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松永久秀【まつながひさひで】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

松永久秀
まつながひさひで
[生]永正7(1510)
[没]天正5(1577).10.10. 大和
戦国~安土桃山時代の武将。初め三好長慶に仕え,弾正忠に任じ堺代官となった。永禄2 (1559) 年奈良に入部して多聞城,信貴山城などを築き,山城の国人を追い,三好氏の家老となるに及んで勢力を伸張し,三好義継に足利義輝を殺害させ,畿内に実権をふるった。同 10年三好三人衆と戦い東大寺大仏殿を焼き,同 11年織田信長入京してくると,これに従い,大和信貴山を安堵された。その後信長の天下統一を志向する政策に対し,足利義昭をはさんで表裏のある行動を重ねたため,天正5 (77) 年信長の攻撃にあって信貴山城で自殺した。

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朝日新聞掲載「キーワード」

松永久秀
畿内を支配した戦国武将三好長慶に仕えて頭角を現す。将軍から主君と同等の待遇を受けるなど、権勢を振るった。官位を合わせた松永弾正の名で知られる。仕えていた織田信長を裏切り、城が大軍に包囲されると、信長が欲しがった茶器「平蜘蛛釜」を砕いて自害したとされる。
(2017-09-06 朝日新聞 夕刊 文化芸能)

出典:朝日新聞掲載「キーワード」

松永久秀
畿内を支配した戦国武将、三好長慶に仕えて頭角を現す。将軍から主君と同等の待遇を受けるなど、権勢を振るった。官位を合わせた松永弾正の名で知られる。仕えていた織田信長を裏切り、城が大軍に包囲されると、信長が欲しがった茶器「平蜘蛛釜」を砕いて自害したとされる。
(2017-09-06 朝日新聞 夕刊 文化芸能)

出典:朝日新聞掲載「キーワード」

デジタル大辞泉

まつなが‐ひさひで【松永久秀】
[1510~1577]戦国時代の武将。初め三好長慶に仕えたが、奈良に多聞城を築いて主家を滅ぼし、将軍足利義輝を殺して東大寺大仏殿を焼いた。織田信長の入京に際して降伏したが、のち背いて敗死

出典:小学館
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

松永久秀 まつなが-ひさひで
1510-1577 戦国-織豊時代の武将。
永正(えいしょう)7年生まれ。三好長慶(ながよし)の家老として権勢をふるい,信貴山(しぎさん)城,多聞城にあって大和(奈良県)を支配。長慶死後,将軍足利義輝(よしてる)を殺す。三好三人衆と対立し,彼らとの戦いの際,東大寺大仏殿は焼失。永禄(えいろく)11年織田信長に降伏して大和を安堵(あんど)されたが,のち信長にそむき,天正(てんしょう)5年10月10日信貴山城に火をはなって自害した。68歳。弾正少弼(だんじょうのしょうひつ),山城守。

出典:講談社
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世界大百科事典 第2版

まつながひさひで【松永久秀】
1510‐77(永正7‐天正5)
室町末期の武将。出生地はなぞに包まれ,阿波,山城西岡など諸説あるが,摂津五百住の土豪の出とする《陰徳太平記》の説が比較的信をおける。初め藤原氏を称し,1561年(永禄4)より源氏を称す。33‐34年(天文2‐3)ころ,京畿争乱の中で台頭した三好長慶(ながよし)に右筆として仕え,42年には早くも一方の部将として南山城に進駐している。実弟の長頼が軍事指揮に優れ,山城,丹波の軍事と民政を任されたのに対して,久秀は訴訟取次ぎなど文書事務に秀で,49年の長慶入京以降は幕下にあって行政実務に専念した。

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大辞林 第三版

まつながひさひで【松永久秀】
1510~1577) 室町末期の武将。三好長慶の家臣。弾正少弼。奈良に多聞城を築く。長慶の子義興を毒殺し、将軍足利義輝を襲って自害させ、東大寺大仏殿を焼き打ちした。織田信長の入京に際し降伏したが、のち背いて大和の信貴山城で敗死。下剋上の典型的人物とされる。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

松永久秀
まつながひさひで
(1510―1577)
戦国時代の武将。山城(やましろ)国あるいは摂津国に生まれた。三好長慶(みよしながよし)の家臣で、初め右筆(ゆうひつ)として仕えた。1553年(天文22)摂津滝山(たきやま)城(神戸市中央区葺合(ふきあい)町)主を命ぜられ、八部(やたべ)・菟原(うはら)郡を支配。59年(永禄2)大和(やまと)平定のため大和信貴山(しぎさん)城(奈良県生駒(いこま)郡平群(へぐり)町)主となる。翌60年弾正少弼(だんじょうしょうひつ)、幕府御供衆(おともしゅう)に列せられる。同年8月郡山(こおりやま)城(奈良県大和郡山市)を攻落したのを皮切りに、大和の諸城を次々に陥落させ、62年奈良北部に天守閣をもつ多聞山(たもんやま)城(奈良市法蓮(ほうれん)町)を造営し大和を支配した。64年長慶が死去すると、一族の三好長逸(ながゆき)・政康(まさやす)、岩成友通(いわなりともみち)のいわゆる三好三人衆とともに長慶の養子義継(よしつぐ)を補佐、65年将軍足利義輝(あしかがよしてる)を三好三人衆らと暗殺し、義輝の実弟一乗院覚慶(後の将軍義昭(よしあき))を奈良に幽閉した。長慶の政権を継いだのは、三好義継と三好三人衆および久秀の三者の連合体であり、久秀が1人実権を握ったのではない。久秀は大和一国の戦国期権力であった。しかし、この連合も三好三人衆との内訌(ないこう)で分裂していく。66年久秀は、和泉(いずみ)・河内(かわち)・摂津の各地で三好三人衆に敗れ、67年大和に逃げ帰り、同年10月には東大寺に布陣した三好三人衆を攻撃して大仏殿を焼き払った。翌68年入京した織田信長の軍門に降(くだ)って大和一国を安堵(あんど)されるが、77年(天正5)8月信長に背き、信貴山城を攻められ、10月、子久通(ひさみち)とともに自殺した。[矢田俊文]
『今谷明著『言継卿記』(1980・そしえて)』

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精選版 日本国語大辞典

まつなが‐ひさひで【松永久秀】
室町後期の武将。三好長慶に仕え、大和の筒井順慶らを抑えて奈良に多聞城を築き、長慶の子義興を毒殺、長慶死後、権勢の座についた。三好三人衆とともに将軍足利義輝を自殺させ、さらには三人衆の根拠東大寺の大仏殿を焼いた。信長が入京するとすぐに従ったが、のち足利義昭に与して攻められて信貴山で自殺した。永正七~天正五年(一五一〇‐七七

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