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東大寺【とうだいじ】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

東大寺
とうだいじ
奈良県奈良市にある華厳宗大本山。総国分寺,金光明四天王護国之寺,大華厳寺などと称され,南都七大寺の一つ。東大寺の名称は西大寺に対する通称である。天平年間に聖武天皇勅願により建立され,天平勝宝4(752)年に開眼供養が行なわれた。諸国の国分寺の総本山となり,八宗兼学の道場であった。本尊は毘盧舎(遮)那仏(びるしゃなぶつ)で奈良の大仏と称され,国宝に指定されている。たびたび兵火にあったが,現存の大仏殿(国宝)は元禄年間の公慶上人の勧進により,宝永6(1709)年に再建された世界最大の木造建築。境内に戒壇院勧学院二月堂法華堂(三月堂),三昧堂(四月堂),開山堂,正倉院などがある。

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デジタル大辞泉

とうだい‐じ【東大寺】
奈良市にある華厳宗の大本山。南都七大寺の一。聖武天皇発願により創建行基が勧進し、良弁(ろうべん)が開山。本尊の盧舎那(るしゃな)仏(奈良の大仏)の開眼供養は天平勝宝4年(752)。同6年には鑑真が来日して戒壇院を創設、三大戒壇の中心となる。のち、度々の兵火で被害を受けたが、平安時代末の重源や江戸時代の公慶によって復興。建造物の多くが国宝で、奈良時代の遺構として転害門(てがいもん)、法華堂正倉院などとともに創建当時の不空絹索観音、日光・月光菩薩像をはじめ、各時代の美術品・文化財を多数残している。宝永6年(1709)再建の大仏殿は、日本最大の木造建造物。平成10年(1998)「古都奈良の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)に登録された。金光明四天王護国寺。総国分寺。大華厳寺。→奈良の大仏

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防府市歴史用語集

東大寺
 奈良の大仏で有名な寺です。平安時代末に焼け落ちましたが、重源[ちょうげん]が建て直しています。しかし、戦国時代にも焼け落ちており、現在あるものは江戸時代に建てなおされたものです。

出典:ほうふWeb歴史館
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デジタル大辞泉プラス

東大寺
奈良県奈良市にある寺院。華厳宗大本山。天平年間に聖武天皇の勅願で創建。本尊の毘盧遮那仏(国宝)は「奈良の大仏」として知られる。金堂、南大門(いずれも国宝)など数多くの文化財を保有。「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコの世界文化遺産に登録。南都七大寺のひとつ。

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世界大百科事典 第2版

とうだいじ【東大寺】
奈良市雑司町にある華厳宗の総本山(図)。大華厳寺,恒説華厳寺,金光明(こんこうみよう)四天王護国寺,総国分寺などの別称がある。東大寺の寺号は748年(天平20)9月に初見し,ときに東寺とも称せられたが,平城京の東方に造建された大寺であることに由来する。南都七大寺,十三大寺,十五大寺の一つ。
[沿革]
 743年(天平15)10月15日,聖武天皇は《華厳経》の教理に基づき動物,植物までも含む共栄の世界を具現するため,国家権力と国民の助援により,盧舎那(るしやな)大仏像の鋳造を発願し,光明皇后もこれをすすめたと伝える。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

とうだいじ【東大寺】
奈良市雑司町にある華厳宗の大本山。金光明四天王護国之寺・総国分寺・大華厳寺ともいう。南都七大寺の一。聖武天皇の発願により創建。行基を大勧進とし、良弁を開基とする。本尊は盧遮那仏るしやなぶつ(いわゆる奈良の大仏)。752年に大仏開眼供養。唐僧鑑真がんじんにより、戒壇院を設立、三戒壇の一として奈良・平安時代を通じて興福寺と並ぶ大寺院となり、広大な荘園を有して栄えたが、中世以後衰えた。江戸時代再建の大仏殿(世界最大の木造建築物)、創建以来の遺構である三月堂・正倉院のほか、南大門・鐘楼などがある。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

