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東方問題【とうほうもんだい】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

東方問題
とうほうもんだい
Eastern Question
オスマン帝国が内部分裂の危機にさらされていた 19世紀に,混乱に乗じて干渉したヨーロッパ諸国間に生じた国際緊張全般を意味するが,狭義には 1830年代のものをさす。ギリシア独立戦争オスマン帝国を援助したエジプトの太守ムハンマド・アリーが戦後の取得領 (クレタ,キプロス) に不満で,オスマン帝国の宗主権下からのエジプトの独立を目指してシリアに派兵すると,かねてから南下を策していたロシアがオスマン帝国支援に乗出し,さらにイギリス,フランスがロシア牽制の目的で干渉,1833年5月クタイア条約によりエジプトのシリア,キリキア領有をオスマン帝国に認めさせた。イギリス,フランスの調停に不満のオスマン帝国は,同年7月ウンキャルスケレッシ条約を締結し,ロシア艦隊の海峡優先航行権と引替えにロシアの援助を受けることになった。ムハンマド・アリーの領土世襲権要求をめぐり 39年オスマン帝国,エジプト間に紛争が再燃すると,フランスのエジプト支援に対抗,イギリスがロシア,オーストリアプロシア四国同盟を結成し,オスマン帝国側に回ったので,フランスもエジプトから手を引き,ムハンマド・アリーが敗退した。 41年イギリス,フランス,ロシア,オーストリア,プロシアの5国間に国際海峡協定が成立し,ロシアの優先航行権も消滅した。その後,クリミア戦争,三帝同盟,三帝協商の時期を経て帝国主義時代に入る過程のなかで,オスマン帝国領内被支配民族の独立の動きをめぐって,列強の抗争が続いた。

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世界大百科事典 第2版

とうほうもんだい【東方問題 Eastern Question】
東方問題とはという表現における〈東方〉とは,ヨーロッパ世界からみた〈東方〉を意味し,そこにはヨーロッパ人の視点と立場が色濃く投影されている。それは広義には古代ギリシアとアケメネス朝ペルシアの関係,中世ヨーロッパのキリスト教諸国とイスラム諸国の対立などがひきおこした事件を指すことも多い。たとえば,ドリオÉduard Driaultの《東方問題――その発端から1920年セーブル条約までLa question d’Orient depuis ses origines jusqu’a la Paix de Sèvres1920》(1921)では,第1章が〈ビザンティンとイスタンブール〉と題して,ビザンティン帝国の衰亡とオスマン帝国の興隆の叙述から東方問題を説きおこしている。

出典:株式会社平凡社
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日本大百科全書(ニッポニカ)

東方問題
とうほうもんだい
Eastern Question英語
Question d'orientフランス語
東方問題とは、西ヨーロッパからみて東方にあたる地域における問題を意味し、古くは古代ギリシアとペルシアの戦いにまでさかのぼることができるが、一般には、主として19世紀にヨーロッパ列強がオスマン帝国の領土・民族問題をさして用いた概念である。「東方問題」ということばは、ギリシア独立戦争時(1821~29)にイギリスの外交用語となり、その後一般にバルカン半島をめぐる国際政治上の問題をさすようになった。このため、19世紀以降の東方問題は「バルカン問題」ともよばれている。東方問題は、19世紀を通じて、オスマン帝国の衰退、それに伴って活発化するバルカンをはじめとする帝国内の被支配諸民族の解放運動、そしてこれらをめぐる列強間の利害対立という三つの要因の有機的な関連のなかで展開することになる。とくに、バルカン諸民族の多くの独立を承認した1878年のベルリン会議以後は、領土拡大を図る新生バルカン諸国間のナショナリズムの衝突とそれに絡む列強の対立により、東方問題は国際紛争の焦点となった。第一次世界大戦勃発(ぼっぱつ)の一因は、まさにこの東方問題であった。[南塚信吾・菅原淳子]

