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東京(都)【とうきょう】

日本大百科全書(ニッポニカ)

東京(都)
とうきょう
関東地方の南西部にあり、日本国の首都。東は江戸川を境として千葉県に、北は内陸県の埼玉県に、西端は関東山地を境として山梨県に、南は境川・多摩川などを境として神奈川県に、それぞれ接している。その面積は2190.93平方キロメートルで、香川県・大阪府に次いで全国では第3番目に小さいが、伊豆・小笠原(おがさわら)などの諸島を含んでおり、南鳥島は日本の最東端、沖ノ鳥島は日本の最南端となっていて、太平洋上に広く広がっている。
 東京は日本最大の平野である関東平野を背景とし、東京湾奥の水陸交通の要地に位置する。明治新政府が拠点を選定するにあたり、旧幕府勢力の根拠地江戸の掌握と古い都からの脱却という政治的意図のもとにこの地が選ばれ、1868年(慶応4)7月17日、京都より東方にあることから旧称江戸を東京と改名した。初期には「トウケイ」とも読まれた。なお1898年(明治31)10月1日自治制を施行した日を「都民の日」として1952年(昭和27)に制定した。都庁所在地は新宿区。
 東京都の中心部は23の特別区からなり、ここが本来の東京で、市域といえば一般にこの23区の範囲をいう。江戸時代の城下町の範囲は、1818年(文政1)江戸図に朱線を引いて範囲を決めた朱引内(しゅびきない)(朱引地)、また御府内(ごふない)に該当する。1868年(明治1)朱引内の範囲が東京府になり、のち15区が置かれた(1878)。北多摩、南多摩、西多摩の3郡からなっていた三多摩地区は1878年神奈川県に属した。1889年市制が施行され15区は東京市となり、東京府と二重構造をもつこととなったが、島嶼(とうしょ)地区(1868年韮山(にらやま)県、1871年足柄(あしがら)県、1876年静岡県)は1878年、政府の力が行き届くよう東京府へ編入されている。さらに三多摩地区は東京市の上水道確保と三多摩の自由民権運動抑圧のため、1893年に東京府に編入された。この間の1880年、小笠原諸島が東京府の所管となった。東京の都市化の進展に対処して東京市は1932年(昭和7)5郡82町村を合併して35区となる。第二次世界大戦のなかで、1943年、首都防衛と府・市の二重的行政解消のため、東京府・東京市を統合し、府・市は廃止されて東京都が置かれ、官選の知事が都と区部を支配することとなった。1945年3月10日、4月13日、5月25日などに激しい空襲(東京大空襲)を受け、77万戸の焼壊家屋と15万人もの死者を出し、区部の大半が破壊された。第二次世界大戦後その中心部は復興をみたが、三多摩地区への移住が目だち、区部は再編成されることとなり1947年(昭和22)23区となった。また都知事は公選となり民主化の途を進む。三多摩地区の都市化に伴い市制施行地が増え、1991年(平成3)までに27市が成立したが、2001年田無(たなし)、保谷(ほうや)両市が合併、西東京市となり、26市に減った。ほかに西多摩郡に3町1村、大島支庁に1町3村、三宅(みやけ)支庁に2村、八丈支庁に1町1村、小笠原支庁に1村が置かれている。なお、三多摩は北多摩、南多摩両郡を構成していた町村が1971年(昭和46)までに市制施行し、2013年現在西多摩郡のみが存続。
 火山島の島嶼部を除く地区は、西から東へと関東山地、多摩・狭山(さやま)などの丘陵地、武蔵野(むさしの)台地、沿岸の沖積低地へと高さを減じているが、山地以外の地は都市化が進展し巨大な人口集積地となり、東京大都市圏の主要部を形成している。都市化の進展によって農林水産業は山地や島嶼部を除いて著しく衰退し、工業・商業活動が活発である。とくに港区・江東区の沖合いに広がる埋立地の臨海副都心をはじめとして近年の情報化時代を迎えて首都としての中枢管理機能が目覚ましく発展し、日本の「頭脳」部分にあたっている。
 人口は都道府県のうち最大で、2015年(平成27)の国勢調査では1351万5271人、全国総人口の約10%を占める。1920年(大正9)の第1回の国勢調査では369万9428人であったが、1962年に1000万人を超え、1965年には1086万9244人となった。その後は人口過集中に伴う生活環境の悪化、地価高騰による住宅難、首都圏整備法に基づく工場・学校の新増設の抑制などによって、人口の増加率は減少し始め、1980年には人口減少(都道府県では東京都のみ)をみるに至った。1985年には一時的に人口の増加となり、1995年にはふたたび減少したが、1997年以降は増加に転じている。2010~2015年の5年間に2.7%の増加となっている。
 東京都の人口密度は1平方キロメートル当り6168.7人(2015)で、全国最高を示し、最低の北海道(68.6人)と比べると、実に90倍近いこみ方といえる。男女比は、全国では女性のほうがやや多く、就業機会の多い東京都では反対に男性のほうが多かったが、1998年以降は東京都でも女性の人口が男性を上回っている。2015年現在、特別区部の人口は927万2740人で、2010年より32万7045人増加している。特別区部の人口は1966年をピークに減少していたが、1997年からは増加に転じている。都心3区といわれる千代田・中央・港の3区においても1996年に24万2978人と最少を記録したが、以後は増加となり、人口の都心回帰がみられている。
 一方、郊外の三多摩地区では人口増加が続いており、2005~2010年の増加率では、稲城市10.9%、町田市5.3%、立川市4.1%、府中市4.0%増などである。一方、山村の奥多摩町、檜原(ひのはら)村と島嶼地域は人口減少を続け過疎地域となっている。
 産業別人口構成では2010年現在、第三次産業が82%を占め、第一次産業では0.4%と全国でもっとも偏りが大きい。年齢別人口構成では20代の若年層が多く、10代前半の幼年層が少なくて、大都市の特色を示している。老齢化の傾向は生産年齢人口の多い東京都でも著しく、老齢人口比は1975年6.2%、1985年8.9%、1995年13.2%、2015年22.7%と増加している。[沢田 清]

自然


地形
西部は関東山地の一部で、東京都で最高の雲取山(くもとりやま)(2017メートル)は埼玉・山梨両県と東京都との境にそびえている。山地は南東方向に低くなり、山麓(さんろく)の一部に高尾山(たかおさん)(599メートル)がある。山梨県大菩薩嶺(だいぼさつれい)から流れる丹波(たば)川は東京都へ入って雲取山から流れる日原(にっぱら)川と合流して多摩川となり、さらに下流で秋川、浅川をあわせる。これら本・支流が山地を離れる所に青梅(おうめ)、五日市(いつかいち)、八王子の谷口集落が成立している。川は山地を深く侵食して多摩渓谷、秋川渓谷など渓谷美を形成しているが、両岸には数段の河岸段丘が発達していて重要な生活舞台を提供している。日原川沿いには石灰岩があり、日原鍾乳洞(しょうにゅうどう)を形成するほか、現在の青梅市北部の成木(なりき)川(入間川支流)流域では白壁用として江戸時代から石灰が採掘されている。山地の東方には標高70~360メートルの加治、草花(くさばな)、加住(かすみ)、多摩の各丘陵が分布している。なお狭山丘陵(さやまきゅうりょう)のみは山地から分離して、台地の中にある。これらの丘陵は武蔵野台地と同じ多摩川のつくった古い段丘であるが、台地より古い地質時代に形成され、樹枝状の侵食谷で開析され、多摩面(T面)とよぶ原形の平坦(へいたん)面は少なく起伏に富んでいる。多摩丘陵はニュータウンの建設で、切り土・盛り土で平坦地化され、自然の形状と異なった人工地形を呈している。なお狭山丘陵内の侵食谷は出口がせき止められて多摩湖とよぶ上水道用の人工池となっている。
 西部の大半は武蔵野台地とよぶ平坦な面で、青梅の中心市街地を頂点として扇形に広がっている。最高点は190メートルで、東方に低下し、末端は20メートル前後の高度に終わっている。武蔵野台地の東方、標高約50メートルの所に、石神井(しゃくじい)、善福寺、井の頭(いのかしら)などの湧水(ゆうすい)池が南北方向に並んでいる。この湧水帯を境として、東部と西部では地形や地質がやや異なっている。その東部を山手(やまのて)台地とよんでいる。
 山手台地は多くの侵食谷で刻まれ、坂の多い山手景観をつくりあげている。不忍池(しのばずのいけ)に流れ込む藍染(あいぞめ)川(谷田川)、神田川(平川)、赤坂溜池(ためいけ)のあった谷、金杉(かなすぎ)川(上流は渋谷川、下流は古川)、目黒川などの侵食谷によって、赤羽(あかばね)・上野台、本郷・豊島(としま)台、淀橋(よどばし)台、赤坂・麻布(あざぶ)台、芝・白金(しろかね)台、荏原(えばら)台、田園調布・久ヶ原(くがはら)台など小さな台地群に分かれている。これらの台地群のうち、赤羽・上野台、本郷・豊島台、田園調布・久ヶ原台は武蔵野台地の西部と同じように古多摩川が削った所で、その面は武蔵野面(M面)とよばれる。それ以外の台地は、やや標高が大きく、古多摩川が削り残した、より古い地質時代の浅海の海底面で、下末吉面(しもすえよしめん)(S面)とよばれる。
 武蔵野台地の南端、国分寺や深大寺(じんだいじ)を結ぶ所に明瞭(めいりょう)な崖(がけ)が連なっている。これを国分寺崖線(がいせん)とよぶが、ここには湧水がみられ、清流が流れ、ハケとよぶ景勝の地になっている。この崖線から南部は一段と低い平坦面で、立川面(たちかわめん)(Tc面)とよぶが、形成の時期は新しい。この立川面の南は、多摩川の沖積平野である。
 山手台地の崖をみると、最上部には植物の腐植分が交じった表土(約1メートルの厚さ)があり、その下に関東ロームとよぶ赤土の層がある。この赤土は約5万年前、箱根火山が噴出したときに、西風によって運ばれた火山灰や軽石が堆積(たいせき)したもので、多孔質で水を通す。雨が降ると泥となり、乾燥すると風で吹き飛ばされ、冬には霜柱が立つ。この土は根菜類の栽培に適し、近郊野菜園芸地域となっている。
