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楠木正成【くすのきまさしげ】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

楠木正成
くすのきまさしげ
[生]?
[没]延元1=建武3(1336).5.25. 湊川
鎌倉時代末期~南北朝時代の武将。河内土豪。正成以前の楠木氏については不明。元弘1=元徳3 (1331) 年,後醍醐天皇の召しに応じて笠置山行在所に参向し,河内赤坂城挙兵して六波羅勢の攻撃を防いだが落城。翌年千早城を築いて籠城し,幕府軍の猛攻に耐え,諸国の反幕勢力の挙兵を促した。建武中興の際その功により,河内,和泉の守護,河内の国守に任命された。建武2 (35) 年足利尊氏が中興政府に反旗を翻すと,新田義貞らとともにこれを討ち,いったんは撃退した。翌延元1=建武3 (36) 年尊氏が九州から大軍を率いて攻め上った際,摂津湊川にこれを迎撃して敗死。明治になって湊川神社に祀られ,正一位を追贈された。

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デジタル大辞泉

くすのき‐まさしげ【楠木正成】
[1294~1336]南北朝時代の武将。河内の土豪。後醍醐天皇の鎌倉幕府討伐計画に応じ、幕府軍を相手に奮戦。建武の中興の功績で河内の国守と守護を兼ね、和泉(いずみ)守護となった。のち、足利尊氏(あしかがたかうじ)と摂津湊川(みなとがわ)で戦い、敗死。大楠公(だいなんこう)。
直木三十五の時代小説。昭和7年(1932)刊行。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

楠木正成 くすのき-まさしげ
?-1336 鎌倉-南北朝時代の武将。
河内(かわち)(大阪府)赤坂の土豪。元弘(げんこう)元年(1331)後醍醐(ごだいご)天皇の呼びかけに応じて挙兵。配下の武士団をうごかして奇策を駆使,赤坂城・千早城の戦いなどで幕府軍をくるしめる。建武(けんむ)政権下で摂津守,河内守。建武3=延元元年足利尊氏と摂津湊川(兵庫県)でたたかい,5月25日敗れて自刃した。
【格言など】誉れを求めんより恥をいとえ

出典:講談社
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世界大百科事典 第2版

くすのきまさしげ【楠木正成】
?‐1336(延元1∥建武3)
鎌倉時代末~南北朝時代の武将。橘正遠の子というが出自は不明。金剛山のふもと赤坂を本拠とし,和泉,北紀伊にもかかわりを持つ。鎌倉幕府打倒を企てる後醍醐天皇は,蔵人日野俊基,醍醐寺報恩院の文観,道祐を通じて正成を反乱計画に引き入れ,1331年(元弘1)兵衛尉正成は,後醍醐が道祐に与えた和泉国若松荘の所領に姿を現す。後醍醐挙兵後は悪党として追及され,本拠赤坂城で幕府軍と戦ったが敗北,吉野の護良親王と連繫しつつ潜行する。

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大辞林 第三版

くすのきまさしげ【楠木正成】
1294~1336) 南北朝時代の武将。左衛門尉。河内国の土豪。1331年、後醍醐天皇に呼応して河内赤坂城に挙兵、建武政権樹立に貢献し、河内和泉の守護となった。36年足利尊氏を兵庫湊川に迎え討つが敗れ、弟正季と刺しちがえて死んだ。大楠公だいなんこう

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日本大百科全書(ニッポニカ)

