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欽明天皇【きんめいてんのう】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

欽明天皇
きんめいてんのう
第 29代に数えられる天皇。名はアメクニオシハラキヒロニワノミコト。継体天皇皇子。母は皇后手白香 (たしらか) 皇女。6世紀なかば在位。この欽明朝に百済の聖明王仏像経論を献じた。公式にはこれが仏教の最初の渡来とされているが,崇仏に関し蘇我,物部両氏の対立があった。対外的には,朝鮮との関係が新羅の進出に伴ってふるわず,日本人出先官憲の不正,失政も手伝って,危機にあった任那は新羅の傘下に入り,任那日本府はついに滅ぼされた。天皇はこのことを遺憾とし,その回復を遺詔して薨去したといわれる。宣化天皇の皇女の石姫を皇后とし,大和磯城島金刺宮にした。陵墓は奈良県高市郡明日香村の檜隈坂合陵。

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デジタル大辞泉

きんめい‐てんのう〔‐テンワウ〕【欽明天皇】
[510~571]第29代の天皇。継体天皇の皇子。名は天国排開広庭(あめくにおしはらきひろにわ)。在位中に百済(くだら)から仏教が伝来したという。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

欽明天皇 きんめいてんのう
?-571 記・紀系譜による第29代天皇。在位539-571。
継体天皇の皇子。母は手白香(たしらかの)皇后。「日本書紀」によると,都は磯城嶋金刺(しきしまのかなさしの)宮。朝鮮半島では新羅(しらぎ)が勢力をのばして任那(みまな)をほろぼし,釈迦仏経論などを日本につたえた百済(くだら)の聖明王も新羅との戦いで戦死。国内では崇仏をすすめる大臣蘇我稲目(そがの-いなめ)が力をつよめた。欽明天皇32年4月死去。墓所は檜隈坂合陵(ひのくまのさかあいのみささぎ)(奈良県明日香村)。別名は天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと),志帰島(しきしまの)天皇。

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世界大百科事典 第2版

きんめいてんのう【欽明天皇】
第29代に数えられる天皇。《古事記》《日本書紀》によると継体天皇の嫡子で母は皇后手白香(たしらか)皇女。異母兄の宣化天皇の死後をうけて539年に即位し,大和の磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)におり,宣化天皇の女の石姫を皇后として敏達天皇を生み,蘇我稲目の女の堅塩媛(きたしひめ)をとして用明,推古両天皇,その同母妹の小姉君(おあねぎみ)を妃として崇峻天皇を生んだという。治世の初めは大伴金村と物部尾輿(おこし)が大連,蘇我稲目が大臣だったが,まもなく金村が朝鮮政策の失敗を攻撃されて失脚し,その後百済から仏教が公式に伝えられると,崇仏の可否をめぐって稲目と尾輿の対立が激化していったとされる。

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大辞林 第三版

きんめいてんのう【欽明天皇】
記紀で第二九代天皇の漢風諡号しごう。名は天国排開広庭尊あめくにおしはらきひろにわのみこと。継体天皇の皇子。即位の年は、日本書紀によれば539年だが、現在の定説では531年。571年崩御。磯城島金刺宮しきしまのかなさしのみやを都とし、在位中、仏教が伝来。また、任那みまなの日本府が滅亡した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

欽明天皇
きんめいてんのう
(510―571)
記紀に第29代と伝える天皇。継体(けいたい)天皇と手白香(たしらか)皇后(仁賢(にんけん)天皇の女(むすめ))の嫡子。名は伝わらず、和風諡号(しごう)は天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)という。即位の事情については、継体天皇の死の直前、もしくは直後即位し、安閑(あんかん)・宣化(せんか)両天皇の「王朝」と並立したという説がある。この欽明朝において特筆すべきは対朝鮮問題である。この時期、新羅(しらぎ)はその国力の充実を背景に「任那(みまな)」諸国(加耶(かや))の有力国、南加羅(から)(金官(きんかん)国)の併合(532)、安羅(あら)(咸安(かんあん))、大加耶(おおかや)(高霊(こうれい))の併合(562)を推し進め、日本の権益ともかかわっていた「任那」諸国を完全に統属。この新羅に脅威を感じた日本と百済(くだら)とは同盟を強化、百済の聖明(せいめい)王からの「仏教公伝」、五経博士の来朝などは、こうした同盟関係を背景としている。一方、国内的には、蘇我(そが)氏が台頭してくる時期で、蘇我稲目(いなめ)は大臣(おおおみ)として国政に参加、女(むすめ)の堅塩媛(きたしひめ)、小姉君(おあねぎみ)を欽明天皇の妃として納(い)れ、外戚(がいせき)の地位を築き、開明的な政策を推進した。欽明陵は、檜隈(ひのくま)(奈良県高市(たかいち)郡明日香(あすか)村)坂合(さかあい)陵とされているが、全長318メートルの巨大な前方後円墳見瀬(みせ)丸山古墳(奈良県橿原(かしはら)市)に比定する説も強い。[小林敏男]
『末松保和著『任那興亡史』(1971・吉川弘文館) ▽山尾幸久著『日本国家の形成』(岩波新書)』

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精選版 日本国語大辞典

きんめい‐てんのう ‥テンワウ【欽明天皇】
第二九代天皇。継体天皇の第三皇子。名は天国排開広庭尊(あめくにおしはらきひろにわのみこと)。「日本書紀」によれば、五三九年即位し、都を大和磯城嶋金刺宮(やまとしきしまのかなさしのみや)に遷(うつ)す(五三一年即位説もある)。在位三二年の治世中、百済王が仏像、経典を献じ、日本に初めて仏教が渡来した。また、任那(みまな)の日本府が新羅(しらぎ)によって滅ぼされた。(五一〇‐五七一

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旺文社日本史事典 三訂版

欽明天皇
きんめいてんのう
510ごろ〜571
6世紀半ばの天皇(在位531〜571 (ごろ) )
継体天皇の皇子。『日本書紀』は即位を540年としているが,『上宮聖徳法王帝説』などは531年即位説をとり対立している。このことから531〜539年までは異母兄の安閑・宣化朝と並立していたと考え,内乱発展したとする学説が出されている。在位中,538年百済 (くだら) の聖明王が仏像・経論を伝え,562年新羅 (しらぎ) のために「任那 (みまな) 日本府」が滅亡するなど,国内・対外関係とも緊張した時期であった。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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