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源為朝【みなもとのためとも】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

源為朝
みなもとのためとも
[生]保延5(1139)
[没]嘉応2(1170).4. /安元2(1176).3.6. 伊豆,大島
平安時代後期の武将。為義の第8子。母は江口の遊女。弓の名人として知られる。 13歳のとき父の不興を買って京都を追われ,九州に走った。肥後の豪士の阿曾忠国の婿となり,鎮西八郎と称した。九州では合戦,略奪を繰返し勢力を伸ばした。朝廷では為朝を京都に召し返そうとしたが聞き入れなかったため,久寿1 (1154) 年父為義は解官された。これを知った為朝はやむなく上京し,保元の乱では父とともに崇徳上皇側として平清盛,兄義朝軍と戦ったが敗れ,近江で源重貞に逮捕され,伊豆大島に流された。しかし,ここでも略奪,乱行があり,伊豆介工藤茂光に攻められて自殺した。巷説に,大島から琉球に渡って琉球王朝の祖となったという。

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デジタル大辞泉

みなもと‐の‐ためとも【源為朝】
[1139~1177]平安後期の武将。為義の八男。豪放な性格で、弓術に長じた。13歳の時九州へ追われ鎮西八郎と称し、九州を略取保元の乱で父とともに崇徳上皇方となり、敗れて伊豆大島に流された。のち、狩野茂光に攻められて自殺。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

源為朝 みなもとの-ためとも
1139-1170 平安時代後期の武将。
保延(ほうえん)5年生まれ。源為義の8男。荒武者で父に九州へ追放され,ここで勢力をはり鎮西八郎と称した。保元(ほうげん)の乱で崇徳(すとく)上皇方につき,強弓をひいて奮戦。敗れて伊豆(いず)大島にながされ,嘉応(かおう)2年(一説に安元3年)追討をうけ自殺した。32歳。琉球にのがれたという伝説もある。
【格言など】院宣宣旨といずれ甲乙か候(「保元物語」)

出典:講談社
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世界大百科事典 第2版

みなもとのためとも【源為朝】
1139‐77?(保延5‐治承1?)
平安末期の武将。源為義の八男,義朝の弟。母は江口の遊女。13歳のとき父の不興を買って九州に追われ〈鎮西八郎〉と号した。その勇力猛威をもって九州中を掠領し,訴えられたが朝廷の召喚にも応じなかったため,1154年(久寿1)父為義が解官(げかん)された。やむなく上洛したところ56年(保元1)7月保元の乱が起こり,為朝は父為義に従って崇徳上皇方として参戦した。軍評定(いくさひようじよう)で夜襲献策したが藤原頼長に退けられ,逆に義朝の献策をいれた後白河天皇方に夜討をかけられた。

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大辞林 第三版

みなもとのためとも【源為朝】
1139~1170) 平安末期の武将。為義の八男、義朝の弟。巨軀・剛勇・強弓をもって聞こえ、一三歳の時九州に渡り、各地を席巻して鎮西八郎と称された。保元の乱には崇徳上皇方で奮戦したが捕らえられ、伊豆大島に配流された。のち狩野茂光に攻められて自害。琉球に逃れて琉球王朝の祖になったという伝説もある。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

源為朝
みなもとのためとも
(1139―1177)
平安後期の武将。為義(ためよし)の八男、母は江口(えぐち)(大阪市東淀川(ひがしよどがわ)区)の遊女。通称を鎮西八郎(ちんぜいはちろう)という。弓矢の才に優れていた。13歳のとき父の不興を買って九州に追われたが、人に秀でた剛勇さで、菊池氏を味方とし九州中をかすめるほどであった。ついに香椎(かしい)宮によって朝廷に訴えられたが、朝廷の命に従わなかったため、1154年(久寿1)父為義が解官(げかん)された。翌年大宰府(だざいふ)に対して、為朝に味方する輩(やから)がないようにせよとの勅が下され、やむなく為朝は朝廷の召還に応じて帰京した。56年(保元1)崇徳(すとく)上皇を擁した藤原頼長(よりなが)が、白河(しらかわ)殿に軍兵を召集した際、源氏の郎党の多くが天皇方である兄義朝(よしとも)についたのに対して、為朝は父に従い上皇方として戦った(保元(ほうげん)の乱)。夜襲の献策が頼長によって阻まれ、ついに白河殿は陥れられた。父は斬(き)られ、為朝は伊豆大島に流罪となった。『保元物語』によると、弓の才を惜しんだ朝廷が、死罪を免じたものという。やがて近くの島をも従えて勢力をもち、悪行を続けたため、工藤介(くどうのすけ)茂光(しげみつ)の追討を受け、安元(あんげん)3年3月6日自殺した。首は京都で晒(さら)された。なお大島から琉球(りゅうきゅう)へ渡り、琉球王朝の祖となったなど多くの伝説がある。[田辺久子]

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精選版 日本国語大辞典

みなもと‐の‐ためとも【源為朝】
平安末期の武将。為義の第八子。母は摂津国江口の遊女。身体強大・性気剛気。弓をよくした。一三歳の時九州へ追われ鎮西八郎と称し、九州を掠取した。保元の乱に父に従い、崇徳上皇方として奮戦したが敗れ、伊豆大島に流され、のち狩野茂光に攻められ自殺。琉球に渡り琉球王朝の祖となったという伝説もある。保延五~嘉応二年(一一三九‐七〇

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歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典

源為朝
みなもとのためとも
歌舞伎・浄瑠璃の外題。
初演
明治40.3(東京・演伎座)

出典:日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」
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