 山手台地の東端は、赤羽―上野―皇居―芝―品川の御殿山(ごてんやま)を結ぶ所で、明瞭な崖で終わる。ここから東方は下町とよぶ沖積平野である。ここは、かつて台地が続き、隅田川(すみだがわ)や中川、江戸川などの侵食谷が形成されたが、その後に海面が上昇して沖積層によって埋められてできた土地である。したがって、もとの谷の所は沖積層が海面下30メートル余りにも達し、軟弱な青灰色の泥層がある。明治以後、工場やビルの地下水がくみ上げられたため地盤沈下をおこし、隅田川と荒川の間はゼロメートル地帯とよばれるように、海面より低くなり、高潮の際には湛水(たんすい)をすることがたびたびおこった。そのため地下水のくみ上げを禁止また制限し、防潮堤や水門をつくって災害から防ぐようにしている。
 南の太平洋上の諸島は海底火山の噴出による島で、大島の三原山(みはらやま)や三宅(みやけ)島のように現在も活動している火山もみられる。火山島のため、飲用水を得ることはむずかしく、水田となる低地はほとんどなく、また島の周りは海食崖の絶壁の部分が多く、良港も得にくい。しかし、自然美と温暖な気候によって観光の島となっている。
 自然公園には、国立公園として、山岳美の秩父多摩甲斐国立公園(ちちぶたまかいこくりつこうえん)と、海岸・火山美の富士箱根伊豆国立公園および小笠原国立公園の三つがある。前者は奥多摩町と檜原村を主とし、おもな観光地に奥多摩湖、日原鍾乳洞、鳩ノ巣(はとのす)渓谷、御岳山(みたけさん)と御岳渓谷、秋川渓谷、数馬(かずま)の集落がある。伊豆諸島のうち、硫黄(いおう)島、青ヶ島などを除く伊豆七島が富士箱根伊豆国立公園に属している。小笠原は東京から南に約1000キロメートル離れた島で、アメリカ軍の占領下にあったため開発は後れたが、昔ながらの自然が残され、熱帯的で南国情緒はいっそう豊かである。2011年(平成23)、小笠原諸島はユネスコの世界遺産の自然遺産に登録された。
 国定公園として、明治の森高尾国定公園がある。都心から一時間たらずの交通至便な地にありながら、植物や鳥などの種類が多い自然公園となっている。
 都立自然公園は、多摩の山地および武蔵野の台地や丘陵に残された自然を生かしてつくられ、多摩丘陵、高尾陣場、滝山、狭山、秋川丘陵、羽村草花丘陵の六つの自然公園がある。[沢田 清]
気候
本土の地区は太平洋側の東海・南関東型気候区に属し、温暖で恵まれた気候である。東京は年平均気温16.3℃、最暖月8月は27.4℃、最寒月1月は6.1℃で年較差は21.3℃を示す。年降水量は1529ミリメートルで、梅雨および台風・秋雨時に集中する。冬は乾燥し、冬季3か月の降水量は1年間の10%にすぎない。秩父おろし、筑波(つくば)おろしとよばれる季節風が吹いて、体感温度は低くなり頬(ほお)を切るような冷たさを感ずる。この寒風を防ぐため武蔵野の農家はケヤキ、カシ、タケなどの屋敷林を植えてきたが、現在も青梅街道・五日市街道沿いの農村は美しい屋敷林の並木を残している。西部の山地は寒暖の差が激しくなり、とくに日射量の少ない北向きの日陰(日影)斜面の谷は、南向きの日向(ひなた)斜面に比較して寒さが厳しい。
 太平洋上の島嶼では黒潮に洗われて海洋性気候を示し、冬も温暖で霜をみることはまれである。とくに小笠原諸島は緯度30度以南で亜熱帯気候区に属し、常緑広葉樹やサンゴ礁など南国の景観を示している。台風など暴風雨が多く八丈島の年降水量は3000ミリメートルを超えている(以上、1981~2010平均)。そのため島の民家は石垣や防風林で囲まれている。[沢田 清]

歴史


先史
約5万年ほど前、箱根山が噴火し東京軽石層を堆積(たいせき)させた。東京において旧石器(先土器)文化の遺跡が多くみられるのは立川ローム層の堆積が始まった約3万年前からである。この時代の遺跡は、小平市鈴木、板橋区茂呂(もろ)など、多摩川支流の野川といった中小河川の流域、山手(やまのて)の台地縁辺から発見されている。
 約1万2000年前から気温の上昇による植生の変化が生じ、縄文土器製作が始まる。あきる野市前田耕地遺跡からは文様のない初源的な土器が出土している。また海進もみられ貝塚などが形成された。1877年(明治10)モースによる大森貝塚の発見は有名である。この時代の文化を縄文文化とよぶ。紀元前3世紀に始まる弥生文化(やよいぶんか)は、水田稲作を中心とするものであるが、文京区弥生町から出土した土器にその名は由来する。環濠集落の北区飛鳥山(あすかやま)、方形周溝墓の多摩ニュータウンなどが代表的遺跡である。
 紀元後4世紀から7世紀の古墳時代に入ると、多摩川流域には古墳群が造営された。大田区田園調布の亀甲山古墳(かめのこやまこふん)など大型の前方後円墳、世田谷区野毛古墳群の帆立貝形古墳などがそれである。
 また『国造本紀(こくぞうほんぎ)』には、国造(くにのみやつこ)とよばれる大豪族として无邪志(むざし)、胸刺(むなざし)、知知夫(ちちぶ)の名前があり、『日本書紀』には、武蔵国造の笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が同族小杵(おき)と争い、朝廷の直轄領である屯倉(みやけ)として4地区(うち3地区は多摩川流域と推定)を献上したことを記している。[熊井 保]
古代
大化改新(645)により武蔵国は東山道(とうさんどう)の一つとして創設された。のち771年(宝亀2)東海道に転属した。武蔵国は久良(くらき)、都筑(つつき)、橘樹(たちばな)、多麻(たま)、荏原(えばら)、豊島(としま)、足立(あだち)、入間(いるま)、比企(ひき)、横見(よこみ)、埼玉(さきたま)、大里(おおさと)、男衾(おぶすま)、幡羅(はら)、榛沢(はんさわ)、那珂(なか)、児玉(こだま)、賀美(かみ)、秩父(ちちぶ)の19郡からなっていたが、8世紀に高麗(こま)、新羅(しらぎ)(のち新座(にいくら))の2郡が新設されて21郡となった。現在の東京都は、多麻、荏原、豊島の3郡、足立郡の南半分、新座郡の一部、伊豆国所属の伊豆諸島、小笠原諸島、下総(しもうさ)国葛飾郡の一部にあたる。郡のもとに郷があり、多摩10郷、荏原9郷、豊島7郷であった。狛江(こまえ)、蒲田(かまた)、荏原、桜田、湯島などの郷名は今日に至っている。
 古代の武蔵国は、高麗・新羅2郡の創設にみるように渡来人の果たした役割は大きく、深大寺(調布市)・国分寺(国分寺市)の創建、地方政庁の国衙(こくが)(府中市)の建設、牧畜・養蚕機織(はたおり)など先進技術を駆使している。
 農民が負担するものは、租(そ)の稲、調(ちょう)の麻布、紫(むらさき)、茜(あかね)、薬草、貢馬などである。紫・茜は染料で武蔵国の特産物となっていた。ほかに九州防衛のための防人(さきもり)の徴発があった。これは『万葉集』に東歌(あずまうた)・防人の歌として収録されている。[熊井 保]
中世
武蔵における中世社会は、牧(まき)、封戸(ふこ)、荘園(しょうえん)を基盤とした武士の発生に始まる。武蔵国には兵部(ひょうぶ)省・左馬寮(さまりょう)などの官営牧場があり、管理人に在地土豪が任命された。東大寺・西大(さいだい)寺の封戸もあったが、国司は貢租を封主に渡さず、封戸の制は乱れ、荘園化していった。平安末期まで存続した荘園には、豊島荘、葛西(かさい)荘、江戸荘、小山田荘、横山荘などがあった。彼らは国司に従わない地方有力者であり、群盗・(しゅうば)の党であった。
 10世紀の平将門(まさかど)の乱後、坂東八平氏(ばんどうはちへいし)(武蔵の秩父氏、相模の中村氏・三浦氏・大庭(おおば)氏・梶原氏・長尾氏、下総の千葉氏、上総の上総氏)とよばれる桓武(かんむ)平氏が東国に勢力を扶植した。江戸・豊島・葛西の3氏は秩父氏の流れであった。江戸氏は現在の中央区・千代田区、豊島氏は豊島区・板橋区・練馬(ねりま)区・北区、葛西氏は葛飾区・江戸川区を中心としていた。
 このほか武蔵七党とよばれる武士団があり、横山党(八王子市中心)、村山党(村山・狭山(さやま)地方)、西党(日野市・多摩市)が東京都と関係が深い。
 鎌倉幕府は、府中(府中市)に国衙を置き、鎌倉街道の整備、荒野の開発などを行うため北条氏一族を武蔵守(かみ)に任命していた。幕府御家人(ごけにん)の武蔵武士は、江戸(千代田区)、石神井(しゃくじい)(練馬区)、千束(せんぞく)(大田区洗足(せんぞく))、立河(立川市)などの郷地頭として郷村支配を行っていた。
 古代・中世における府中は、武蔵の政治・経済・文化の中心であったが、江戸氏と太田氏の出現によって江戸郷の発展が生じ、府中の武蔵に占める地位は江戸にとってかわられた。江戸氏の居館が営まれた江戸は、荏原郡桜田郷の漁村の台地上に位置し、要害の地であった。戦国時代に入り、太田道灌(どうかん)は濠(ごう)と橋による曲輪(くるわ)形式の築城をしている。江戸城下の平河は、南の品川、東の浅草とともに発展をした所である。江戸は古利根川・古荒川・入間川流域の河川交通と海上交通の接点であり流通の拠点であった。関東各地から米・雑穀・絹・麻布が江戸に集積され、海船により鎌倉・伊勢・畿内へ運ばれた。関東へは国産陶器、中国から輸入の磁器などが運ばれた。
 1486年(文明18)扇谷(おうぎがやつ)上杉定正(さだまさ)の重臣であった道灌は讒(ざん)により定正に謀殺され、扇谷・山内(やまのうち)両上杉家の抗争を引き起こした。1524年(大永4)小田原(おだわら)の北条氏綱(うじつな)は江戸城を攻取したあと、1546年(天文15)扇谷上杉朝定(ともさだ)を川越(かわごえ)で滅亡させ、1552年山内上杉憲政(のりまさ)を越後(えちご)に敗走させている。後北条氏(ごほうじょううじ)の武蔵支配は、江戸(遠山綱景)、八王子滝山(北条氏照(うじてる))に支城を置いていた。1559年(永禄2)の「小田原衆所領役(やく)帳」には家臣ひとりひとりの軍役高が記されているが、東京都下に含まれる郷村170がみえる。後北条氏はこれらの郷村に軍役、伝馬(てんま)役、普請(ふしん)役などの諸役を課していた。
