾張内海(おわりうつみ)で長田忠致(おさだただむね)に謀殺され、頼朝も美濃(みの)において平頼盛(よりもり)の郎党平宗清(むねきよ)に捕らえられ、京都に護送された。まさに斬罪(ざんざい)に処せられんとするところを清盛の義母池禅尼(いけのぜんに)の口添えによって死を免れ、解官(げかん)のうえ伊豆に配流された。
 伊豆の豪族伊東祐親(すけちか)、北条時政(ときまさ)の監視下に置かれた頼朝は、以後20年間にわたって読経三昧(どきょうざんまい)の日々を過ごしたとされている。しかし、この間も天野遠景(あまのとおかげ)、土肥実平(どいさねひら)、岡崎美実(おかざきよしざね)ら伊豆、相模の武士たちと連絡をもち、京都の三善康信(みよしやすのぶ)から情報を受け取るなどして、後白河上皇と平氏との間に展開する政治情況の変化を適確に把握していた。時政の女北条政子(まさこ)との結婚もこの間のことである。
 1180年(治承4)5月、後白河上皇の皇子以仁王(もちひとおう)と源頼政(よりまさ)が平氏打倒をスローガンに挙兵した。以仁王の令旨(りょうじ)を受けた頼朝は、時政らの援助を得て、8月、伊豆の目代(もくだい)山木兼隆(やまきかねたか)を討って反平氏の旗幟(きし)を鮮明にした。頼朝が伊豆に挙兵すると、東国の武士たちは「源家中絶の跡を興さしめ給うの条、感涙眼(まなこ)を遮ぎり、言語の及ぶところにあらず」(吾妻鏡(あづまかがみ))と喜び、各国の目代を次々に攻撃した。頼朝は伊豆から相模へと東進したが、石橋山の戦いで平氏方の大庭景親(おおばかげちか)に敗れ、再起を期して海路安房(あわ)に逃れた。頼朝が安房を目ざしたのは、父義朝と密接な関係にあった三浦半島の豪族三浦一族が、安房に強力な勢力を扶植していたからである。頼朝は安房の武士たちの援助を得て短時日のうちに勢力を挽回(ばんかい)し、ついで上総(かずさ)の在庁官人上総介広常(かずさのすけひろつね)、下総(しもうさ)の千葉介常胤(つねたね)らを味方に引き入れることに成功した。広常は2万余騎を率いて頼朝の陣営に参加している。態勢を整えた頼朝は、上総、下総を経て武蔵(むさし)に入り、江戸重長(しげなが)、河越重頼(かわごえしげより)、畠山重忠(はたけやましげただ)らを味方に加え、10月には曩祖(のうそ)の地鎌倉に入ることができた。石橋山での惨敗ののち、安房に逃れた頼朝が短時日のうちに再起しえたのは、目代を攻撃することによって平氏の支配連絡網を切断し、挙兵参加者に所領の安堵(あんど)を保証し、あわせて敵方の没収地を新しく給与するという彼の政策が、平氏の独裁的支配に不満をもち、その変革を願っていた東国武士の要求と完全に一致したからである。
 平氏は頼朝を討つために平維盛(これもり)を派遣した。両軍は富士川で対陣したが、夜襲を極度に恐れていた平氏の軍勢は、水鳥の羽音に驚いて戦わずして敗走した。頼朝は平氏を追って上洛しようとしたが、三浦義澄(よしずみ)らの忠告を聞き入れて上洛をやめ、鎌倉に帰って東国経営に努めた。頼朝に対して自立の動きを示していた常陸(ひたち)の佐竹(さたけ)氏を討滅し、ついで傘下の武士たちを統率する機関として侍所(さむらいどころ)を設置して、和田義盛(よしもり)を長官(別当(べっとう))に任命した。この年の暮れ、大蔵(おおくら)の新居が完成し、311人の御家人(ごけにん)武士は頼朝を「鎌倉の主」に推戴(すいたい)した。1181年(養和1)閏(うるう)2月、平清盛が病死した。頼朝は後白河法皇に密奏して法皇への忠誠を誓うとともに、源平の共存を申し入れた。しかし、この案は平氏によって拒絶された。この年から82年(寿永1)にかけて大凶作と飢饉(ききん)が続き、源平両方ともに兵を動かすことは不可能であった。83年7月、源義仲(よしなか)が平氏を追って入京した。しかし義仲の政治力の欠如と義仲軍の狼藉(ろうぜき)は京都貴族の反発をよび、義仲はしだいに後白河法皇と対立するに至った。頼朝はこの機を逸することなく再度奏上し、法皇と貴族の歓心を買うことに成功した。頼朝の勅勘は解かれ、もとの従五位下右兵衛佐に復した。この年10月には、東国諸国の支配権を公的に承認されている(寿永(じゅえい)2年10月宣旨)。法皇と頼朝との密約を怒った義仲は、11月法皇の御所法住寺殿(ほうじゅうじどの)を囲み、火を放って法皇を捕らえ、五条東洞院(ひがしのとういん)の自邸に幽閉した。このころ、東国の年貢を法皇に運上するという口実のもとに上洛しつつあった源義経(よしつね)は伊勢(いせ)に滞在していたが、法皇から即刻の入京を要請された。84年(寿永3)正月、頼朝は義経を先陣とし、範頼(のりより)を総大将に任命して6万の大軍を京都に進め、義仲攻撃を開始した。