鎌倉後期の僧一遍
(いっぺん)(智真
(ちしん))を開祖とする浄土教の一派。時宗の名は一般に『阿弥陀経
(あみだきょう)』の「臨命終時
(りんみょうじゅうじ)」に由来するといわれ、平生を臨命終時と心得て、怠りなく称名念仏
(しょうみょうねんぶつ)することを意味する。一遍は、同志として彼と同行する個人および集団を「時衆
(じしゅう)」とよんでいる(『一遍聖絵
(ひじりえ)』第5その他)。また、一向
(いっこう)に(ひたすら)阿弥陀仏の名号
(みょうごう)を唱えることを肝要としたので一向衆とよばれ、一所不住を本旨としたから遊行衆
(ゆぎょうしゅう)ともいわれた。時宗として宗名が確立し一般化するのは、江戸時代に入ってからのことである。
[広神 清]一遍は同行の時衆を伴って一所不住を実践する遊行回国の布教の旅で、「南無阿弥陀仏
(なむあみだぶつ) 決定往生
(けつじょうおうじょう) 六十万人」と記した札(算)を結縁
(けちえん)の人々に分け与えて(賦算
(ふさん))念仏を勧めた。また、時衆は踊念仏を興行して、人々を宗教的法悦に誘い込んだという。歓喜踊躍
(かんぎゆやく)した群衆が輪になり、口々に「南無阿弥陀仏」の念仏を唱え、鉦
(かね)をたたきながら乱舞するさまは、『天狗草紙
(てんぐぞうし)』や『野守鏡
(のもりのかがみ)』に記録されており、その独特な布教方法に人気の集中したことがわかる。一遍は在世中つねに「我
(わ)が化導
(けどう)は一期
(いちご)ばかりぞ」(『一遍聖絵』第11)といって、とくに後継者の育成や教団の結成に意を用いることはなかったが、弟子の他阿真教
(たあしんぎょう)(二祖、1237―1319)の代になると、各地に道場や寺が建立されて時衆の止住(定住)が始まり、教団も成立をみて統制のための規則が制定された。さらに真教のあとの他阿智得
(ちとく)(三祖)は、遊行をやめて寺や道場に止住する事情を、檀家
(だんか)の要請によるやむをえぬことと説明し、しかし「心は遊行に候也
(なり)」と述べている。時衆の全盛期は鎌倉後期より室町前期までで、信者の中心は武士であったが、一般庶民の間へも広がりをみせた。時衆僧は仏僧としての教化活動のほかに、広く茶道、花道、連歌、書画などの分野でも才能を示し、武将の軍営に仕えて戦死者葬送の儀を執行し、あるいは情報提供の任をも務めたという。時衆の衰微は、室町後期の浄土真宗の急激な膨張とともに始まった。寺院数411、教会数2、教師数537、信者数5万8950(『宗教年鑑』平成26年版)で、時宗教団の規模は他宗のそれと比べて小さいが、神奈川県藤沢
(ふじさわ)市にある総本山の清浄光寺
(しょうじょうこうじ)(通称遊行寺)には、室町時代の古式に従う法要が伝えられている。
[広神 清]時宗教義の系譜をさかのぼれば、開祖一遍の師事した聖達
(しょうたつ)は、法然
(ほうねん)(源空
(げんくう))門下の西山証空
(せいざんしょうくう)の弟子であったから、聖達を介して浄土宗西山派の教義が一遍に影響を及ぼしているといえる。西山義では、衆生
(しゅじょう)(機または所化
(しょけ))と阿弥陀仏(法または能化
(のうけ))とは一体不二
(ふに)であるとして、「機法一体」「能所不二」を説くが、これがやがて一遍の教法の根幹をなすのである。一遍はその教法を「十劫
(じっこう)に正覚
(しょうがく)す衆生界 一念に往生す弥陀の国 十と一とは不二にして無生を証
(しょう)し 国と界とは平等にして大会に坐
(ざ)す」との「十一不二偈
(げ)」に表した。さらに、彼は、機法一体は「南無阿弥陀仏」の名号において実現されるとし、「六字の名号は一遍の法なり 十界の依正
(えしょう)は一遍の体なり 万行離念して一遍を証す 人中上々の妙好華
(みょうこうげ)なり」との「六十万人偈」を記した。これは熊野権現
(ごんげん)の神託に基づくので神勅
(しんちょく)ともいわれている。ここでは、南無阿弥陀仏の名号こそ衆生救済の絶対力を有するということが強調されている。
[広神 清]『柳宗悦著『南無阿弥陀仏・一遍上人』(1960・春秋社) ▽大橋俊雄著『時宗の成立と展開』(1973・吉川弘文館) ▽平田諦善著『時宗教学の研究』(1977・山喜房仏書林) ▽今井雅晴著『時宗成立史の研究』(1981・吉川弘文館) ▽河野憲善著『一遍教学と時宗史の研究』(1981・東洋文化出版) ▽今井雅晴著『中世社会と時宗の研究』(1985・吉川弘文館) ▽一遍研究会編『一遍聖絵と中世の光景』(1993・ありな書房) ▽石田善人著『一遍と時宗』(1996・法蔵館) ▽渡辺善勝著『一遍智真の宗教論』(1996・岩田書院) ▽砂川博著『中世遊行聖の図像学』(1999・岩田書院) ▽武田佐知子著『一遍聖絵を読み解く』(1999・吉川弘文館)』