Rakuten infoseek

辞書

桂太郎【かつら たろう】

美術人名辞典

桂太郎
政治家・陸軍大将。山口県生。名は清澄、号は海城、幼字を寿熊・左中と称し、のち太郎と改める。総理大臣を三回務め、外交上も大いに手腕を発揮した。大正2年(1913)歿、67才。

出典:(株)思文閣

デジタル大辞泉

かつら‐たろう〔‐タラウ〕【桂太郎】
[1848~1913]軍人政治家。陸軍大将。長州藩出身。陸軍にドイツ式兵制を取り入れ、陸相などを歴任。三度首相となり、日英同盟日露戦争韓国併合断行大逆事件を初め、社会運動を弾圧した。

出典:小学館
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:田中牧郎、曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル版 日本人名大辞典+Plus

桂太郎 かつら-たろう
1848*-1913 明治-大正時代の軍人,政治家。
弘化(こうか)4年11月28日生まれ。参謀本部にはいり,山県有朋を補佐して陸軍の軍制改革に着手。日清(にっしん)戦争に出征。第3次伊藤内閣などの陸相として軍拡政策を推進した。明治34年第1次桂内閣を組織,以後西園寺公望と交互に政権を担当。大正2年第3次桂内閣は護憲運動により2ヵ月で総辞職。陸軍大将。大正2年10月10日死去。67歳。長門(ながと)(山口県)出身。号は海城。
【格言など】天が私を試しているのだ(長男の訃報に接して)

出典:講談社
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版

かつらたろう【桂太郎】
1847‐1913(弘化4‐大正2)
明治時代の軍人,政治家。長州藩士族の出身。早くより洋式銃陣を学び,戊辰戦争では長州藩第4大隊2番隊司令として奥羽を転戦。維新後大阪兵学寮に学んだが中退して1870年(明治3)ドイツに留学,一時帰国し陸軍大尉として明治政府に出仕,75年ドイツ公使館付武官として再びドイツに赴きドイツ軍政を調査・研究する。78年帰国,山県有朋陸軍卿に参謀本部独立を建言。参謀本部が設置されると管西局長となり,プロイセン軍制を範として軍制改革を推進した。

出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.

大辞林 第三版

かつらたろう【桂太郎】
1847~1913) 政治家・陸軍大将。長州藩の人。ドイツ兵制を学び、陸軍建設に尽力。三度組閣し、日英同盟締結・日露戦争・韓国併合などに当たる。1913年(大正2)憲政擁護運動に批判されて辞職(大正政変)。

出典:三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

桂太郎
かつらたろう
[生]弘化4(1847).11.28. 長門,萩
[没]1913.10.10. 東京
軍人,政治家。 1886年陸軍次官となり,陸軍軍制をドイツ式に改革,1888年鎮台を廃し,師団を置いた。 1901~06,1908~11,1912~13年と3度組閣,この間首相として日英同盟締結,日露戦争日韓併合大逆事件に際会した。このうち朝鮮半島については伊藤博文の政策に比べ積極的な併合政策を主張。山県有朋の支持を得て日韓併合を導いている。 1898年陸軍大将,1911年公爵。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)

桂太郎
かつらたろう
(1847―1913)
明治時代の軍人、政治家。弘化(こうか)4年11月28日生まれ。長州藩出身。幕末戊辰戦争(ぼしんせんそう)に従軍。1869年(明治2)横浜語学校生徒、1870年8月より約3年間ドイツ留学。1874年陸軍大尉、同年少佐、陸軍省ついで参謀局勤務、1875年3月ドイツ公使館付、1878年7月帰国、同年中佐、参謀本部勤務、1884年1月より1年間大山巖(おおやまいわお)陸軍卿(りくぐんきょう)に随行してヨーロッパ各国の兵制を視察。この間、山県有朋(やまがたありとも)を助けてドイツ式軍制の建設に努め、軍政の桂、軍令の川上操六(かわかみそうろく)と併称された。1885年少将、陸軍省総務局長、翌1886年陸軍次官、1890年6月中将、翌1891年第三師団長。ついで日清(にっしん)戦争に出征し海城で苦戦した。1895年8月戦功で子爵。1896年6月より4か月間台湾総督となり南進策を構想。1898年1月より1901年(明治34)6月まで第三次伊藤博文(いとうひろぶみ)内閣以降4代の内閣に陸軍大臣を歴任、山県有朋の後継者と目され、軍政家より政治家に成長。第一次大隈重信(おおくましげのぶ)、第四次伊藤内閣など政党的内閣には好意的でなかった。この間1898年9月大将に昇進、1901年6月第一次桂内閣を組織、以後西園寺公望(さいおんじきんもち)と交互に政権を担当した(いわゆる桂園(けいえん)時代)。伊藤、山県、井上馨(いのうえかおる)ら長州出身の三元老には巧みに機嫌をとり、立憲政友会とは妥協して難局を切り抜け、その巧妙さは「ニコポン主義」(相手を懐柔するの意)と評された。1902年2月日英同盟の功で伯爵、1907年9月日露戦争の功で侯爵、1911年4月韓国併合の功で先輩をしのいで公爵となり、山県と同爵となる。その政権への執着心と昇進は西園寺の淡泊と対比され、政敵としては原敬(はらたかし)をもっとも警戒した。また山県としだいに対立し、その慢心ぶりは明治天皇も「桂の大天狗(てんぐ)」と評したという。
 1912年7月渡欧、モスクワ到着後天皇危篤の報に帰国、8月侍従長兼内大臣となるが、まもなく第二次西園寺内閣の総辞職で12月第三次桂内閣を組織、憲政擁護運動に会して翌1913年(大正2)2月総辞職、政治的生命を絶たれ、政党結成を進めたが、同年10月10日死去した。[山本四郎]
『徳富蘇峰編著『公爵桂太郎伝 乾坤』(1917・桂太郎伝刊行会/復刻版・1967・原書房) ▽升味準之輔著『日本政党史論 第2・3巻』(1966・東京大学出版会) ▽桂太郎著、宇野俊一校注『桂太郎自伝』(1993・平凡社・東洋文庫) ▽御厨貴監修『歴代総理大臣伝記叢書6 桂太郎』(2005・ゆまに書房) ▽宇野俊一著『人物叢書 桂太郎』新装版(2006・吉川弘文館) ▽千葉功編『桂太郎関係文書』(2010・東京大学出版会)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

精選版 日本国語大辞典

かつら‐たろう【桂太郎】
政治家、陸軍大将。公爵。長州藩出身。山県有朋の直系として陸軍次官、各内閣の陸相を経る間にドイツ式兵制の確立、北清事変への出兵などにあたった。明治三四年(一九〇一)以後三回組閣。日英同盟を結び、日露戦争を断行。社会運動を弾圧し韓国併合を行なったが、第三次内閣は憲政擁護運動の攻撃をうけて崩壊。弘化四~大正二年(一八四七‐一九一三

出典:精選版 日本国語大辞典
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

桂太郎」の用語解説はコトバンクが提供しています。

桂太郎の関連情報

他サービスで検索

「桂太郎」のスポンサー検索

(C)The Asahi Shimbun Company /VOYAGE GROUP, Inc. All rights reserved.
No reproduction or republication without written permission.