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源義家【みなもとのよしいえ】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

源義家
みなもとのよしいえ
[生]長暦3(1039).河内
[没]嘉承1(1106).7.4.
平安時代後期の武将。父は頼義。母は平直方の娘。幼名,源太丸。八幡太郎と称した。父に従って前九年の役で功をあげ,康平6 (1063) 年従五位下,出羽守に任じられた。のち陸奥守,鎮守府将軍となり,陸奥で清原氏一族の争いを鎮定した (→後三年の役 ) 。朝廷はこれを私闘と判定して賞を与えなかったので,義家は随従した武士に私財を恩賞として与えた。そのため,関東の武士は後代まで源氏に従い,義家は天下第一の武人として名声を得,下野,相模,武蔵,伊予,河内,信濃などの国守左近将監,左衛門尉,兵部大輔,左馬権頭を歴任して,承徳2 (98) 年正四位下となった。

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デジタル大辞泉

みなもと‐の‐よしいえ〔‐よしいへ〕【源義家】
[1039~1106]平安後期の武将。頼義の長男。通称、八幡太郎。前九年の役で父を助けて安倍氏を討ち、のち、陸奥守兼鎮守府将軍となり、後三年の役を鎮定。東国における源氏勢力の基盤をつくった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

源義家 みなもとの-よしいえ
1039-1106 平安時代中期-後期の武人。
長暦(ちょうりゃく)3年生まれ。源頼義(よりよし)の長男。前九年の役で父とともに活躍。のち陸奥守(むつのかみ)兼鎮守府将軍となり,後三年の役で清原氏の内紛を鎮圧,東国に源氏の基盤をきずいた。天下第一の武勇の士とされ,衣川の合戦での歌のやりとり,雁(かり)の列の乱れに伏兵をみやぶるなど伝説がおおい。嘉承(かじょう)元年7月4日死去。68歳。通称は八幡太郎。
【格言など】吹く風をなこその関と思へども道もせに散る山桜かな(「千載和歌集」)

出典:講談社
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世界大百科事典 第2版

みなもとのよしいえ【源義家】
1039‐1106(長暦3‐嘉承1)
平安後期の武将。源頼義の長男。母は上野介平直方の娘。石清水(いわしみず)八幡宮で元服し〈八幡太郎〉と号した。前九年の役に父に従って参戦,勲功により1063年(康平6)従五位下出羽守となり,やがて下野守に転任した。70年(延久2)には陸奥で藤原基通を追捕(ついぶ),その後京に戻り,主家藤原摂関家の警衛京中の治安維持の任に当たった。このころ〈武勇の輩(ともがら)〉といえばほとんど源氏,とくに義家一党を指すほどに源氏の武力は成長していた。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

みなもとのよしいえ【源義家】
1039~1106) 平安後期の武将。頼義の長男、義光の兄。八幡太郎と号す。前九年の役に活躍して出羽守となり、ついで陸奥守兼鎮守府将軍となった。後三年の役を鎮定し、東国武士の信望を集め、東国における源氏の勢力の基礎を築いた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

源義家
みなもとのよしいえ
(1039―1106)
平安後期の武将。河内(かわち)源氏の嫡流で頼義(よりよし)の長子。母は上野介(こうずけのすけ)平直方(なおかた)の女(むすめ)。7歳の春、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の宝前で元服し、「八幡太郎(はちまんたろう)」と号した。前九年の役に、父頼義に従って出陣し、安倍頼時(あべのよりとき)・貞任(さだとう)父子と戦い、1062年(康平5)貞任を衣川関(ころもがわのせき)(岩手県)で破り、ついで厨川柵(くりやがわのき)で滅ぼし、その功によって従(じゅ)五位下出羽守(でわのかみ)に任ぜられた。
 この前九年の役における奮戦によって、一躍、武勇の名を天下に広め、『陸奥話記(むつわき)』などにその合戦のようすが描かれるに至る。検非違使(けびいし)や左衛門尉(さえもんのじょう)として僧兵の嗷訴(ごうそ)の鎮圧などに活動するとともに、下野(しもつけ)、相模(さがみ)、武蔵(むさし)、河内などの国司を歴任し、83年(永保3)陸奥守(むつのかみ)兼鎮守府将軍になった。そのとき、奥羽の豪族清原(きよはら)氏に内紛が起こり、清原真衡(さねひら)と同家衡(いえひら)・藤原清衡(きよひら)とが抗戦状態になった。義家は真衡を援助してこの内紛に介入し、真衡の死後、家衡と清衡が対立すると、86年(応徳3)清衡を助けて自ら数千騎を率いて家衡を攻撃した。義家は、家衡の激しい抵抗と飢寒のために苦戦したが、ついに87年(寛治1)金沢柵(秋田県)を攻略して家衡を討った。これが後三年の役である。
 この戦いにあたって、義家は清原氏追討の官符を朝廷に求めたが、朝廷は義家による奥州征覇の私戦とみなして、追討の官符も恩賞も与えなかった。そのため義家は自らの私財をもって麾下(きか)の将兵の功に報いた、と『奥州後三年記』は伝えている。
 こうした義家の行為と奮戦の武勇によって武士の信望を集め、東国における源氏の勢力は著しく進展した。やがて、諸国の武士や百姓のなかで義家に荘園(しょうえん)を寄進する者も多くなり、義家は「天下第一武勇之士」などと称され、白河(しらかわ)院政を支える軍事力の中核となって活動し、98年(承徳2)には院の昇殿を許されるまでになった。しかし一方で、院や貴族は、義家の勢力が急激に増大するのに警戒心を強め始め、91年(寛治5)義家の郎党と弟義綱(よしつな)の郎党との所領争いから義家と義綱の戦闘が惹起(じゃっき)されようとすると、朝廷は義家の入京を制止し、諸国の百姓が義家に荘園を寄進するのを禁じる宣旨(せんじ)を出した。その後も、朝廷はできるだけ義家の勢力が拡大するのを抑えて、弟義綱や平正盛(まさもり)を重用する方針をとった。このため1106年(嘉承1)7月、義家が没すると一族内部に深刻な後継者争いが生じて源氏の勢力が没落し始め、かわって平正盛・忠盛(ただもり)らの平氏が台頭してくるのである。[田中文英]
『安田元久著『源義家』(1966・吉川弘文館)』

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精選版 日本国語大辞典

みなもと‐の‐よしいえ【源義家】
平安後期の武将。頼義の長男。母は平直方の女。石清水八幡宮で元服したので八幡太郎と号する。天下第一の武勇の士といわれ、前九年の役に父頼義とともに奮戦し、功により出羽守となる。のち陸奥守となり後三年の役を鎮定して東国の武士の信望を得、源氏が東国に起こる基盤をつくった。長暦三~嘉承元年(一〇三九‐一一〇六

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