 1590年(天正18)の小田原合戦に先だち、4月には江戸城の明け渡し、6月には八王子城の落城によって、後北条氏の武蔵支配は終了した。[熊井 保]
近世
1590年8月朔日(ついたち)、徳川家康は江戸城に入城したという。当時の城は荒れ果てており、東には潮入りの茅(かや)原、南には日比谷(ひびや)の入り江が迫っていた。家康は、江戸を関東8か国の中心的城下町に改造するため、低湿地埋立てによる家臣屋敷地の造成、道三堀(どうさんぼり)の開削、橋の架設などを行った。1603年(慶長8)家康は征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となり、江戸に幕府を開くと、諸大名に命じて街区の整備に着手した。石高(こくだか)1000石に1名の人夫(にんぷ)(千石夫(せんごくふ))を差し出させ、神田山を切り崩し、その土で日比谷入り江を埋め立てた。尾張(おわり)町・加賀町などは担当した大名の国名から名づけられたものである。
 江戸の町は、江戸城を中心として「の」の字形の右渦巻状に発展した。城の周辺には譜代(ふだい)大名の屋敷地、外様(とざま)大名の屋敷地、旗本(はたもと)・御家人の屋敷地が取り囲み、日本橋と並行して南北に走る道路の両側に町人地が配置されていた。人口が増大しても「の」の字形の堀を延ばし、城から放射状に延びる五街道(ごかいどう)(東海道、中山道(なかせんどう)、甲州道中、日光道中、奥州道中)との組合せを作成すればよかったのである。寛永(かんえい)年間(1624~1644)までに約300町が開発され、古町(こちょう)とよばれた。
 大規模な城下町を完成するためには上水の確保が必要であった。入国当初は千鳥ヶ淵(ちどりがふち)、赤坂溜池(ためいけ)などを使用していたが、のちには神田、玉川、本所、青山、三田(みた)、千川(せんかわ)の上水が開かれた。玉川上水は1653年(承応2)、羽村(はむら)(羽村市)から四谷大木戸(よつやおおきど)まで約40キロメートルを素掘り、大木戸より府内へは石樋で地下を通し配水している。神田・玉川両上水は、分水路によって武蔵野台地の飲料水・灌漑(かんがい)用水を供給した。野火止用水(のびどめようすい)はその例である。
 1657年(明暦3)振袖(ふりそで)火事(明暦の大火(めいれきのたいか))が起こり、市街の6割を焼いた。江戸復興計画は、江戸城内の大名屋敷を城外に移すこと、寺社の移転のほかに、防火対策として火除地(ひよけち)、広小路を各地に設置することであった。1659年(万治2)本所築地奉行(つきじぶぎょう)を置き、本所・深川地域の開発が進められた。
 明暦大火後、芝・三田・飯倉(いいぐら)から浅草・下谷(したや)に至る街道筋の町屋を町並地として町奉行支配に組み込み、古町とあわせて674町となった。1713年(正徳3)本所・深川・山手の町屋259町を町並地とし、従来の674町とあわせて933町とした。1745年(延享2)には寺社門前を町奉行支配に編入し、江戸の総町数は1678町になった。1869年(明治2)の面積比率は、武家地68%、寺社地16%、町人地16%であり、人口の半分が町人地16%の土地に集中していたのである。
 江戸の人口は、1695年(元禄8)町方だけで35万人に達し、1721年(享保6)には50万人を超えている。これにほぼ同数の武家人口を加えると100万人を超えることになり、江戸はパリ、ロンドンをしのぐ世界一の都市人口を擁していた。
 町屋の拡大は、御府内の範囲の混乱をもたらしたため、1818年(文政1)統一見解が出された。寺社に募金を許す勧化場(かんげば)および迷子などの掲示をする範囲を朱引内(しゅびきない)と称した。この区域は、南から西へ南品川町、大崎村、代々木(よよぎ)村、角筈(つのはず)村、落合村、長崎村、北から東へ板橋村、滝野川村、尾久(おぐ)村、千住(せんじゅ)中村町、木下川村、亀戸(かめいど)村、小名木(おなぎ)村、太郎兵衛(たろべえ)新田村の内側であった。町奉行支配地は黒線で示されたが、目黒の辺が朱引よりすこし飛び出ているだけで、すべて朱引線の内側であった。
 江戸の町は、南北の両町奉行所が隔月に執務し、町奉行の下に樽屋(たるや)、奈良(なら)屋、喜多村(きたむら)の3家が町年寄として町名主を統括していた。町には町名主が置かれ、1人で十数町も支配する者もいたが、御触(おふれ)の伝達、火の元の取締り、調停の斡旋(あっせん)などを担当していた。町には地主・家持(いえもち)層の町人と店子(たなこ)とよばれる大ぜいの地借(じがり)・店借(たながり)がいた。地主・家持に雇われて土地と長屋(ながや)を管理するのが大家(おおや)であった。
 喧嘩(けんか)と並んで江戸の華とされた火災対策のため17世紀には大名火消・定(じょう)火消が編成され、江戸城と武家屋敷の防火にあたった。町火消も享保(きょうほう)年間(1716~1736)には整備され、いろは四十七組が編成された。
 江戸の周辺部は、財政と防衛体制の確立のため、郡代(ぐんだい)・代官支配の幕府直轄地と旗本の知行(ちぎょう)地が点在している。1649年(慶安2)の「武蔵田園簿」によると、現在の東京都にあたる村数は、豊島郡91、荏原郡79、葛飾郡192、多摩郡319、合計681か村である。多くの村は1村が数人の領主(旗本など)に分割支配されていた。伊豆代官の支配を受けていた伊豆諸島は、大島・新島(にいじま)・神津島(こうづしま)・三宅島が塩年貢、利島(としま)・御蔵島(みくらじま)・八丈島が絹年貢であった。
 江戸の市街化を進めることは、後背地の関東農村の経済力を高めることを必要とした。利根(とね)川・荒川の流路を整備し、新田開発を行っている。江戸川区内の宇喜(うき)(田(た))新田・一之江新田などは土豪開発によるものであり、江戸東部に水田地帯を形成していった。一方、江戸西部の武蔵野台地は畑作地である。8代将軍吉宗(よしむね)(在職1716~1745)のとき、関野新田開発場(小金井市)に陣屋が設けられ武蔵野新田の開発が行われた。青梅街道・五日市街道沿いに屋敷・畑・林が短冊型に地割された景観が続いているが、いずれも新田開発によったものである。
 人口100万人を超える江戸は巨大な消費都市であった。米は、幕府領年貢が浅草御蔵(おくら)に納められ、払い米として市中に出されたほか、諸藩の蔵米や地廻(じまわ)り米など約200万石にも達した。食料、衣料、燃料、建築資材に至るまで上方(かみがた)から下(くだ)り物として菱垣廻船(ひがきかいせん)・樽(たる)廻船で運ばれ、各種問屋から市中へ流れた。生鮮食料品は近郊の農漁村から提供されている。小松川のコマツナ、砂村ネギ、練馬ダイコン、内藤トウガラシなどの名産品があった。これらの肥料には江戸市中の下肥(しもごえ)が使用された。海産物には浅草海苔(のり)があった。江戸時代も後期になると、八王子・青梅周辺は絹・縞(しま)織物が盛んとなり、開港を契機として養蚕・製糸業は武蔵野台地の畑作地帯に展開していった。
 1855年(安政2)の大地震は、江戸に明暦大火以来の被害をもたらしたが、その復興の過程で開港と将軍継嗣(けいし)問題が政治問題となり、日本国内は尊王攘夷(じょうい)派と佐幕派に分かれ、政局は混乱していった。さらに1866年(慶応2)武州一揆(いっき)も起きている。1867年ついに幕府は大政を奉還し、政局の打開を図ろうとした。[熊井 保]
近・現代
1868年(慶応4)4月、討幕軍は江戸に入城し、徳川慶喜(よしのぶ)は水戸へ退去した。7月、江戸を東京と改称し、旧朱引内を管轄していた市政裁判所が東京府となった。9月に明治と改元され、江戸城を皇居とし、東京城と改称した。こうして東京には近代日本の首都たる基礎が与えられた。
 現東京都域は、旧江戸を支配地域とする東京府のほかに、神奈川県、品川県、韮山(にらやま)県、小菅(こすげ)県、大宮県などが混在していた。1871年(明治4)の廃藩置県にあたり、旧東京府のほか荏原・豊島郡と多摩・足立(あだち)・葛飾郡の一部が加わって東京府が成立した。戸数19万8001、人口77万9361。東京を江戸の範囲としていた考えから、その周辺の村々も含めて東京と考えるようになった。多摩郡の大部分は神奈川県に加わった。1878年、郡区町村編制法が制定され、多摩郡を東西南北の4郡に、豊島郡を南北の2郡に、足立・葛飾郡のうち東京都域内分を南足立郡・南葛飾郡に分け、荏原郡を加えた9郡が成立した。東京府内は麹町(こうじまち)、神田、日本橋、京橋、芝、麻布、赤坂、四谷、牛込、小石川、本郷、下谷、浅草、本所、深川の15区に分けられた。同年には伊豆七島が静岡県から移管された。1880年には小笠原諸島が内務省から移管された。
 1889年の市制・町村制の施行により、江戸期以来の村名は新たに編成された町村の大字(おおあざ)となって残った。このとき東京市は誕生するが、京都・大阪とともに市制特例法により府知事が市長を兼任していた。1893年、神奈川県より北多摩・南多摩・西多摩の3郡が東京府に編入された。東京府民の飲料水としていた玉川上水の水源管理を目的としたものであった。1898年に東京市はようやく自治制を獲得した。
 東京の市街は、わずかに1872年の銀座煉瓦(れんが)街の計画があった程度で、江戸の様相を残していた。市区の改良を目的として1888年東京市区改正条例が設けられた。この都市計画は、道路・橋梁(きょうりょう)・河川を整備することであり、水道・家屋・下水はあとにされた。建築物については1919年(大正8)「市街地建築物法」が制定された。この試練は関東大震災であった。