東大寺
とうだいじ
奈良市雑司(ぞうし)町にある華厳(けごん)宗の大本山。大華厳寺、金光明四天王護国寺(こんこうみょうしてんのうごこくじ)などとも称する。本尊は盧舎那仏(るしゃなぶつ)で、奈良の大仏として有名。奈良時代の創建。『金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)』の思想を根幹とした、741年(天平13)3月24日の詔(みことのり)に基づいて設置された全国国分寺の中心となって、総国分寺とも称された。大仏造顕(ぞうけん)の目的は、『華厳経』で説く理想の世界、すなわち蓮華蔵(れんげぞう)世界をこの世に実現しようとしたものであり、さらに日本の文化を世界に示そうとするものであった。東大寺の名称は、平城京の東にある大寺(おおてら)という意味に由来する。南都七大寺の一つ。[平岡定海]

歴史

この寺は聖武(しょうむ)天皇の発願で、光明(こうみょう)皇后の勧めによって創建されたといわれている。743年10月15日に盧舎那仏造顕の詔が発せられ、詔に、「大山を削りて、以(もっ)て堂を構え、広く法界に及ぼして、朕(ちん)が知識となす」とあり、盧舎那仏造像の本願に基づいて東大寺が創建されたのであった。最初は近江(おうみ)国(滋賀県)の紫香楽宮(しがらきのみや)の近くで大仏を鋳造しようと計画したが、目的を果たせず、平城京の東の山麓(さんろく)に移して747年造像を始めた。大仏造営の詔が発せられた年、行基(ぎょうき)は大仏造営勧進(かんじん)の大役を命ぜられ、すでに76歳の高齢であったが、弟子らを率い勧進に奔走した。大仏は前後8回にわたって流し込みを行い、749年(天平勝宝1)についに完成した。大仏鋳造の方法は、おそらく当時盛んに行われていた蝋(ろう)型だといわれている。大仏鋳造に用いた資財は、銅13万3110貫、錫(すず)2271貫、練金117貫、水銀660貫、炭1万6656石といわれており、まったくの国家的大事業であった。
 この巨大な大仏の開眼供養(かいげんくよう)は752年4月9日に聖武太上(だじょう)天皇、孝謙(こうけん)天皇、光明皇太后、橘諸兄(たちばなのもろえ)らが参加し、はるばるインドから訪れた菩提僊那(ぼだいせんな)を開眼導師として盛大に行われた。現在の大仏は二度の兵火による炎上で青銅色となっているが、もとは仏身が金色に輝き、頭の螺髪(らほつ)は紺青(こんじょう)、唇は赤色などで、大理石の二重の蓮台(れんだい)の上に5丈3尺5寸(約16メートル)の坐高(ざこう)をもって安置されていた。現在もこの蓮台の蓮弁に『華厳経』の「蓮華蔵世界海図」を描いた毛彫りが残っている。
 この本尊を中心に東大寺が創建され、当寺の建立に尽力した良弁僧正(ろうべんそうじょう)は752年初代別当職に補せられ、彼の師の審祥(しんじょう)によって『華厳経』がこの寺で初めて講ぜられたのである。東大寺では創建に力を尽くした4人、すなわち聖武天皇、行基、菩提僊那、良弁を四聖(ししょう)と称して尊んでいる。757年(天平宝字1)ころまでに南大門、東西両塔院、講堂、三面僧房などが完成して伽藍(がらん)が整ったが、良弁のあと東大寺伽藍の整備と維持にとくに力を尽くしたのは良弁の弟子実忠(じっちゅう)である。また、彼は753年に二月堂修二会(しゅにえ)を初めて修した。
 奈良時代の仏教は六宗(華厳・法相(ほっそう)・倶舎(くしゃ)・三論・成実(じょうじつ)・律)兼学の学派仏教で、東大寺は華厳・三論・倶舎の中心道場であった。773年(宝亀4)良弁の示寂(じじゃく)後、華厳宗の盛大さは、都が平安京へ移されるとともに衰え、810年(弘仁1)空海が第14代東大寺別当に任ぜられてより真言(しんごん)宗の勢力が浸透した。彼は、822年2月、東大寺に灌頂(かんじょう)道場を建立し、鎮護国家のため息災増益(そくさいぞうやく)の法を修した。これが東大寺真言院の始まりである。しかし、この寺は八宗兼学の寺院であったから、平安時代には華厳宗を学ぶための尊勝(そんしょう)院、三論宗・真言宗を学ぶために聖宝(しょうぼう)(醍醐(だいご)寺開山)が開いた東南院、法相宗の道場の知足(ちそく)院、律宗のための戒壇(かいだん)院などがあり、東大寺は仏教教学研究のための南都での中心道場であった。
 東大寺は奈良時代には越前(えちぜん)国(福井県)や伊賀国(三重県)などに多くの荘園(しょうえん)を保有し、中世では伊賀国黒田荘(しょう)、美濃(みの)国(岐阜県)茜部(あかなべ)荘・大井荘などが有名であった。
 平安時代になると、855年(斉衡2)大地震で大仏の頭部が落ちるなど損傷がみられる。伽藍についても、917年(延喜17)に僧坊と講堂を炎上、934年(承平4)には西塔を雷火によって焼失、962年(応和2)には南大門が倒壊した。さらに1180年(治承4)平重衡(しげひら)の南都焼打ちによって東大寺も諸堂のほとんどを焼失した。翌1181年、東大寺再興の詔が発せられ、俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)が造東大寺大勧進職に起用されて再興を図り、源頼朝(よりとも)に願って周防(すおう)国(山口県)を造営料国として用材調達を図った。また、用材運送の必要から備前(びぜん)国(岡山県)野田荘をはじめ、瀬戸内海地域に寺領を拡大していった。また、重源は、宋(そう)の陳和卿(ちんなけい)らの協力を得て、落下した大仏頭部を鋳造し、1185年(文治1)開眼供養が行われた。
 鎌倉時代には、伽藍が再興されるに伴って、華厳教学もおこり、尊勝院を中心として、弁暁(べんぎょう)、宗性(そうしょう)、凝然(ぎょうねん)らが輩出して教学復興の機運が高まった。また、別に明恵上人高弁(みょうえしょうにんこうべん)は京都栂尾(とがのお)に高山寺を開いて華厳・真言の道場とした。しかし、南北朝の争乱のとき東大寺は公家(くげ)(東南院門跡(もんぜき)系)と武家(尊勝院系)の2派に分かれて争ったために、寺内も荒廃し、さらに1567年(永禄10)には松永久秀(ひさひで)と三好(みよし)三人衆との争いに巻き込まれて大仏殿が炎上し、江戸中期まで露座の大仏と化した。1688年(元禄1)に公慶上人(こうけいしょうにん)が大勧進職となり、江戸幕府の援助のもとに諸国に勧進を始め、5代将軍徳川綱吉(つなよし)、その生母桂昌院(けいしょういん)らの援助を得て大仏殿再建が進められ、1692年に現在の大仏殿が落成した。
 明治維新の結果、いままでの3500石の知行(ちぎょう)も消滅し、大仏殿の修理が不可能となったが、1898年(明治31)には政府の援助で修理が完成した。また、神仏分離により手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)を分離し、華厳宗大本山として独立した。1980年(昭和55)には、1973年から始められた昭和の大仏殿大屋根の大修理が完成した。[平岡定海]