オスマン帝国の衰退

オスマン帝国は、内政の腐敗などにより、すでに17世紀から衰退が始まっていた。19世紀になるとその衰退は著しく、ロシアのニコライ1世はオスマン帝国を「瀕死(ひんし)の病人」と称し、列強間で帝国を分割することをもくろんだ。ロシアにとり、ダーダネルス、ボスポラス両海峡の制覇は長年の願望であり、これをめぐって18世紀末から数次にわたりロシア・トルコ戦争を繰り広げていた。ロシアはまた、同じ正教徒であるオスマン帝国内のキリスト教徒の保護者を自称し、バルカン半島を自らの勢力下に置こうとしていた。セルビアが農民を中心とする蜂起(ほうき)(1804、15)の結果、自治公国の地位を得たのは、こういうロシアの動きを利用してのことであった。こうしたロシアの動きに対立したのはイギリスであった。イギリスはロシアの南下を、インドへの通路への脅威とみなし、ヨーロッパの「勢力均衡」とオスマン帝国の保全を主張したのである。
 オスマン帝国の解体が進むなかで、支配下にあったバルカン諸民族がしだいに民族意識を抱き、解放運動を始めたが、当面は列強にたよってのみ運動の成果をあげえた。1830年にギリシアの独立が国際的に承認され、同年セルビアも自治公国として承認されたのは、列強の利害にそってのことであった。61年にルーマニア自治公国が成立するのも、クリミア戦争(1853~56)によってロシアが力を弱め、フランスの勢力が強化されたことと関連している。しかし、60年代になると、自覚を高めたバルカン諸民族は、オスマン帝国からの完全な独立という共通の目的のもとに連帯行動に乗り出した。彼らの間では、種々のバルカン連邦が構想され、67年にはバルカン諸国が対トルコ戦争を意識した同盟体制を組んだ。このように19世紀中葉にあっては、列強がオスマン帝国をめぐり自国の利益を追求する外交を繰り広げていた一方で、バルカン諸民族は自らの手で東方問題の解決策を模索したのであった。75年のボスニア・ヘルツェゴビナの農民反乱、76年のブルガリアの4月蜂起、同年のセルビアとモンテネグロの対トルコ開戦、そして77~78年のロシア・トルコ戦争と続く4年間は、列強にとり「バルカンの危機」の時代であった。しかしながらバルカン諸民族にとっては、民族の独立を達成するための過程にほかならなかったのである。ロシアで高唱されるに至った汎(はん)スラブ主義も、バルカンでは冷たくみられていた。[南塚信吾・菅原淳子]

第一次大戦へ

ロシア・トルコ戦争後の1878年、「バルカンの危機」に対処するためにビスマルクの仲介で開かれたベルリン会議は、東方問題に解決をもたらすことなく、かえって新たな紛争の種子をまく結果となった。すなわち、ベルリン会議の決定は、列強の力の均衡にのみ終始したため、セルビア、ルーマニア、モンテネグロに独立を、ブルガリアには自治をもたらしたものの、それらの国境画定はバルカン諸民族の意志を顧みることなく行われた。ベルリン会議以後、南下を阻止されたロシアと、ボスニア・ヘルツェゴビナを占領したオーストリアとの間で新たな軋轢(あつれき)が生じた。またバルカン諸国の間では、オスマン帝国に取り残されたマケドニアをめぐり、ブルガリア、セルビア、ギリシアの三国が熾烈(しれつ)な争いを展開した。しかも、列強はさまざまな形で新生バルカン諸国の内政、外交に介入し、その影響力を広げた。なかでも、バルカンにおけるフランス資本に対抗するドイツ資本の進出は著しかった。日露戦争後、列強間の対立がふたたびバルカンに舞台を戻し、三国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア)と三国協商(イギリス・フランス・ロシア)との対立として先鋭化してきた。そのようななかで生じた青年トルコ党の革命(1908)を契機として、バルカンの危機は一挙に高まった。つまり、一方でこの革命を機に行われたオーストリアによるボスニア・ヘルツェゴビナ併合は、セルビアの狂信的ナショナリズムを高揚させ、他方でこの革命後のトルコの中央集権化はバルカン諸民族の対トルコ連盟をもたらし、バルカン戦争(1912、13)を引き起こした。ここにバルカンは「ヨーロッパの火薬庫」と化し、ついに1914年、サライエボ事件は、世界を戦争へ引き込むことになったのである。
 マルクスにより「永遠の東方問題」とよばれた東方問題も、第一次大戦後に転機を迎えた。バルカン諸国間の領土をめぐる対立は依然として続くが、列強間の対立の舞台がアジア、アフリカに移ったこと、およびバルカン諸民族の自覚が高まったことにより、もはや直接に国際的な危機を導くものではなくなったのである。[南塚信吾・菅原淳子]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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