 1923年の関東大震災は、明治以後の「文明開化」や下町の古いものを焼き尽くし、府下の全壊・焼失家屋39万8000戸、死者6万8000人、行方不明者3万9000人余に及んだ。帝都復興には数年を要して土地区画整理事業、街路・運河・公園の新設改修、町界・町名・地番の整理が行われ、江戸や明治のおもかげは少なくなった。
 市街の過密化に伴い東京周辺は郊外住宅地となっていった。私営鉄道で結ばれた郡部を東京の都市計画のなかに含めて考えられてきた。1932年(昭和7)荏原・豊多摩(1896年に東多摩郡と南豊島郡が合併)・北豊島・南足立・南葛飾の5郡82町村を東京市に合併した。これらは品川、目黒、荏原、大森、蒲田(かまた)、世田谷、渋谷、淀橋、中野、杉並、豊島、滝野川、荒川、王子、板橋、足立、城東、向島(むこうじま)、葛飾、江戸川の20区となり、東京市は旧15区とあわせて35区の大東京が実現した。人口566万。第二次世界大戦のさなか1943年、帝都行政一体化を理由として東京府・東京市が合一し東京都となった。
 占領下の1946年(昭和21)から1952年の講和条約発効までは、地方自治の民主化・分権化が推し進められた。1946年・1947年の東京都制の改正により、都知事・区長・市町村長の公選が実施され、35区は22区に編成替えを行い、板橋区から練馬区を分離した。これが現在の東京23区である。地方自治法の施行により、23区は特別地方公共団体として法人格が与えられ、市とほぼ同格の自治権を有する特別区として発足した。1952年、特別区の区長公選制は廃止となり、区の自治体としての性格は弱められた。その後、合理化・能率化の観点から地方自治制度の修正が行われ、都から特別区への事務移管とともに区長公選も1975年4月に復活した。都と区市町村との関係は次のようになっている。都は、市町村との関係においては、ほかの府県と同じ立場にたつが、特別区に対しては、市の事務の一部(消防・清掃・水道・下水道など)を大都市行政として行っている。つまり都は、府県と市との二つの性格をあわせもっている。なお、清掃業務は2000年(平成12)特別区へ移管した。
 ところで三多摩郡部は、1917年(大正6)市制施行の八王子のほか立川(1940)の2市だけであったが、第二次世界大戦後には武蔵野(1947)、三鷹(みたか)・青梅(おうめ)(1951)など次々と市制を施行し、1991年(平成3)に羽村市、1995年にあきる野市が発足したので町村は西多摩郡3町1村だけとなった。このほか、1968年(昭和43)6月には小笠原諸島が、アメリカ軍政下から復帰した。2001年(平成13)には田無市(たなしし)と保谷市(ほうやし)が合併して西東京市となり、2013年4月現在23区26市5町8村。[熊井 保]

産業

東京は日本の経済活動の中心で、第三次、第二次産業がおもな産業である。都の就業者総数は601万(2010)で全国第1位を占め、その産業別人口構成比をみると、第一次、第二次、第三次産業はそれぞれ0.4%、17.6%、82%となっている。都市化の進展した東京では奥多摩や島嶼(とうしょ)部を除くと第一次産業は著しく衰退しており、その比率は全国最下位である。第二次産業の比率も全国平均より低くなっている。第二次世界大戦後、全国第1位の生産額を誇った工業も2010年(平成22)現在、製造品出荷額は全国第15位に低下している。それは、工業の過集中に伴う種々の公害や過大都市問題を解決するため、1956年(昭和31)首都圏整備法が制定され、工場の新増設が禁止・制限されたため工場の地方分散が行われたからである。
 それらに対し第三次産業部門の増加は著しく、その比率は全国最高位を占め、商業販売額(2010)では全国の約33%と3分の1を占有している。第三次産業のなかで中枢管理機能の分野は最近とくに発達し、知識、情報、サービスなどソフト面に従事するサービス業の部門は東京に集中している。東証一、二部上場企業の90%以上が東京に本社機能をもち、資金調達や財務運用、支社・営業所・工場など自社組織の統率とコントロール、種々の情報収集や仕入れ・販売などの取引にあたっている。[沢田 清]
サービス業
東京は首都として政治・文化の中心であるとともに、3000万人に及ぶ東京大都市圏の巨大な人口集団を背景として経済の中心でもあり、中枢管理機能をもつサービス業の発展は著しい。それは全国の中枢だけではなく、現在ではニューヨーク、ロンドンと並ぶ国際的な中枢の一つとして活躍を続け、日本に進出した外国法人の80%以上は東京に集中している。
 サービス業は、洗濯、旅館、理容、娯楽業などの個人関連サービス業、映画製作、情報サービス、調査、広告、各種物品賃貸などの事業所関連サービス業、放送、学術文化団体、医療などの社会関連サービス業、および宗教団体、労働団体、政治団体などのその他のサービス業の四つに分けられる。事業所数では個人関連サービス業が全体の半数近くを占めているが、その比率は年々低下し、それにかわって事業所関連サービス業が増加している。この事業所関連のなかで情報提供、情報処理、ソフトウェアなどの情報サービス業は、1970年代の新設が多く、従業者数50人以上の大規模事業所が多数を占め、高度の技術革新(ハイテク)によって新しい時代をリードしている。
 近年、情報化および国際化の時代を迎えてサービス業の発展は急速であり、東京の占める重要性はますます高まっている。[沢田 清]
商業
第三次産業就業者の約2分の1を占める商業は、3000万の東京大都市圏の消費人口と、東日本を主とする卸売商圏を背景として活発な活動を続けている。東京には25万6000の商店があり、約221万2000人の従業者が働き、年間198兆円(1994)の販売額を示している。それらの全国比は商店数・従業者数では人口と同じように10%台であるが、販売額では約30%で、売上高の多い大型店が多数あることを示している。
 卸売業は多種大量の消費物資や産業用機具を供給するもので、円滑な商品の流通を行うためには情報の収集がなにより必要であるが、東京は情報機能がきわめて高い地位を占めており卸売業の発展に有利である。全国の卸売業における東京の占める割合は、商店数で14.7%、従業者数で20.5%、さらに販売額で34.6%(1994)と全国第1位を占め、とくに販売額では3分の1を超えている。
 卸売業のなかで各種商品を扱う総合商社などの卸売業は全卸売業販売額の41.2%を占め、対全国比は79.9%にも達している。ついで化学製品、衣服・身の回り品、電気機械器具の卸売業は対全国比で30%以上を示し、工業で機械工業の比重の高いことと、文化の中心として衣服関係の多いことがわかる。一方、繊維品関係の比率は低く、大阪に第1位を譲っている。
 これら卸売業は、江戸時代から伝統的に町屋が集中し商業活動の盛んであった下町の中央区、産業革命後ビジネス街として発展した大手町・丸の内の千代田区および港区の都心3区を主要とし、この3区で44%に及ぶ販売額をあげている。千代田・中央区は大手商社や大手メーカーの販売会社など大規模な商社が集中して事務管理機能を果たし、倉庫や運輸などの機能は周辺の物流センターへ分散している。一方、文京・台東・中央区では製造販売という形式をとり、問屋制商業資本のもとで相互に補完しあう中小規模の地域集団を形成している。問屋の地域集団としては、日本橋堀留(ほりどめ)地区の織物、馬喰(ばくろう)・横山地区の衣料・雑貨、日本橋本町の薬品、蔵前(くらまえ)地区の玩具(がんぐ)などがあり、特定商品について高い販売シェアを有し、江戸時代以来の昔ながらの問屋街を形成している。出版印刷と理化学機械の文京区も東京にふさわしい地域集団である。これらの商店は店舗、事務所、倉庫、住宅などの機能が分離せず一つの建物内にみられたが、近年では多種大量の商品に対応し、住宅や倉庫を郊外に分散する傾向がみられる。
 小売業も商店数、従業者数、年間販売額ともに全国第1位であるが、全国に占める比率は9%から12%で卸売業に比べて低い。また最近の伸び率は全国に比べて低く、埼玉・千葉など隣接県での著しい伸びが目だっている。小売業では飲食料品の販売が多く4万9000店(1994)で全体の40%近くを占め、販売額も4兆6000億円で全体の26%を占める。各種商品を総合的に取り扱う大型量販店(デパートやスーパー)は店舗数で333と少ないが、販売額では3兆8000億円(1994)と全体の22%にも及んでいる。
 飲食業は1992年(平成4)現在、商店数は約6万、年間販売額は約2兆8000億円となっている。飲食業では食堂・レストランがもっとも多く、それに喫茶店を加えると全体の73.3%にも及び、ビジネスや憩いの場として重要な役割を果たしている。[沢田 清]
工業
第二次世界大戦後、大阪府を抜いて全国第1位の出荷額を誇った東京は、隣接県などへの工場分散によって、その地位を低下し、1995年には愛知、神奈川、大阪に次いで第4位となっている。しかし中小零細規模の工場は地方分散の傾向が少なく、工場数3万4512や従業者数66万6254(1994)は依然として全国第1位を占めている。大規模の近代工場は川崎・横浜の臨海地区や周縁の内陸部に広くて安い土地を求めて立地移動したため、大規模な工場の少ないことが特色で、工場のうち64%は従業者4~9人の小規模形態である。出荷額(従業者4人以上、1994)は約19兆円で、全国における比率は6.5%と戦後の最高時(1960)の16%近くの比率(全国第1位)と比べると、その低下は著しい。しかし隣接県の工業のかなりの部分は、東京に本社など中枢機能をもち、また外注や関連部品を巨大な東京の中小企業集団に依存していることを考えると、東京の工業は範囲を広げて南関東の1都3県で考えるべきである。この範囲でみると出荷額は69兆1000億円となり、全国の23.1%にも及ぶ。