文化財と年中行事

現在の境内は、大仏殿を中心に、南大門、鐘楼(しょうろう)、俊乗堂、開山堂、法華堂(三月堂)、二月堂、灌頂堂(勧学院)、戒壇院、転害(てがい)門などの建造物が建ち並んでいる。また、大仏殿の北方(裏手)には正倉院、東方には手向山八幡宮がある。諸堂内には、盧舎那仏をはじめとして多数の国宝・国重要文化財の彫刻を蔵している。また、絹本着色倶舎曼荼羅(ぐしゃまんだら)図、紙本着色華厳五十五所絵巻、『賢愚経(けんぐきょう)』1巻、葡萄唐草文染革(ぶどうからくさもんそめかわ)(以上、国宝)、絹本着色香象大師像、同華厳海会善知識曼荼羅図(ともに重文)、『東大寺要録』など絵画、工芸品、書跡などの文化財も多い。1998年(平成10)、世界遺産の文化遺産として登録された(世界文化遺産。奈良の文化財は興福(こうふく)寺など8社寺等が一括登録されている)。
 東大寺の年中行事のなかでもっとも知られているのは二月堂修二会(しゅにえ)の「御水取(おみずとり)」の行法である。3月1日から二七日(にしちにち)(14日間)、二月堂で修二会の法要を営み、その間「御水取」「達陀(だったん)秘法」などが行われる。そのほか大仏殿で行われる正月7日の修正会(しゅしょうえ)、7月28日の解除会(けじょえ)なども代表的な行事である。[平岡定海]