義仲を近江(おうみ)に討滅した鎌倉軍は、勢力を回復して摂津(せっつ)福原に戻っていた平氏を一ノ谷で破り、翌85年(文治1)2月には屋島で勝利し、ついに3月には壇ノ浦へと追い詰め、これを滅亡させた。この間頼朝は鎌倉にあって、84年10月には公文所(くもんじょ)(別当大江広元(おおえのひろもと))と問注所(もんちゅうじょ)(執事三善康信)を設置し、幕府の体制を着々と強化していった。平氏滅亡後、頼朝は従二位に叙せられたが、義経と後白河法皇との接近を恐れて義経謀反事件を捏造(ねつぞう)し、法皇の責任を追及するとともに、義経追討の院宣(いんぜん)を出させるに至った。頼朝は北条時政らを上洛させ、全国武将たちの反乱防止の具体策として守護(しゅご)・地頭(じとう)の設置を法皇に承認させるとともに、さらに親義経派の院近臣の解官・配流を要求し、頼朝派の九条兼実(くじょうかねざね)を内覧に推挙して、法皇独裁を抑止しようとした。守護・地頭の設置は、幕府の支配権を西国にまで及ぼす契機となった。89年(文治5)頼朝は、義経をかくまっていた奥州藤原氏を討ち、葛西清重(かさいきよしげ)を陸奥(むつ)の奉行(ぶぎょう)に命じ、陸奥、出羽(でわ)を幕府の直轄領とした。こうして源平争乱の開始以来10年にして内乱は終息し、幕府の支配権は全国に及ぶこととなった。
 1190年(建久1)10月頼朝は上洛し、11月には後白河法皇、後鳥羽(ごとば)天皇に謁見、権大納言(ごんだいなごん)、右近衛(うこんえ)大将に任命されたが、両職を辞退し鎌倉に帰った。92年3月後白河法皇が没すると、九条兼実の計らいによって同年7月に頼朝はついに征夷(せいい)大将軍に補任された。これ以後幕府は、恩沢の沙汰(さた)として御家人たちに恩賞地を与え、地頭職補任などの際に使用する文書の様式を頼朝袖判(そではん)の下文(くだしぶみ)から、政所(まんどころ)下文に更新していった。93年3月から5月にかけて、頼朝は下野那須野(しもつけなすの)、信濃(しなの)三原野、駿河(するが)の富士裾野(すその)などで大規模な巻狩(まきがり)を行っている。統治者としての資格を神に問うための儀式であった。これから数年の間、範頼が伊豆に流されたり、大庭景義(かげよし)が鎌倉を追われるなどの事件が続いた。幕府内で深刻な権力闘争が展開し、北条氏が勢力を伸張させていったのである。95年(建久6)3月、頼朝は東大寺再建供養に臨むため上洛した。妻子を伴っての上洛は、女の大姫(おおひめ)の入内(じゅだい)工作を促進するという目的をももっていた。しかし97年に大姫が死去したことにより、入内の計画は実現することなく終わってしまった。98年の暮れ、頼朝は、稲毛重成(いなげしげなり)が亡妻(政子の妹)の追福のために新造した相模川の橋供養に参加。しかしその帰途に落馬し、翌99年(正治1)正月13日、53歳で死去。死因は、さまざまに憶測されているが不明である。幕府の公式な日録であるといわれる『吾妻鏡』は、なぜか1196年から99年2月までの記述を欠落させている。鎌倉幕府の創設者の死を正確に伝える記録はない。とはいえ、頼朝の死はいち早く京都に伝えられ、朝野に大きな衝撃を与えた。藤原定家(ていか)は、「朝家の大事、何事かこれに過ぎんや、怖畏逼迫(ふいひっぱく)の世か」(『明月記』建久10年1月18日)と記している。[佐藤和彦]
『石母田正著『古代末期政治史序説』(1956・未来社) ▽永原慶二著『源頼朝』(岩波新書) ▽永原慶二著『日本の中世社会』(1968・岩波書店) ▽上横手雅敬著『日本中世政治史研究』(1970・塙書房) ▽石井進著『日本中世国家史の研究』(1970・岩波書店) ▽大山喬平著『日本の歴史9 鎌倉幕府』(1974・小学館) ▽安田元久著『鎌倉開府と源頼朝』(教育社歴史新書)』

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精選版 日本国語大辞典

みなもと‐の‐よりとも【源頼朝】
鎌倉幕府初代将軍。義朝の三男。平治の乱で敗走中に捕われて伊豆に配流。治承四年(一一八〇)挙兵して石橋山の戦に敗れたが、間もなく勢力を回復、鎌倉にはいり、武家政権の基礎を樹立。弟範頼・義経に命じて木曾義仲を討ち、続いて平氏を滅ぼした。のち不和となった義経の追捕を口実に朝廷から守護・地頭設置の許可を得て武家支配を確立。建久三年(一一九二)征夷大将軍。久安三~正治元年(一一四七‐九九

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