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曹操【そうそう】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

曹操
そうそう
Cao Cao; Ts`ao Ts`ao
[生]永寿1(155)
[没]延康1(220).洛陽
中国,三国時代の王朝の基礎を固めた武将。沛 (はい) 国しょう (安徽省) の人。追尊して武皇帝という。宦官養子の子であるが,黄巾の乱平定に功を立ててから頭角を現し,やがて献帝戴して許を都とし,縦横に武略をふるうようになった。官渡の戦い袁紹を破り (202) ,次第に群雄を退け,華北をほぼ平定してから南下をはかったが,建安 13 (208) 年孫権劉備連合軍赤壁に戦って敗れ (→赤壁の戦い ) ,以後もその勢力は江南に及ばなかった。同年丞相,同 18年魏公,同 21年魏王の位についた。彼は政治上の実権は握ったが,みずからは帝位につかず,また文学愛好者としての魅力をももっていたようである。後世奸臣の典型とされてきたが,近年中国ではその再評価をめぐる論争が行われた。

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デジタル大辞泉

そう‐そう〔サウサウ〕【曹操】
[155~220]中国、三国時代の武将。魏(ぎ)始祖。譙(しょう)(安徽(あんき)省)の人。字(あざな)は孟徳(もうとく)。後漢末、黄巾の乱鎮圧を機に勢力を伸ばし、中国北部を統一。南下を試みたが、赤壁の戦いに敗れ、孫権劉備とともに天下を三分した。魏王となり、死後武帝と追尊された。

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世界大百科事典 第2版

そうそう【曹操 Cáo Cāo】
155‐220
中国,三国時代事実上の創建者。太祖武帝と追尊される。父は後漢の有力な宦官曹騰(そうとう)の養子。曹操は若いときは策略にたけた非行少年として評判はよくなかったが,なかなかの勉強家で,とくに兵法書物を好み,《孫子》13編の注を書くなど,きたるべき〈乱世の姦雄〉になるだろうと評する人もあった。20歳で宮仕えを始め,いくつかの官を歴任したのち,184年(中平1)の黄巾の乱では一部将として討伐に手柄を立て,済南国(山東省)の相(代官)となった。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

そうそう【曹操】
155~220) 中国、三国時代魏の始祖。字あざなは孟徳。諡おくりなは武帝。廟号びようごうは太祖。黄巾の乱を平定。後漢の献帝を擁して華北を統一したが、江南進出は劉備・孫権の連合軍に阻まれた。詩賦をよくした。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

曹操
そうそう
(155―220)
中国、三国魏(ぎ)の創設者。諡(おくりな)は武帝。字(あざな)は孟徳(もうとく)。沛(はい)(しょう)(安徽(あんき)省亳(はく)県)の人。祖父の曹騰(そうとう)は後漢(ごかん)の桓帝(かんてい)に仕えた宦官(かんがん)。父の太尉曹嵩(そうすう)はその養子である。曹操は20歳で孝廉(こうれん)に推挙され、郎中となってからは武職や県令国相を歴任した。強大な軍隊をもっていた董卓(とうたく)が少帝を廃立して献帝を擁立すると、189年、(えん)州己吾で起兵し、袁紹(えんしょう)を盟主と仰ぐ董卓討伐軍に参加した。しかし戦況は不利で、逃亡する士卒も多かった。董卓が死ぬと、袁紹、袁術ら群雄は各地に割拠し対立抗争した。192年、青州の黄巾(こうきん)軍が州に侵入すると、曹操は迎えられて州牧と称してこれを討ち、黄巾の精鋭30万を翼下に編入し(けんじょう)を拠点として軍閥を形成した。また、陶謙(とうけん)や呂布(りょふ)を破って東方の徐州に勢力を及ぼし、袁術や黄巾軍の支配下にあった西隣の予州の一部を収めた。青州の黄巾軍をはじめ、各地で投降した黄巾軍や募兵、流寓(りゅうぐう)の徒などを吸収して直属の軍隊として編成し、兵と民との身分上の分離を行った。195年、献帝により州牧に任命され、翌196年、献帝を予州の許に迎え、棗祗(そうし)らの献策を用いて、許などの州郡に田官を置き、屯田をおこし軍糧の確保に努めた。
 こうして、曹操が経済力、軍事力を蓄えると、冀(き)、青、并(へい)、幽の四州に軍閥を形成していた袁紹との対立は避けられなくなった。200年、官渡の戦いによって袁紹を大破して、ほぼ華北を統一した曹操は、冀州牧を領し、(ぎょう)に移って根拠地とした。このころに施行した田租と絹綿を徴収する税制は、西晋(せいしん)の税制の前駆をなすものである。208年、後漢(ごかん)の丞相(じょうしょう)となった曹操は、引き続き荀(じゅんいく)、陳羣(ちんぐん)、鍾(しょうよう)などを属官として任用した。彼の腹心の臣には法家刑名の学の伝統が根強く残る潁川(えいせん)出身の者が多く、信賞必罰や肉刑などにその影響が現れている。荊(けい)州牧劉表(りゅうひょう)が死に、その子劉(りゅうそう)が戦わずして降服すると、曹操は襄陽(じょうよう)など荊州北部を併合し、さらに南下して江陵に進撃した。ついで劉備・孫権の連合軍と赤壁に会戦したが、敗れて退却し、天下三分の形勢となった。曹操は西方に転戦して関中を平定し、魏公の爵位を授けられ、三女を献帝の貴人とした。ついで外戚(がいせき)の夏侯淵(かこうえん)に涼(りょう)州を平定させて領域の拡大を計り、皇后伏氏を廃して、中女を献帝の皇后にたてた。また、曹操は、漢中に勢力をもつ五斗米道(ごとべいどう)の首領である張魯(ちょうろ)を親征し、216年魏王の位につき、事実上の皇帝となった。曹操は博識多芸で詩賦、草書、音楽、囲棋(囲碁)、方術などをよくし、また兵書や兵法に精通するなど、文武両面に優れていた。[上田早苗]
『狩野直禎著『三国志の知恵』(講談社現代新書) ▽川合康三著『中国の英傑3 曹操』(1986・集英社)』

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精選版 日本国語大辞典

そう‐そう サウサウ【曹操】
中国、三国時代魏の始祖。字(あざな)は孟徳。太祖武帝と追尊された。後漢に仕え、黄巾の乱に功があり、献帝を擁立して華北を手中にした。赤壁の戦いに敗れたが、孫権、劉備と天下を三分。屯田制・兵戸制・戸調制などの諸制度を確立。文人としても、建安文学の中心的存在。(一五五‐二二〇

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