楠木正成
くすのきまさしげ
(1294―1336)
鎌倉末・南北朝時代の武将。父は楠木正遠(まさとお)と伝えられる。幼名を多聞丸(たもんまる)、のち兵衛尉(ひょうえのじょう)と称する。1331年(元弘1)8月、後醍醐(ごだいご)天皇の呼びかけに応じて、笠置(かさぎ)に参向し、のち赤坂(あかさか)城(大阪府南河内(みなみかわち)郡千早(ちはや)赤坂村)に挙兵した。挙兵準備の一環として和泉(いずみ)国若松荘(わかまつのしょう)(大阪府堺(さかい)市)に乱入し、兵糧米(ひょうろうまい)を徴発したため、悪党(あくとう)楠木兵衛尉とよばれた。赤坂城には尊良(たかなが)親王、護良(もりよし)親王らも立てこもったが、鎌倉幕府軍の猛攻によって陥落させられた。32年、護良親王が吉野で挙兵したのに応じて、正成も千早城(南河内郡千早赤坂村)で再挙した。同年12月、赤坂城を占拠していた湯浅(ゆあさ)党を降(くだ)して根拠地を奪回し、翌年1月には、和泉の守護軍、河内の守護代と戦ってこれらを駆逐し、南河内から和泉の地域を支配下に入れた。さらに、摂津に進撃して、四天王寺(してんのうじ)の合戦で、隅田(すだ)、高橋の両将が率いる六波羅(ろくはら)軍を撃破した。正成の行動に呼応して、畿内(きない)から西国にかけては、河野(こうの)水軍や赤松一族が反幕運動を展開し始めた。鎌倉幕府は、大仏家時(おさらぎいえとき)らを大将とする大軍を西下させて、反幕行動を一挙に鎮圧しようとした。このため、33年(元弘3・正慶2)2月には赤坂城が落ち、閏(うるう)2月上旬には吉野の砦(とりで)も壊滅した。しかし、正成が立てこもった千早城は、鎌倉軍の猛攻に耐え続け、反幕府勢力結集の時を稼ぎ、後醍醐天皇の隠岐(おき)脱出、赤松則村(円心(えんしん))らの六波羅攻撃を可能にした。
 1334年(建武1)建武(けんむ)政権の樹立とともに、従(じゅ)五位下検非違使(けびいし)、左衛門少尉(しょうじょう)に任ぜられ、河内・摂津の守護となった。さらに、恩賞方(おんしょうがた)、記録所の寄人(よりゅうど)、雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)の奉行(ぶぎょう)にもなり、新田義貞(にったよしさだ)、名和長年(なわながとし)らと武者所(むしゃどころ)に勤務したが、その栄達ぶりを世人は結城(ゆうき)、名和(なわ)(伯耆守(ほうきのかみ))、千種(ちぐさ)とあわせて「三木一草」と称した。天皇の信任も厚く、二条富小路(にじょうとみのこうじ)に屋敷を構え、名和長年、結城親光(ちかみつ)とともに天皇の身辺を警護した。35年(建武2)、中先代(なかせんだい)の乱を鎮圧するために鎌倉に向かった足利尊氏(あしかがたかうじ)が、同年末、新田義貞誅伐(ちゅうばつ)を名目に挙兵し京都に迫ったとき、正成は、後醍醐天皇とともに叡山(えいざん)にこもって尊氏軍の糧道を絶つ一方、北畠顕家(きたばたけあきいえ)軍と共同して、京都糺(ただす)の森において尊氏軍を破り、これを九州へと放逐した。しかし、36年(延元1・建武3)5月、態勢を立て直して東上する尊氏軍と兵庫湊川(みなとがわ)(兵庫県神戸市)において激戦のすえ敗北し、弟正季(まさすえ)とともに自刃した。「今度ハ君ノ戦必破ルベシ。正成和泉河内両国ノ守護トシテ勅命ヲ蒙(こうむ)ル間、軍勢ヲ催スニ、親類一族猶以(なおもって)難渋ノ色アリ、何ニ況(いわん)ヤ、国ノ人民ニヲイテヲヤ、是則(これすなわち)、天下君ヲソムケ奉ル証拠ナリ」(梅松論)との、湊川の戦いへ向かう途中、朝廷へ上奏した最後のことばからは、正成が歴史の趨勢(すうせい)を洞察しうる正確な判断力をもった武将であったことが知られ、金剛寺などに残された書状などからその風格をしのぶことができる。[佐藤和彦]
『田中義成著『南北朝時代史』(1922・明治書院) ▽藤田精一著『楠氏研究』(1933・積善館) ▽植村清二著『楠木正成』(1966・至文堂)』

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精選版 日本国語大辞典

くすのき‐まさしげ【楠木正成】
南北朝時代の武将。幼名、多聞丸。河内の人。後醍醐天皇の鎌倉幕府討伐計画に参加。河内赤坂城、のち千早城に拠り、巧みな兵法知略で幕府の大軍を防ぐ。建武の新政府が成立すると、記録所寄人・雑訴決断所奉行など中央政界で活躍するとともに河内、和泉の守護となった。のち建武政権に反した足利尊氏との湊川の戦いで敗北し、弟正季とともに自刃した。大楠公。建武三年(一三三六)没。

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