 東京の工業の業種別構成を出荷額でみると、機械工業は8兆2200億円で全体の42.5%を占め、全国平均を上回っている。そのなかで、電気機械は4兆5800億円で神奈川県に次いで高く、精密機械は7000億円で第2位の長野県の2倍近くを示し、カメラ、時計、顕微鏡などで全国の約4分の1のシェアとなっている。この機械工業に金属製品を加えた組立工業では2分の1近くとなり、多くの外注・下請・関連企業に支えられた総合工業地帯の特色をもっている。工業の素材を供給する鉄鋼、非鉄金属、化学、石油・石炭製品の素材工業は全体の10.3%とその比率は低い。この素材工業は神奈川・千葉の臨海工業地区が東京にかわっているのである。消費財(軽)工業は、江戸時代からの伝統と首都(政治・文化・経済の中心)、それに巨大な消費人口を背景として活発で、おもに中小工業が生産の主体となっている。そのなかで出版印刷工業は5兆3000億円で全国の42.7%と半分近くを占め、東京の工業のなかでもっともシェアの高い工業で、千代田・新宿・中央区を中核としてその周辺に集中している。それに次いで食料品工業が1兆3000億円と多い。皮革工業は出荷額では大きくないが、全国比は30.2%と出版印刷業に次いで高く、流行の先端をゆく東京製品として全国的に高い評価を得ている。東京で全国比の低いもので注目をひくのは繊維工業で全国のわずか0.8%しか生産されない。しかし、近年では青山、渋谷を主として先鋭なファッション産業として特異な需給を成立させている。
 東京の工業は組立工業と文化的な消費財工業に特色があり、零細・中小規模で巨大な企業集団によっている。工業というよりは、むしろ商業的な色彩をもち、地場産業といった形で特定の地区に集積してみられる。出版印刷関係は都心に、各種の機械や金属製品関係は大田・品川・目黒区の城南および板橋区の城北に、メリヤス、衣服、皮革製品、装身具、ガラス器具、化粧品・薬品などは台東・墨田(すみだ)・荒川区を主とする江東(こうとう)に集積し、港・渋谷区にファッション産業が進行している。これらの地場産業に依存しているのが東京の特色で、巨大で多様性に富み、多大な付加価値をあげている。なお、国の伝統的工芸品指定品目として村山大島紬、本場黄八丈、多摩織、東京染小紋、江戸木目込人形、東京銀器、東京手描友禅、江戸和竿、江戸指物、江戸からかみ、江戸切子、江戸節句人形、江戸木版画がある。[沢田 清]
農林水産業
東京の農家数は1万0367戸と全国最下位であり、耕地面積の8408ヘクタールも全国最下位である(1995)。しかし、奥多摩の山地や島嶼(とうしょ)部での重要な産業であるだけではなく、都市化の進展した平地部においても都市農業・近郊農業として新鮮な野菜や花などの供給でだいじな役割を果たしている。すなわち、軟弱野菜といわれる新鮮さをなによりも要求される生鮮野菜をみると、アシタバ、ツマミナ、ウドが全国各地から入荷される東京市場で都内生産のものが第1位を占め、次いでコマツナ、ツケナ類が第2位となっている。したがって緑黄野菜の都内自給率は10.1%と高い。
 専業農家は全農家の13.9%(1995)を占め、全国平均の16.1%に近い。北陸4県や青森・岩手を除く東北4県の10%以下よりも高いが、それは島嶼部や生産性の高い近郊農業地域が存在しているからである。
 1戸当りの経営面積は0.59ヘクタールで、大阪に次いで全国でも低く、全面積に対する耕地率の5.2%は全国最低であり、かつ0.5ヘクタール未満の農家は全農家の2分の1以下である。その従業者も60歳以上の老人が約3分の1を占め、著しく高齢化している。
 島嶼では、キヌサヤエンドウや観葉鉢物、パパイヤなどの熱帯果樹など市場向けの集約的栽培のほか、従来のサトイモ、サツマイモなど自給的な作物の栽培も行われている。
 養蚕や畜産は1965年をピークとして大きく減少し、卵や食肉は都民消費量のわずか1~2%、牛乳でも4%しか生産されていない。
 森林は奥多摩の山地を主としており、とくに青梅林業の名で知られるスギやヒノキが中心で、素材を供給するほか水源涵養(かんよう)、国土保全、環境浄化、保健休養などで重要な資源となっている。国有林は全体のわずか7.9%(1990)と低く、私有林・公有林が多い。林家数は7万2000戸と全国第10位であるが、素材生産量は第42位と低く、シイタケなど小規模な経営体が大多数を占めている。
 水産業は、島嶼でのアジとテングサ採取がおもで、東京都の約30%を占めている。ノリと生きのよい魚の漁場であった東京湾岸の水産業は、沿岸の埋立てと海洋汚染などによってほとんど姿を消し、わずかに観光漁業として残存している。島嶼では天然の良港が少ないうえ港湾施設の整備も十分でなく、漁家も零細で個人経営が97%を占めている。しかし、水産資源には恵まれており、零細な個人経営とあわせて、巨大人口の首都圏を背景にした観光漁業への発展が期待される。[沢田 清]
開発
東京都の開発は大きく二つの方向に分かれる。一つは区部を主とする人口過密地域における既成市街地の再開発であり、他は奥多摩や島嶼部における開発の遅れた地域の環境の整備である。
 既成市街地では、自動車の飽和時代を迎えて交通混雑、騒音、大気汚染など生活環境が悪化し、加えて地価高騰のため住民は郊外へと移動して、夜間人口の減少が著しい。また下町ではとくに家屋が密集するため、地震や津波など有事の際の災害が心配される。こうした既成市街地の生活環境の悪化を防ぎ、住みやすい環境をつくるための再開発が緊急の課題となっている。都心3区(千代田・中央・港)では住宅が事務所・商店などのビルに建てかえられ、夜間人口の減少はとくに激しい。人口減少を防ぐため、外堀や鉄道用地など公共空間を活用して、高層アパートの建設を進め、定住人口を増加させようと努めている。JR飯田橋駅に隣接する外堀の一部を埋め立てた高層アパートはその一例である。なお、著しく行政機能が拡大しいくつかの建物に分散した都庁は新宿の副都心に移転し、その跡地は国際会議を主とする国際フォーラムとなった。下町の江東地域では、災害から守るため、大工場や木場(きば)の移転跡地を活用して、住宅の高層化を進め、オープンスペース(公共空間)を広くとり、かつての貯木池であった堀割を親水公園とし、安全で快適な環境づくりに努めている。現在、江東区では住民の約半数が高層住宅に居住するという変容をみせている。山手では神田川水系をはじめとして中小河川の洪水時の溢水(いっすい)が激しいため、環状7号の地下に洪水調節池を掘り改善を図っている。
 都心への機能集中を避け、その機能を副都心へ移して、全体として調和のある発展を図ろうとする、一点集中型から「多心型」の都市構造への展開が進められている。都庁の新宿移転もその一環であるが、新宿―新しい東京ビジネス街、渋谷―明日の文化を生む街、池袋―飛躍する複合都市、上野・浅草―歴史と伝統がよみがえる明日の都市、錦糸町・亀戸(きんしちょうかめいど)―再生する下町文化副都心、の五つに加え、新しく大崎―先端技術の情報広場、13号埋立地―とうきょう未来空間、の計七つの多心型都市構造が提案され、臨海地域の再編整備を目指す「東京ベイエリア21」の構想も提示された。また、さまざまな再開発事業が行われ、アークヒルズ、恵比寿ガーデンプレイス、六本木ヒルズ、表参道ヒルズ、丸の内オアゾ、汐留シオサイト、秋葉原クロスフィールド、東京ミッドタウン、品川シーサイドフォレスト、東京スカイツリータウンなど、数多くの再開発地区が誕生している。
 奥多摩を主とする東京西部や島嶼部では、交通網の整備、下水道の完備、社会諸施設の整備が急がれている。なお、区部の自動車混雑を避けるため、各高速道路を結ぶ外郭環状道路の建設が長年の懸案となっているが、多摩地方の住宅環境を分断かつ悪化させるものとして反対の声が強い。区部の住宅地域や多摩地方の下水道化は急速に進行しており、河川の清流復活が目だっている。野火止(のびどめ)用水の清流も1984年工事の完成により復活をみている。[沢田 清]

交通

産業や文化・政治など諸活動の活発な東京は、その諸活動を支える交通でも全国・関東の中心として著しく発達し、その従業者数は約47万人、事業所数は約2万(1994)に達している。[沢田 清]
道路
日本橋は江戸時代から全国の街道の起点であり、東海道(国道1号および15号)、甲州街道(20号)、中山道(なかせんどう)(17号)、奥州街道・日光街道(4号)の五街道のほか、水戸街道(6号)、千葉街道(京葉街道)(14号)、川越街道(かわごえかいどう)(254号)、厚木街道(大山(おおやま)街道)(246号)、日光御成街道(にっこうおなりかいどう)(122号)が今日も関東および全国の主要街道として東京から放射状に広がっている。さらに青梅・五日市・中原の街道が主要地方道として、放射状道路の補助的役割を担っている。一方、東京の都心を囲む環状道路としては、かつて府中―鎌倉を結んだ小金井、府中、鶴川(つるかわ)などの街道があり、さらに国道16号があるが、放射状道路に比べて連絡が悪い。1975年ころから始まったモータリゼーションに対応して、東名・中央・関越・東北・常磐(じょうばん)・東関東・湾岸の高速道路が放射状に通り、都区内に1~11号の首都高速道路が開通している。なお1~8号の環状道路も整備されている。しかし、自動車交通の発達は交通渋滞をもたらし、歩行者専用道路、安全な歩道帯の設置、さらに大気汚染防止のための半地下式道路など改善が必要となっている。[沢田 清]
鉄道
自動車の発達に伴い、鉄道の斜陽化が引き起こされ、ことに貨物輸送では自動車が完全に主役となっているが、旅客の大量輸送では依然として鉄道は主要な交通機関である。JRは1872年(明治5)新橋(旧、汐留(しおどめ)貨物駅)―横浜(現、桜木町駅)開通以来発展し、東京駅は東海道本線、総武本線、東海道・東北・山形・秋田・北陸・上越新幹線の起点、上野駅は東北本線、常磐線(じょうばんせん)、新宿駅は中央本線の発駅として中心の役割を担っている。さらに首都圏と周縁部を網羅する電車線区として山手、埼京(さいきょう)、横須賀、京浜東北、武蔵野、京葉、南武、横浜などの各線が、また多摩地方に青梅、五日市の各線が通じる。
