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東海道【とうかいどう】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

東海道
とうかいどう
古代五畿七道の一つ。伊賀,伊勢,志摩尾張三河遠江駿河,甲斐,伊豆,相模安房上総下総常陸の 14ヵ国,のちに武蔵が加えられた。またこの地域を通る街道の呼称でもある。 30里 (約 120km) ごとに駅を設置し,駅馬を常備した。鎌倉時代には交通量が増加し街道としての重要度が高まり,江戸時代には五街道の一つに定められた。 53の宿駅がおかれ,軍事的な意味から河川の架橋が禁じられた。また箱根,新居などには関所が設けられ,江戸への出入りがきびしく監視された。 (→新居関 , 箱根関 )

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デジタル大辞泉

とうかい‐どう〔‐ダウ〕【東海道】
五畿七道の一。伊賀伊勢志摩尾張三河遠江(とおとうみ)駿河甲斐伊豆相模武蔵安房(あわ)上総(かずさ)下総(しもうさ)常陸(ひたち)の15か国。
江戸時代の五街道の一。江戸から太平洋沿いに京都に至る街道。現在、その大部分が国道1号線と重なる。→東海道五十三次

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世界大百科事典 第2版

とうかいどう【東海道】

[古代]
 地方行政区画の七道(五畿七道)の一つ。《西宮記》では〈ウヘツミチ〉〈ヒウカシノウミノミチ〉と読んでいる。北は東山道,南西は畿内および南海道の紀伊に接し,南東は太平洋に面している。《日本書紀》崇峻紀にみえる東海道は後の追記とみられるが,672年(天武1)壬申の乱の記事に東海軍とあり,また685年に東海使者として都努牛養派遣の記事がみえるので,その成立を天武朝末年に求めることができよう。《延喜式》によれば伊賀,伊勢,志摩,尾張,三河,遠江,駿河,甲斐,伊豆,相模,武蔵,安房,上総,下総,常陸の15国が所属するが,このうち武蔵は771年(宝亀2)に東山道から編入され,また安房は718年(養老2)に上総より分立したものである。

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Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.

ひがしかいどう【東海道】

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大辞林 第三版

とうかいどう【東海道】
律令制における七道の一。伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河・遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸の一五国より成る。また、それらを通る幹線道路をいう。
江戸時代の五街道の一。江戸から京都に至る太平洋沿いの道路。五三の宿駅があった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

東海道
とうかいどう
京師より太平洋に沿って東方に至る地域または街道名。[児玉幸多]

古代

崇神(すじん)天皇のとき、四道将軍の1人、武渟川別命(たけぬかわわけのみこと)が巡視した東路(うみつみち)、日本武尊(やまとたけるのみこと)や景行(けいこう)天皇が東国に赴いたときの道と伝承する、三浦半島から房総半島へ渡るのが古代の道であったのであろう。律令(りつりょう)制では行政区画の五畿(ごき)七道の一つである。すなわち初めには伊賀、伊勢(いせ)、志摩、三河、尾張(おわり)、遠江(とおとうみ)、駿河(するが)、伊豆、甲斐(かい)、相模(さがみ)、上総(かずさ)、下総(しもうさ)、常陸(ひたち)の13か国であった。718年(養老2)上総の4郡を割いて安房(あわ)国を置いたが、741年(天平13)旧に復し、757年(天平宝字1)にふたたび安房国を置いた。また771年(宝亀2)に武蔵(むさし)国を東山道(とうさんどう)より東海道に転属し、これより15か国となった。道筋も相模より武蔵を経て下総に入ることとなった。行政上では各国に国司が置かれたほか、東海道全域に対して巡察使・観察使などの派遣されることもあった。これら諸国を結ぶ街道も東海道というが、都が大和(やまと)にあったときには、伊賀国に入り、それより伊勢、志摩を経て尾張、三河に達したが、都が山城(やましろ)に移ると、近江(おうみ)から鈴鹿(すずか)峠を越えて伊勢に入るようになった。令制によれば、街道には駅が設けられて、公使の利用に供せられたのであるが、『延喜式(えんぎしき)』の諸国駅伝馬の条には伊賀と伊豆両国には記載がない。主要路から外れたことになる。これら駅の所在については明確でない所も多く、したがって古代の東海道の道筋のすべてを明らかにすることはできない。平安時代の初め802年(延暦21)に富士山が噴火したため、足柄(あしがら)道を廃して「筥荷途(はこねじ)」を開いたが、翌年には足柄道が復旧して、官道はもとに戻った。[児玉幸多]

中世

鎌倉時代になると、鎌倉と京都の間が最重要路となり、幕府では宿ごとに早馬を常設するなどのことをしている。また公私の旅行者の増加によって宿駅に遊女が集まるようにもなり、天竜川畔の池田宿、浜名湖畔の橋本宿などがとくに著名であった。なお鎌倉時代からは、鎌倉と京都の往来に、熱田(あつた)から美濃(みの)路を経て東山道の近江から入洛(にゅうらく)、また逆に下洛する道筋も用いられた。戦国時代には、東海道諸国は群雄が競い興り、尾張の織田(おだ)、三河の松平(徳川)、駿河の今川、甲斐の武田、相模の北条などの諸氏が勢力を振るい、それぞれの領内には伝馬制度が発達した。[児玉幸多]