東大寺領

東大寺領は、
〔1〕墾田を中心とする奈良時代の古代北陸系荘園の形成
〔2〕平安時代から室町時代に至る
 〔ア〕封戸(ふこ)の荘園化
 〔イ〕中世的畿内(きない)型荘園の崩壊と近世的港湾収益の追求
〔3〕近世における石高(こくだか)制への移行
の諸段階を経て、変遷していった。奈良時代には、越前国(福井県)道守(ちもり)荘、桑原(くわばら)荘などの寺領が成立し、平安時代では、東大寺造営の材木搬出のために設定された伊賀国(三重県)の板蠅杣(いたばえのそま)、玉滝(たまたき)杣などを中心に発生した同国黒田荘、玉滝荘がある。ことに大和(やまと)国(奈良県)では、散在的な荘田の集積によって荘園が成立した。大仏御仏聖白米(ごぶつしょうはくまい)免田として櫟(いちい)荘、小東(こひがし)荘などがあり、大仏仏聖香菜(こうな)免田として和邇(わに)荘、大宅(おおえ)荘などがあり、また大仏灯油料を差し出す御油免田としての高殿(たかどの)荘、西喜殿(にしきどの)荘などがあった。
 平安末期、1180年(治承4)の東大寺炎上後、寺領の減少は甚だしく、荘園の総面積は約2500町で、平安初期の4300余町に対して約半分となってしまった。そこで重源は平家の没官(もっかん)領の獲得と周防国の知行国(ちぎょうこく)化に成功し、瀬戸内地域の確保に努めた。安土(あづち)桃山時代の太閤(たいこう)検地の結果、寺領支配は減少して石高制が実施され、寺領は江戸時代には知行高3500石に定められた。もともと国家的寺院であったのが、時代の変遷とともに地方寺院として縮小していったのである。[平岡定海]
『筒井英俊校訂『東大寺要録』(1982・国書刊行会) ▽仏書刊行会編『東大寺叢書』全2巻(1978・第一書房) ▽石田茂作著『東大寺』全2巻(1976・講談社) ▽奈良六大寺大観刊行会編『東大寺』(『奈良六大寺大観9~11』1979・岩波書店) ▽東大寺教学部編『東大寺』(1973・学生社) ▽平岡定海著『東大寺辞典』(1980・東京堂出版) ▽田中義恭著『東大寺』(1980・小学館)』

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事典・日本の観光資源

東大寺
(奈良県奈良市)
南都七大寺」指定の観光名所。

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事典 日本の地域遺産

東大寺
(奈良県奈良市雑司町406-1)
美しき日本―いちどは訪れたい日本の観光遺産」指定の地域遺産。

出典:日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」
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精選版 日本国語大辞典

とう‐だいじ【東大寺】
[1] 南都七大寺の第一。奈良市雑司町にある華厳宗の大本山。聖武天皇の発願により創建。天平勝宝元年(七四九)本尊の盧舎那仏(るしゃなぶつ)(=大仏)、同四年金堂(大仏殿)が完成、開眼供養が行なわれて総国分寺となる。行基を勧進とし、開基は良弁(ろうべん)。同六年、唐僧鑑真(がんじん)により戒壇院が設立され、日本仏教の中心となった。創建当初は壮大な伽藍(がらん)を誇ったが、治承四年(一一八〇)平重衡の南都攻めにより大半を焼失。鎌倉時代に堂塔は再興されたが、永祿一〇年(一五六七)松永久秀と三好三人衆との争いで大仏殿が炎上。現在の大仏殿は宝永六年(一七〇九)のもの。大仏殿・南大門・開山堂・法華堂などの建造物、大仏殿に安置する本尊の盧舎那仏坐像、法華堂に安置する不空羂索(ふくうけんじゃく)観音立像・日光菩薩・月光菩薩立像、葡萄唐草文染韋(革)など国宝が多い。金光明四天王護国寺。大華厳寺。
※続日本紀‐天平勝宝元年(749)一二月丁亥「施東大寺封四千戸、奴百人、婢百人
[2] 香木の名。分類は伽羅(きゃら)。香味は苦酸。蘭奢待(らんじゃたい)とも呼ぶ。本来は六十一種名香の第二であるが、江戸中期以降第一とされることもある。ベトナム産の沈香であると鑑定されている。
※志野宗信筆記(香道秘伝所収)(1501か)「東大寺は御所様御一代一度奈良へ御参詣の時為進物」

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