 私鉄は都市化の進展に応じて明治後期から開通を始め、関東大震災後は電化を進め、近年は地下鉄との相互乗り入れを図り、大量輸送を果たしている。東急、京王、小田急、西武、東武、京成、京急、埼玉高速、北総の各鉄道のほか、羽田空港へ東京モノレールが通じ、多摩市と東大和市を多摩都市モノレール線が通じる。1995年(平成7)には、東京港をレインボーブリッジでまたぎ臨海副都心に乗り入れる、新交通システム「ゆりかもめ」(東京臨海新交通)、2008年には日暮里・舎人(とねり)ライナーが営業運転を始めた。また、2005年には秋葉原と茨城県つくば市を最速45分で結ぶ「つくばエクスプレス」(第三セクターの首都圏新都市鉄道による)が開通した。日本初の地下鉄は1927年(昭和2)浅草―上野間に開通、第二次世界大戦前までは渋谷への延長のみであった。しかし戦後は、路面電車が急激な自動車発達によりその機能を果たせなくなったために、その代用として地下鉄が急速に開発され、いまでは東京メトロの銀座、丸ノ内、日比谷(ひびや)、半蔵門、千代田、東西、有楽町、南北、副都心の各線、都営の三田(みた)、新宿、浅草、大江戸の各線が通じている。1903年(明治36)品川―新橋間に私営の市街電車として出発した路面電車は、市電さらに都電として市内交通の中心の役割を担ったが、現在はわずか三ノ輪橋(みのわばし)―早稲田(わせだ)間の1線(荒川線・東京さくらトラム)のみとなっている。[沢田 清]
海運
江戸時代、河岸(かし)が下町を中心として建設され、河川交通が重要な役割を果たした。その後、鉄道時代を迎えて河川交通はさびれ、やがて国際間の海運が盛んとなるが、東京は依然として河港で、外港としての横浜間の連絡には京浜運河の建設が進められた。しかし、関東大震災のおり、救援物資受け入れのために、大型船が直接岸壁に横づけできる海港の必要性を感じ、岸壁の建設が始まった。現在では国内各地への発着港の竹芝桟橋(たけしばさんばし)のほか、日之出、芝浦の桟橋、さらに品川、晴海(はるみ)豊洲、有明、大型のコンテナ埠頭(ふとう)の大井、青海など各埠頭が埋立地に建設され、近代的海港として設備が完備し、東京港の年間の取扱貨物量は約8800万トン(2017)である。[沢田 清]
航空
羽田空港は1931年に開かれ、1952年東京国際空港となり日本の表玄関として活躍してきた。航空の発達に伴い1978年成田に新東京国際空港(2004年名称変更して成田国際空港)が開かれてから、羽田のほうは主として国内航空便用となったが、国際便も一部使用されてきた。2010年、国際線就航路線が大幅に拡大し、年間の乗降客数は東京国際空港約6680万人、成田国際空港約3279万人(2012年度)で、年によって増減はあるものの長期的にみれば増加している。両空港あわせて日本全空港の65%以上を占めている。なお東京国際空港の利用人数は世界で第4位(2012)、成田国際空港は取扱貨物量では世界第10位(2012)である。東京国際空港は2010年に開業した国際線ターミナルを拡張、2014年から供用を開始した。
 島嶼にあっては、時化(しけ)のおりに利用不可能な海港にかわるものとして空港が重要視され、大島、八丈島に定期便が就航している。また調布飛行場は民間軽飛行機の離着陸場として用いられており、三宅島、新島(にいじま)、神津島、大島の各島と結ぶ航空路線がある。立川の旧飛行場跡地は、アメリカから返還され、広域防災基地(一部を自衛隊が利用)および昭和記念公園となった。その北方には横田基地があり、アメリカ軍が使用している。[沢田 清]

社会・文化


教育文化
江戸時代、早くから幕府の保護を受けながら発展したのは昌平坂(しょうへいざか)学問所(昌平黌(こう))である。1630年(寛永7)3代将軍徳川家光(いえみつ)は侍読(じどく)の林羅山(はやしらざん)に上野の忍岡(しのぶがおか)に学舎を建てる準備をさせ、1632年尾張藩主徳川義直(よしなお)の援助で孔子廟(びょう)が創建された。元禄(げんろく)期(1688~1704)、5代綱吉(つなよし)の代に聖堂は忍岡から現在の地、湯島の昌平坂に移った。1797年(寛政9)呼称も昌平坂学問所と改め官学とし、林家(りんけ)以外の学者によっても朱子学のみが教えられた。江戸における藩校は大名屋敷内のいわゆる邸内学校で小規模なものが多かったが、江戸末期から武士の子弟に就学の義務づけがみられるようになる。その一つに備後(びんご)福山藩による誠之館(せいしかん)(本郷)がある。明治になり昌平坂学問所は新政府に引き継がれ、後の文部省や東京大学の母胎となる。なお豊前(ぶぜん)中津藩では1858年(安政5)福沢諭吉塾が鉄砲州(てっぽうず)(中央区)の藩邸内に開かれ、1868年(慶応4)芝に移り慶応義塾と命名、さらに1871年(明治4)芝から現在の地三田(みた)に移るが、これが私立大学として最古のものとなる。新政府は教育に情熱を捧(ささ)げ、教員養成機関として1874年お茶の水(現在の東京医科歯科大学の地)に東京師範学校を設立した。その後東京高等師範学校、東京女子高等師範学校に分かれ、前者は東京文理科大学、東京教育大学を経て筑波大学(つくばだいがく)、後者はお茶の水女子大学となる。近代化の進展とともに教育機関は整備され、東京は教育の中心地となっている。2008年(平成20)現在、東京には132(国立12、公立2、私立118)の大学と50(私立)の短期大学、4の高等専門学校がある。さらに各種学校、専修学校はそれぞれ178校、451校あり、とくに千代田区の神田(かんだ)地区に集中している。大学は規模拡大とともに都心からの遠心的移動が目だち、八王子市の多摩丘陵や隣接の諸県によい環境を目ざして新設されている。小学校は1870年の六つの小学校設立をはじめとし、2008年現在、国公私立あわせて1375校を数え、さらに中学校は822校、高等学校は447校(うち分校2)ある。一方、成人教育を目ざす社会教育、体育施設や図書館、音楽施設、それに就学前の幼児教育機関としての保育所や幼稚園などの施設も整っている。[沢田 清]
マスコミ
東京は日本の、さらに国際的な中心都市として中枢管理機能が集中し、情報化時代の中核にある。したがって、多種多様の情報を大量に、かつ迅速に多数の大衆に伝達するマスコミの発達が著しい。多くの学者、評論家、芸術家が東京または東京の近辺に住居を求め、東京に集まって互いに知識を交換し技術を練磨しあっている。これら学術・芸術の集まる組織として、国では学士院、芸術院、日本学術会議などがある。さらに民間の学術協会、美術・文学・芸能の諸団体などの過半数が東京に本部を置き、研究発表の際には日本各地から人が集まってくる。
 マスコミの機関として、新聞社、出版社の約8割は東京に集中し、地方の民間放送局の支社も東京にある。書籍全国総取次額の約9割を東京が占めるということも、いかに東京がマスコミの中核として活動しているかを示している。図書館では全国最大の蔵書数の国立国会図書館をはじめとして都立中央および各大学の図書館、さらに専門図書館としての東洋文庫、国立公文書館、点字・教科書・統計・印刷・自動車など多くの図書館がある。[沢田 清]
生活文化
東京の暮らしと住まいはきわめて多様であり、江戸っ子気質(かたぎ)、東京人、さらに原宿族など、古風なしきたりから、現代の風潮を先取りする若者層まで、日本の縮図がみられる。[沢田 清]
都心
千代田・中央・港の3区域が一般に都心といわれる。ここは業務管理機能や中心商業的機能が集積し、東京の核心を形成、さらに国の中心という意味から国心ともいわれている。都心的機能の集積によって地価が高く、立体的な利用によって高層化が著しく、また人の居住空間は減少し夜間人口の減少は著しかったが、高層住宅の開発などにより、1990年代半ば頃から増加傾向に転じている。千代田・中央・港の都心3区では、2010年(平成22)の夜間人口は約37万5000、昼間人口は約231万1000で、格差が著しい。コミュニティとしての条件が失われる傾向にあり、孤独感がいっそう強くなり、隣人は何をしているかわからないという都市環境が典型的に出現する。この地域では、新たな定住住民を吸引するため、新築ビルなどの建設の際、住宅を付置するよう指導している。また商店などを誘導し暮らしやすい生活環境を整えたり、住民が建物の建て替えをしやすくなるよう「街並み誘導型地区計画」を導入したりするなど、定住性を高めるための方策を検討している。
 中央区から千代田区、神田地区にかけては下町の商業地区の一部で、中小零細規模の店舗が多く、江戸情緒の深い江戸っ子気質の地区で知られてきたが、1960年代以降は住宅を郊外にもつ職住分離の傾向が著しくなり、ビル街化している。都心地区のなかでも港区は、千代田区に隣接する部分を除く大部分は住宅地区が広く、人口減少の比率は小さい。江戸時代は広大な武家屋敷地が多かったため、明治維新後は大使・公使館など外国公館の地となり、外国人の居住者がもっとも多い区となっている。[沢田 清]
下町
下町は住宅、商店、工場の混在する混合地帯を形成し、住宅地区の山手と好対照をみせている。ここは江戸町民の流れをくむ地域で、「し」と「ひ」が混同し巻き舌のべらんめえ調を含む下町ことばが使われる。江戸っ子の心意気は、浅草の三社祭や富岡八幡宮(とみおかはちまんぐう)の深川祭などの行事にとくに発揮される。また江戸時代から伝わる鳶職(とびしょく)の木遣唄(きやりうた)に、危険な仕事を恐れない侠気(おとこぎ)が感じられる。JRの鉄道交通網から取り残された浅草は往年の盛り場を盛り返そうと再開発に真剣に取り組んでいる。不死鳥の精神も江戸っ子気質の一つといえよう。植木市(いち)、朝顔市、ほおずき市、羽子板市、歳(とし)の市、酉の市(とりのいち)など江戸時代からの市も続けられ、その季節ごとの風物詩を醸し、江戸千代紙、浮世絵版画、履き物や鼻緒、足袋(たび)、櫛(くし)など伝統工芸品もたいせつに受け継がれている。また人情味厚く仁侠(にんきょう)・仁義(じんぎ)といった封建的ヒューマニズムも残っている。