近世

関ヶ原の戦いによって徳川家康が覇権を確立すると、1601年(慶長6)には東海道諸宿に伝馬制を設け、宿ごとに36匹の馬を常備させて、公用旅行者またはそれに準ずる者の使役に供した。宿の設置は一時に完了したものではなく、戸塚(とつか)宿は1604年、石薬師(いしやくし)宿は1616年(元和2)、川崎宿は1623年など逐次追加されて1624年(寛永1)の庄野(しょうの)宿の設立によって、江戸(日本橋)―京都(三条大橋)間に品川―大津宿の53宿が整い、通常「五十三次」という。次ぐは継ぐと同意で、宿ごとに人馬の継立(つぎたて)をしたからである。なお大津より分かれて、伏見(ふしみ)、淀(よど)など四宿を経て大坂に至る街道も東海道とした。そのほか東海道の脇(わき)街道としては、熱田から伊勢湾の北岸の万場(まんば)、佐屋(さや)などの四宿を経て桑名(くわな)に至る佐屋路と、浜松から分かれて、浜名湖の北岸の気賀(きが)、三ヶ日(みっかび)などの三宿を通って御油(ごゆ)または吉田へ出る本坂(ほんさか)通があった。また本街道の箱根(はこね)と新居(あらい)(今切(いまぎれ))と、本坂通の気賀には関所があって、往来人や携帯品を改めた。
 宿の任務は人馬の継立や旅行者の休泊に応ずることにあり、人馬は初め馬36匹の提供を義務づけられていたが、寛永(かんえい)期(1624~44)には本街道では100人、100匹とされた。この人馬は幕府公用の旅行者や大名、公家(くげ)、武士などが指定された数までを使役でき、その事務は各宿の問屋場で行った。そのほかの庶民は馬士(まご)や駕籠(かご)かき人足と相対(あいたい)で利用した。東海道には天竜川、大井川などの大河川があるほか、今切、伊勢湾などの渡海場もあり、船または人足によって渡る所が多く、風波や大水のために交通が途絶することもまれではなかったので、それを避けるために中山道(なかせんどう)を通行する者もあった。しかし参勤交代の大名をはじめ、東海道の利用者はもっとも多く、それに応じて本陣、脇本陣、旅籠(はたご)屋、あるいは茶屋などの設備も整い、小田原の外郎(ういろう)、箱根細工、丸子(まりこ)のとろろ汁、宇津(うつ)ノ谷(や)峠の十団子(とおだんご)、掛川の葛布(くずふ)、新居のうなぎ、鳴海絞(なるみしぼ)り、桑名の蛤(はまぐり)、草津の姥(うば)ヶ餅(もち)、大津絵など各地の名産・名物も多く、旅人を通じて諸方に広められた。
 幕府はこの重要街道を確保するために、小田原、沼津、田中、掛川、浜松、吉田(現豊橋(とよはし))、岡崎、桑名などにはすべて譜代(ふだい)大名を配置した。それに駿府(すんぷ)を直轄とし、名古屋に親藩を置いた。将軍の上洛などにはそれらの城内が宿所にあてられた。一般旅行者には十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の滑稽本(こっけいぼん)『東海道中膝栗毛(ひざくりげ)』や歌川広重(ひろしげ)の浮世絵『東海道五十三次』などで親しまれ、18世紀末からは伊勢参宮や奈良、大坂、京都などの参詣(さんけい)や見物のために利用された。それらの紀行文も数多く残されている。このころには行政区画としての東海道の意味はなくなり、幕府の巡見使も東海地域というような範囲を単位とするようになった。[児玉幸多]
『大熊喜邦著『東海道宿駅とその本陣の研究』(1942・丸善) ▽大島延次郎著『日本交通史概論』(1964・吉川弘文館) ▽児玉幸多・豊田武編『体系日本史叢書24 交通史』(1970・山川出版社) ▽児玉幸多校訂『近世交通史料集 四 東海道宿村大概帳』(1970・吉川弘文館)』

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精選版 日本国語大辞典

とうかい‐どう ‥ダウ【東海道】
[一] 古代の五畿七道の一つ。伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河・遠江・駿河・甲斐・伊豆・相模・安房・上総・下総・常陸の一四か国に東山道から移された武蔵を加えた一五か国をいう。海つ道。
[二] (一)の諸国を結ぶ道。鎌倉時代に京都と鎌倉を結ぶ街道として、急速に発達。江戸時代は五街道の一つとして京都と江戸を結び五三の駅(東海道五十三次)を置いた。現在は、ほぼこれに沿って国道一号が通じる。

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