 江戸時代、多くの文人墨客は郊外の素朴な風景を愛し、風流を楽しんだ。向島の百花園(ひゃっかえん)は大田南畝(なんぽ)(蜀山人(しょくさんじん))・谷文晁(ぶんちょう)などが四季折々の花を楽しみ、隅田川七福神巡りの一つ長命寺(ちょうめいじ)には江戸風流人の碑が残されている。深川芭蕉庵(ばしょうあん)跡や堀切菖蒲園(ほりきりしょうぶえん)なども江戸の名残(なごり)をとどめ、それらは現在も保存され、受け継がれている。[沢田 清]
山手
住宅地として好適な環境の高燥な山手台地は、明治以降、住宅地として開発され、下町が職人・商人の地であるのに対し、サラリーマンの住む地としての傾向が強い。東京と大阪は日本の二大中心であるが、大阪へは主として西南日本からの流入人口が多いのに対し、東京へは広く全国から流入してくるのが特色であり、その多くはサラリーマンとして山手の住宅街に居住し、いわゆる東京人となってきた。また通勤者のため職場と住宅とは分離し、関心は職場に向けられるため、居住地内の交際は疎んじられる。隣のことはいっこうに知らないというのは下町と好対照である。新宿、渋谷、池袋の副都心は、このような東京人を背景として成立してきた。
 下町が江戸時代以降の開発や、たびたびの火災で道路網は整然としているのに対し、山手は古くからの農道がそのまま都市道路に移行した傾向が強く、下町のように住宅密度は過密ではないが、交通混雑をきたしている。また都心へ向かう道路・鉄道網は整備されているが、南北など環状方向の整備は遅れ、環状7号や8号のように慢性的交通渋滞を起こしている。[沢田 清]
多摩
都区内に対し、かつて郡部であった地域で、北・西・南の旧多摩郡があったため三多摩ともよばれる。多摩地区のうち、武蔵野台地にある東半分は都市化が進んで、すべて市制を施行しているが、関東山地に属する西半分は奥多摩とよばれ、農林業に依存する町や村が存在して景観を異にする。
 平坦(へいたん)な台地に立地する東半部は、長い間、畑地や平地林、また牧場の地で、人口密度の低い農村地域であった。乏水性の地形のなかで、湧水に恵まれた狭山丘陵南麓や、台地末端に古くからの集落はみられるが、大部分の地は江戸時代以降開発された新田集落で、その歴史は新しく、都市化は関東大震災、第二次世界大戦を契機としている。したがって府中や八王子のように古くからの地方中心の都市は例外的で、多くは住宅衛星都市として東京の都区域に依存する都市が多い。ここでは古くからの農村に交じって大規模な住宅団地があるのが特色で、第二次世界大戦前に開発された国立(くにたち)や小平(こだいら)の学園都市、戦後になって開発されたひばりが丘(西東京・東久留米(ひがしくるめ)市)、神代(じんだい)・多摩川(調布市)、滝山(東久留米市)、久米川(くめがわ)(東村山市)、村山(東村山市)、多摩平(日野市)、めじろ台(八王子市)、鶴川・町田山崎(町田市)など整然とした計画の団地が存在している。さらに、1965年から開発の始まった多摩ニュータウンは全国でも大規模な団地で、面積約3000ヘクタール、計画人口約34万人である。これら都市計画に基づく団地のほかに、スプロールな開発地が広く、ここでは種々の社会施設が整備中である。
 奥多摩は、関東山地を深く刻み込んだ多摩川本流の谷とその支流秋川の谷を生活空間としている。谷にある河岸段丘面は狭く、山腹の緩斜面をも利用し、孤立的な環境がみられる。とくに南秋川の谷奥にある檜原村(ひのはらむら)数馬(かずま)は武田氏の落武者集落といわれ、堂々とした草葺(くさぶ)き屋根と大きな破風(はふ)をつけた民家は甲州系のカブト造りで、300年以上を経た家も現存している。
 奥多摩では伝統的な生業、しきたり、社会組織が近年まで維持され、獅子舞(ししまい)、神楽(かぐら)、豊作祈願の舞の式三番(しきさんば)など都の無形民俗文化財に指定される行事も多い。しかし、過疎化の進展は、それらを失う方向にある。豊かな緑と水の自然、それに素朴な人情、伝統ある家・食事・行事は、近代化した現在の社会にとっては、かけがえのない貴重な文化財である。川合玉堂(かわいぎょくどう)や吉川英治は奥多摩の地を愛し、その住居は美術館・記念館として保存されている。御岳(みたけ)山は古くから信仰の山として崇(あが)められ、参道沿いに御師(おし)の家や土産(みやげ)店が並び、山岳宗教の姿を残している。[沢田 清]
島嶼
長く流刑の地であった伊豆諸島で、江戸期における島民の生活は厳しかった。ムギ、アワ、サトイモが主食であり、そのほかクズ、ヤマイモ、アシタバ、シイの実、さらに魚を食料とした。1800年(寛政12)前後にはサツマイモが移植され、安定食物の一つとなった。幕府から若干の給米の代わりに、塩や黄(き)八丈などの絹が年貢として徴収された。飲料水は天水利用が主で、わずかな深井戸は非常用とされた。しかし島民の経済的な階級分化はあまりなく平等相愛を基調とした社会を構成し、農業と航海安全の神への祭礼には島をあげて願いと喜びを享受した。明治期に入り、簡易水道、電気、定期航路などの開設が進んだ。1953年離島振興法の制定により、港湾、教育や医療施設などの整備が進み、さらに航空便も開かれ、南国の島として観光産業が発達し、とくに夏は若者たちで民宿は満員となり、水泳や釣り、ダイビング、サーフィンなどのマリンスポーツの適地として人気が高い。
 小笠原諸島は19世紀、アメリカ、イギリスなどの白人、ハワイからのミクロネシア人、それに日本人などの移住により、歴史が開始された。1944年、戦争の激化により全島民約7000人の内地への強制疎開があり、要塞(ようさい)化された。第二次世界大戦後アメリカ軍の管理下に置かれたのち、1968年復帰、1970年に復興計画が決定され、1972年には、小笠原国立公園に指定された。近年では漁業、花卉(かき)、果実、野菜の栽培などが行われるほか、マリンスポーツやドルフィンスイム、ホエールウォッチングなど、さまざまなレクリエーションが楽しめ、観光業が盛んである。しかし、社会施設は不十分であり、島の自立には多くの課題を抱えている。2010年現在の人口は2785人である。[沢田 清]
文化財
江戸開府以来400年間、政治・文化の中心となってきたために、東京都区域には多くの貴重な遺産が残されている。江戸城跡は特別史跡で、そのうち本丸・二の丸・三の丸跡は皇居東御苑(ひがしぎょえん)、北の丸は北の丸公園として開放されている。重要文化財の外(そと)桜田門あたりから皇居外苑にかけて江戸城跡と内堀(うちぼり)に映える近代高層建築の織り成す景観は東京でももっとも美しい所である。鷹狩(たかがり)地から甲州松平家の下屋敷、6代将軍家宣(いえのぶ)の別邸であった旧浜離宮庭園と水戸家上屋敷跡の小石川後楽園(こうらくえん)はともに特別名勝・特別史跡である。白金(しろかね)長者邸跡と伝える旧白金御料地(国立自然教育園)は史跡・天然記念物で、往古の武蔵野の姿と中世の館(やかた)をしのばせる。柳沢吉保(よしやす)邸跡の六義園(りくぎえん)は特別名勝に指定、江戸庶民の風流を育てた向島百花園は史跡・名勝に指定されている。
 史跡では、以上のほかに常盤(ときわ)橋門跡、高輪(たかなわ)大木戸跡、湯島聖堂、旧新橋―横浜間鉄道創設起点跡、志村および西ヶ原の各一里塚、それに考古学上有名な弥生(やよい)二丁目遺跡(弥生式土器の名の発祥地)と大森貝塚・亀甲山古墳などがある。なお、第三砲台であった台場公園品川台場、墓地として高輪泉岳寺(せんがくじ)の浅野長矩(ながのり)および赤穂(あこう)義士墓、三田長松(ちょうしょう)寺の荻生徂徠(おぎゅうそらい)墓、向ヶ丘大円(だいえん)寺の高島秋帆(しゅうはん)墓、台東区橋場の平賀源内(ひらがげんない)墓、文京区大塚の大塚先儒墓所、品川区東海寺の沢庵(たくあん)および賀茂真淵(かもまぶち)墓などがある。これらをみれば史跡の多くは江戸時代のものであり、江戸の歴史をいまに残している。
 天然記念物には、港区善福寺のイチョウ、練馬白山(はくさん)神社の大ケヤキ、三宝寺池沼沢植物群落、江戸城跡のヒカリゴケ生育地などがある。
 重要文化財の建物では、東大の赤門、旧寛永寺(かんえいじ)と池上本門寺の五重塔、ニコライ堂、増上寺の三解脱(げだつ)門、慶応義塾大学の三田(みた)演説館と図書館などがある。
 国宝・重要文化財指定の美術工芸品は、東京国立博物館をはじめとする公立・私立の博物館・美術館に集中し、その数は京都府に次いで多い。
 東京都区域に比べ多摩や島嶼地区は文化財に乏しいが、史跡として武蔵国分寺跡、八王子の滝山城跡、八王子城跡など、天然記念物として府中の馬場大門ケヤキ並木、御岳の神代ケヤキ、伊豆大島のサクラ株、シイノキ群叢(ぐんそう)、火山島の鳥(とり)島など、重要文化財として金剛寺不動堂(高幡不動尊(たかはたふどうそん))、それに都内唯一の国宝建造物として、東村山市の正福寺(しょうふくじ)にある千体地蔵堂がある。
 以上は国指定であるが、さらに都および市町村指定の文化財があり、貴重な文化遺産として後世に残るよう保存に努めている。[沢田 清]
民俗芸能
東京は国際的なオペラや現代音楽、前衛的な舞踊など日本全国の先端をゆく芸能が展開、国際的な感覚や風習を取り入れている。しかし、一方では江戸時代からの民俗芸能も年中行事のなかで受け継がれ、新しい東京と古くからの江戸がともに受け入れられているところに特色がある。
 東京は祭りに始まって祭りに終わるといっても過言ではない。神輿(みこし)や山車(だし)も交通混雑や予算難、地域組織の弱体化などで一時は衰える傾向をみせたが、安定経済下の1980年代から人間優先主義が叫ばれるとともに、民俗芸能もふたたび隆盛をみせている。江戸の里神楽(さとかぐら)は土師(はじ)流とよばれ、埼玉県の鷲宮(わしのみや)神社の催馬楽(さいばら)神楽が江戸に伝わり、江戸の文化・文政(ぶんかぶんせい)期(1804~1830)には盛んに行われたといわれる。明治維新には37社中を数えたが、いまでは台東区の若山、荒川区の松本、品川区の間宮、稲城(いなぎ)市の山本の4社中となり、神社の祭礼日に奉納されている。
 江戸の伝統を引き継ぐ東京の年中行事は、1月1日の初日の出、初詣(はつもう)でに始まる。6日の出初(でぞめ)式には江戸の「鳶木遣(とびきやり)」が唄われ、七福神巡りが各所で行われる。7日には大田区六郷神社で「流鏑馬(やぶさめ)」があるが、利島(としま)八幡神社の流鏑馬は1日に行われる。15日は大島町吉谷神社で正月祭として「巫女(みこ)舞」が舞われる。三宅島では神事として御祭神社で8日に「巫女舞」や「王の舞」「剣の舞」が行われる。2月は板橋の「田遊び」(国の重要無形民俗文化財)が11日に北野神社、13日に諏訪(すわ)神社で演じられ、その年の豊作が祈願される。3月は高尾(たかお)山薬王院で「火渡り祭」があり、4月は大田区天祖神社で「禰宜(ねぎ)の舞」、品川神社で「太太(だいだい)神楽」、葛西で「祭囃子(ばやし)」が行われる。5月は府中市大国魂神社(おおくにたまじんじゃ)の「くらやみ祭」、浅草神社の「三社祭」と「びんざさら会(え)」、神田明神(みょうじん)の「神田祭」があり、6月に入って山王日枝神社(さんのうひえじんじゃ)の「山王祭」、そして7月になると各地で獅子舞(ししまい)が演じられ、隅田川で「形代(かたしろ)流し」が行われる。さらに14日には大田区厳正寺で「水止(すいし)舞」が舞われ、8月の「盆踊り」で夏の祭りは頂点となる。新島(にいじま)の盆踊りは「大踊(おおおどり)」とよばれ(国の重要無形民俗文化財)、古風な振(ふり)で、精霊(しょうりょう)踊りの特色である顔を隠す形式を残している。八丈島でも地方色豊かな樫立(かしだて)の「場踊(ばおどり)」や「手踊(ておどり)」、八丈太鼓にあわせて踊る「太鼓節」が公開される。この間、神津(こうづ)島の物忌奈命(ものいみなのみこと)神社では8月の例祭にかつお釣り神事(国の重要無形民俗文化財)が行われる。9月は奥多摩町小河内(おごうち)の「鹿島(かしま)踊」(国の重要無形民俗文化財)が15日を中心に青年の女装姿で踊られる。この踊りには初期の歌舞伎(かぶき)踊りの遺風を認めることができる。檜原(ひのはら)村では笹野の神明社(しんめいしゃ)が14日、小沢の伊勢清峯神社が第1土曜日に「式三番」が舞台で演じられる。同じく奥多摩の日の出町春日(かすが)神社の祭礼(9月末の日曜日)に、古く京都から伝えられたという「鳳凰(ほうおう)の舞」が太鼓にあわせて勇壮に舞い踊られる(「下平井の鳳凰の舞」として国の重要無形民俗文化財)。10月は池上本門寺に「お会式(えしき)」があるが、三宅島では10日の御笏(おしゃく)神社大祭に「神鍋(かんなべ)舞」や長々と神歌を歌う「大神楽」がある。11月は「七五三(しちごさん)」の行事や「明治神宮祭」があり、12月は新島で8日の十三神社の祭礼に木遣唄を唄っての珍しい獅子舞が演じられる。「義士祭」「冬至祭」「納めの不動詣で」と続いて除夜の鐘を迎え、1年の年中行事は終わる。
 市(いち)は季節を映している。1月の昭島(あきしま)市本覚院「だるま市」、2月は北区王子稲荷(いなり)神社の「凧(たこ)市」、5月は台東区浅間(せんげん)神社の「お富士山の植木市」、7月は入谷鬼子母神(いりやきしもじん)の「朝顔市」と浅草寺(せんそうじ)の「ほおずき市」、10月は中央区宝田恵比寿神社(たからだえびすじんじゃ)の「べったら市」、11月は台東区鷲神社(おおとりじんじゃ)や新宿花園神社(しんじゅくはなぞのじんじゃ)などでの「酉(とり)の市」、12月は浅草寺の「ガサ市」と「羽子板市」、世田谷の「ボロ市」、鳥越神社の「歳の市」で1年を終えるが、季節に敏感な人々の生活の節目(ふしめ)といえよう。
 江戸っ子の心意気をみせる芸能としては、正月出初式での梯子(はしご)乗り、8月の富岡八幡宮の深川祭などで演じられる木場(きば)の「角(かく)乗り」と深川の「力持ち」があり、重い木材などを運ぶときの「木遣唄」もその一つである。都市化の遅れた奥多摩や島嶼では、古くからの民俗芸能が現在に伝えられ、それぞれの風土のなかで強く根づいている。それに対して、つねに新しく変わってゆく都区域では「バードウィーク」や太宰治(だざいおさむ)をしのぶ「桜桃忌(おうとうき)」、他県から受け入れた「阿波(あわ)踊」、「大銀座祭」や「古本まつり」など新しい形の民俗行事を創造し、郷土の民俗文化として根づかせることが行われている。[沢田 清]

伝説

毎年の陰暦3月15日になると、墨田区木母(もくぼ)寺の梅若(うめわか)塚で大念仏を行う習わしがある。梅若塚は伝説の「梅若丸」を祀(まつ)ったものと伝えているが、これは狂女物の謡曲『隅田川』で知られているように、人買い伝説の一つである。千代田区大手町の高層ビルの谷間に、平将門(まさかど)の「首塚」がある。将門の首は京都へ送られて東洞院(ひがしのとういん)で獄門になった。ある夜、その首が白光を放って空高く舞い上がり、はるか関東をさして飛んでいってこの地に落ちた。それを埋めて塚を築いたという。その後、首塚にはしばしば祟(たた)りがあり、それが近年にまで続いて恐れられたと伝えている。1寸8分(約5センチメートル)の秘仏と伝えられる「浅草観音」は、浅草寺(台東区)の本尊であるが、この秘仏は、昔、江戸の浦から引き上げられたという由来がある。神が海から寄ってくるという神の降臨の形式は、日本独自の信仰であるが、浅草観音も各地の霊社霊地の神々と同じ信仰が生んだ伝説である。海中から観音を拾い上げた檜熊(ひのくま)兄弟と土師臣中知(はじのおみなかとも)の3人は、三社権現(さんじゃごんげん)に祀られた。三社さんとよばれている社がこれである。江戸城を築いて居城とし、大江戸を開く端緒をつくった太田道灌(どうかん)は、室町中期の武将。道灌は武勲の人であるとともに、文人とのつきあいも厚く、和歌のたしなみも深かった。道灌と少女との間にあったと伝える「山吹(やまぶき)の里」の和歌の伝説地は、神田川に架かる面影橋(おもかげばし)(新宿区西早稲田(わせだ))であるという。しかし、同じ地名と伝説をもつ場所は都内各所にいくつかあり、いずれが本家か明らかでない。「感応丸(かんのうまる)と柳の前(やなぎのまえ)」の悲恋伝説は『望海毎談(ぼうかいまいだん)』に出ている。不忍池(しのばずのいけ)(台東区)の東岸に住む若者が対岸の娘と恋仲になり、毎夜、丸木橋を渡って通ったが、ある夜、継母(ままはは)が橋板を外して2人を死に追いやったと伝えられる。本郷駒込(こまごめ)から火を発して江戸市中をほとんど焼き払った天和(てんな)の大火は、「八百屋の娘お七(しち)」の放火であった。この事件が歌祭文(うたざいもん)や浄瑠璃(じょうるり)などに潤色され伝説化されている。お七の墓は円乗(えんじょう)寺(文京区白山1丁目)にある。「四谷(よつや)怪談」の田宮屋敷(新宿区左門町)の跡には田宮稲荷、お岩稲荷がある。この伝説は鶴屋南北(つるやなんぼく)の『東海道四谷怪談』で広く知られるようになった。お岩の供養塔は妙行(みょうこう)寺(豊島区西巣鴨(すがも))にあるが、この劇に出演する俳優はかならず参詣(さんけい)に行く習わしがある。怠ると不慮の災害にあうと信じられている。[武田静澄]
『『東京市史稿』既刊164巻(1911~ ・東京都) ▽内藤昌著『江戸と江戸城』(1966・鹿島出版会) ▽青野寿郎・尾留川正平著『日本地誌7 東京都』(1967・二宮書店) ▽児玉幸多・杉山博著『東京都の歴史』(1969・山川出版社) ▽山口恵一郎他著『日本図誌大系 関東』(1972・朝倉書店) ▽『東京百年史』全6巻(1972~1973・東京都) ▽竹内理三編『角川日本地名大辞典13 東京都』(1978・角川書店) ▽川崎房五郎著『江戸わがふるさと』(1980・ぎょうせい) ▽貝塚爽平著『東京の自然史』(1980・紀伊國屋書店) ▽『朝日旅の百科 東京の旅』全6巻(1980~1981・朝日新聞社) ▽小木新造編『江戸とは何か 5 東京学』(『現代のエスプリ別冊』1985・至文堂) ▽陣内秀信著『東京の空間人類学』(1985・筑摩書房) ▽玉井哲雄著『江戸』(1986・平凡社) ▽石塚裕道・成田龍一著『東京都の百年』(1986・山川出版社) ▽竹内誠・古泉弘・池上裕子・加藤貴・藤野敦著『東京都の歴史』(1997・山川出版社) ▽山下宗利著『東京都心部の空間利用』(1999・古今書院) ▽藤野敦著『東京都の誕生』(2002・吉川弘文館) ▽市川宏雄編著『図解 東京都を読む事典』(2002・東洋経済新報社) ▽平凡社地方資料センター編『日本歴史地名大系13 東京都の地名』(2002・平凡社) ▽大浜徹也・吉原健一郎編著『江戸東京年表』増補版(2002・小学館) ▽小木新造・陣内秀信・竹内誠他編『江戸東京学事典』新装版(2003・三省堂) ▽鈴木理生編著『図説 江戸・東京の川と水辺の事典』(2003・柏書房) ▽槌田満文編『江戸東京職業図典』(2003・東京堂出版) ▽石川悌二著『江戸東京坂道辞典コンパクト版』(2003・新人物往来社) ▽東京都山岳連盟著『東京都の山』(2005・山と渓谷社) ▽東京都編『東京都戦災誌』(2005・明元社) ▽東京都歴史教育研究会編『東京都の歴史散歩』上中下(2005・山川出版社) ▽小木新造著『江戸東京学』(2005・都市出版) ▽初田亨著『図説 東京 都市と建築の130年』(2007・河出書房新社) ▽北島正元著『江戸時代』(岩波新書) ▽岩波書店編集部編・岩波映画製作所写真『東京都――新風土記 川本三郎セレクション』復刻版(岩波写真文庫) ▽横関英一著『江戸の坂東京の坂』全2巻(中公文庫) ▽矢田挿雲著『江戸から東京へ』全9巻(中公文庫)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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